90歳で亡くなった京セラ創業者・稲盛和夫さん。私が経済番組「ザ・リーダー」で、稲盛さんを取材したのは6年前で、一度は多忙を理由に断られたが、手紙を書いてアプローチを続け、取材許可をいただいた。
企業のトップらに焦点を当て、素顔を浮き彫りにするコンセプト通り、稲盛さんと共に生まれ故郷の鹿児島から中国・瀋陽へ、半年間にわたる取材は、結果的に稲盛さんの“人生最後の密着取材”になったと聞いている。心に残った稲盛さんの姿や言葉を書き留めたい。(MBS報道情報局 経済班キャップ:中村真千子)
京セラを一代で世界的企業に成長させたカリスマ経営者。取材当時は84歳の名誉会長で、高齢にも関わらず、常に分刻みのスケジュールで動いていた。
合間を縫って話を聞けるのは、毎回5分程度。「息つく暇もないですね」と水を向けると、「周りの皆さんが頑張ってくれていますから、わたしは全然です」と。
この丁寧な「私は全然です」は、稲盛さんの口ぐせだったのだろうか、取材中何度も聞いた。かつて経営者として厳しい口調も多かったとも聞くが、いまは誰に対しても態度を変えず、丁寧な言葉遣いで等しく謙虚に対応されていた印象だ。
いっぽう当時すでに、体調が万全とはいえない状況もあった。密着取材の期間中、講演後に予定していたインタビューが急遽キャンセルされるなど、80歳を超えて当然のことだが、それでも稲盛さんの教えを請いたいという経営者らの期待に応えようと、どこにでも出向いて、常に人を和ませていた姿を覚えている。
中国で熱烈歓迎 涙流す塾生も
特に、熱狂的な支持者で溢れていたのが中国。稲盛さんが会場に入ると、参加者は総立ち。まるでコンサートのような派手な演出ではじまり、その一挙一動に目を輝かせ、歓喜し、涙する塾生らが何人もいた。円卓を囲む大懇親会では、「直接話したい」塾生が稲盛さんに殺到、苦肉の策で人のバリケードができるなど、別格の扱いだった。
そんな中でも稲盛さんは飄々としていて、大好きな赤ワインを水のごとく飲み、歓談を楽しんでいる。すると稲盛さん、遠巻きに取材していた私に気付き、ひょいひょいと手招きする。傍に行くと 「あなたも飲みなさい」とワインの入ったグラスを差し出された。「仕事中ですから」と辞退すると、人差し指を口元に寄せ「シー(内緒)」と。イタズラっ子のような表情だった。
桜島を背景に「市街地から海を隔てて、こんな雄大な島があるというのは世界中どこにもありません、生まれ故郷は自慢です」とふるさと・鹿児島を愛してやまなかった稲盛さん。貴重なプライベートの時間である両親の墓参りに同行した際は、こんなやりとりをした。
―――ご両親は、いまの稲盛さんをどう見ていると思いますか。
「喜んでくれていると思う」
―――でも、ここまでくるまでに、相当な努力をされたわけですよね、大変でしたか。
「大変でしたけど、がんばることが大切なんです。結果もそうですが、自分の自信になって、それが次につながっていきますからね」
私はこれまで、同じような会話を誰かとしていたかもしれない。でも稲盛さんだからだろうか、言葉がストンと心に入った。当時私は、双子の兄妹が小学校に入ったばかりで、仕事と育児の両立に悩む「小1の壁」に当たり、とにかく“不安と焦り”の日々だった。そんな時にかけられた一言で、何となく肩の荷が下りたような、背中を押してもらった気になった。
「とりあえず、できることをがんばろう」あの時の言葉が繋がって、いまも経済記者として現場に立ち続けることができている。
当時のスタッフと稲盛さんの話をすると、必ず出るエピソードがある。アナウンサーと稲盛さんが対談した日。京セラの迎賓施設「和輪庵」で半日近くかけて収録した後、稲盛さんから急遽、食事のお招きを受けた。こうしたケースは稀だそうだ。
京都のなじみの店だという中華料理店で食卓を囲んだが、緊張していて正直、あまり味は覚えていない、稲盛さんは飼いネコ「くーちゃん」の愛らしい話をされ、お酒もあってざっくばらんに会話させてもらっていた。食事の場には、当時二十歳過ぎのカメラ助手(※写真の前列右下が助手、後列真ん中が筆者)がいて、彼は人生で初めてフカヒレというものを口にし「むちゃくちゃ美味しいです!!」と感激の声を上げていた。すると円卓の対面にいた稲盛さんが目を細めて「それはよかったです。たくさん食べなさい。遠慮しないでたくさん食べなさい」と、孫を見るようなやさしい笑顔で、彼に何度も何度も声をかけていた。その助手は成長して今はカメラマンとなり、日々ニュース現場を駆け回っている。
11月の「お別れ会」で、稲盛さんと交友のあった建築家の安藤忠雄さんやiPS細胞研究所の山中伸弥教授などに話を聞くと「厳しい方だったが、本当に優しい人でもあった」と皆、口を揃えた。私が取材した晩年の稲盛さんは穏やかな印象が強いが、経済記者として、“厳しさ”が前面にでていた時代の稲盛さんをも取材してみたかったとは思う。もちろんそれは叶わないのだが。多くの人を惹きつけた唯一無二の人物は、企業家である前に「人として何が正しいのか」という問いに正面から向き合い、困難を乗り越えてきた。それをわかりやすく言葉にすると“がんばろう”。改めてこれからもがんばろうと思う。