そう。昭和34年(1959年)に松竹新喜劇の曾我廼家五郎八さんという人の弟子になったんよ。京都花月が出来たことで、1館しかなかった(新喜劇の)公演が2館に増えた。出来て、1館しかなかった公演が2館に増えた。当時吉本に橋本専務(橋本鐵彦のちに社長)と言う人がいて、うちの先生と友達やったわけ。その専務が先生に「若いのをちょっと貸してくれ。劇場が2つになったから役者が足らんねん」と。で、僕は一時リースされたわけよ。ふふふ。その時、うちの奥さんが2年も3年もおれへんから、舞台慣れだけでもしといで、と。先生の草履取りをしていても、セリフはせいぜい、「はい」か「いいえ」しか言われへん。向こうへ行ったら役もつくだろうしということで。行く前は、まだ「吉本バラエティ」も、吉本の劇場があるということも知らなかった。で、行く前に「1回見といで」と言われて見に行ったら、「こりゃ芝居ちゃうわ」と思たんや。テンポは早いし、みんなしゃべってるだけ。「芝居ちゃうな」と思ってしばらく考えてたんや。そしたら奥さんに「何考えてんの!」と怒られて(笑)。2年も3年もおれへんと言うてたのが、もう53年になるねん。借られっぱなしや。ははは。貸した方も借りた方も亡くなって、誰もいてへん。
当時、松竹が経営していた劇団新春座という、直営の劇団があって、これは歌舞伎俳優と新劇の俳優が合併して作った。だから洋物もやれば時代物もやる、そういう劇団やった。まずそこへ入れられました。そこは、確か研究所生、研究生、準劇団員、劇団員と、1年ごとにランクが上がっていく。確か2年半か、3年くらいいたかな。(吉本へは)とにかく京都花月の初日に入ったから。
(初日に?)
そう、吉本での初舞台は京都花月。
(役柄は?)
年寄りをやると言うたから年寄り役をやった。学校(尼崎産業高校)演劇で年寄り役をやっとったんや。それでNHKの高校演劇の近畿地区代表で東京の全国大会まで行ったんよ。その時にやったのが、年寄りのおとっつあん役。一番物覚えのええ頃に年寄り役をやってるから、それが身についてもたんやねえ…うん。年取ってからや、若く見られるのは。中邨さん(のちの中邨秀雄社長)から「お前変わっとんな。だいたい3枚目か2枚目をやりたいって言うで。年寄り役て…」と言われた。もちろんステレオコントとかポケットミュージカルの時はカツラをかぶらずに若い役でも出てたけど、芝居はほとんど、年寄り役で、平参平さんの友達役とかをやってた。
(何歳くらいの時ですか?)
20歳になっとったかな。高校時代を入れたら、16、17歳の時から年寄り役をやっとる。背中を丸めないかんと思って、おふくろに固い枕作ってもろて、わざと背中丸めたんや。そしたら、完全な猫背になってしもうて。それからは、ずっと年寄り専門やわ。まわりに年寄り役の人がおれへんかったからね。みんな20歳代の若いもんばっかりでやっとったから。花紀さんでも20何歳、岡さんで僕より3つ上、30歳を超えてたのは、白羽大介さんと平参平さんくらい。みんな若かったよ。そんな中で年寄り役をやるから、貴重がられたね。
今と変われへんけど、当時はもうちょっと芝居が入っとったわ。
(松竹新喜劇とは全然違いました?)
そんなん比較したらバチが当たる。向こうは本格的な喜劇や。こっち(吉本)はコントやんか。質が違うねん。
(抵抗があったのでは?)
あった、あった、あった。だからしばらく悩んどったんや。それで、奥さんに怒られたんや。「何考えてんの!」て(大笑い)。とにかく、来た以上はやらんとしょうがない。参平さんにも怒られるし。「もっとテンポだせ」って。普通の芝居やったら、ゆっくりやもん。機関銃のようにセリフをしゃべらない。たしかにテンポはなかったと思う。僕は自分のセリフに印を入れるけど、ある時、えらい多いな~と思って、勘定してみた。もちろん出ずっぱりやったけど、300個くらいあったわ。今やったら考えられへん。50分くらいで300個しゃべってみ、ごっついで。しかも1人でしゃべってるのと違うねん。ぎょうさん(皆)でしゃべってる。だから、よっぽどテンポあったと思うわ。
もう全部忘れていくからねえ。ただ、「愛染ぱらぱら」というのがあったかな、これはね、平さんが病気しはって、稽古の時から参加できなくて、代役で出してもらって。その芝居が印象に残ってるわ。オレが三角八重さんを好きで、秋山たか志さんがわしの娘が好きで、秋山さんに渡す手紙をオレにくれて、オレにくれなあかん手紙が秋山さんに渡って…待ち合わせ場所の愛染さんの境内に行ったら、娘が待っていて、「なんでここにおんねん」と。あの芝居は面白かったわ。なんにも言う必要ないもん。「なんでお前があんなところにおったんや」って言うだけで笑う。うちの先生(曾我廼家五郎八)も言うとった。「お前らなんであんなに一生懸命いらんこというて、笑わせにかかっとんねん。わしらセリフに書いてあるとおりにしゃべってて、笑うんやで」と。それはもうわかっとったからね。「一言言うて、みんなでコケてんのは、あれ、なんでや」とも聞かれたけど、「あれはギャグなんです」と言っても、先生にはわかれへんしなあ…ハハハ。僕が弟子入りして半年ぐらいしてからか、「親バカ子バカ」というのが舞台でごっついウケたんや。それを読売テレビが番組にするということで、テレビドラマになった(1959年12月)。それで一躍有名になりはった。そこから藤山寛美さんもスタートした。それまで渋谷天外先生(二代目)について勉強したはったから、ものすごい芝居上手やったね。
あれは木村(政雄)さんが言うとったけど、僕は本気で言うてないと思った。やめるはずあれへんもん。当時、誰やったか「新喜劇にだけ重圧与えないで。吉本は新喜劇だけちゃうやろ」と言うとった。でも、あれはアイディアがよかったわ。それで持ち直したもん。
(ほかの仕事を考えましたか?)
どうせ役者しかあれへんから。親父のところに帰るしかないわな。でも何の不安感もなかったし。単なるキャンペーンやと思ってたから。それは自信あったわ。(新喜劇を)なくすはずはない、と思ってね。
あれはもう、偶然、偶然。「~ねやわ」というのは、京都弁の言葉尻。純粋な京都の人は「そやねんやわ」と言うわ。ちょっと訛ってるけど、もともとは京都弁ですわ。三途の川は、(岡)八郎さんと芝居をやっていて、ポッとセリフを忘れたんや。あ、しもた!何やったかな、ちょっと待ってな、何やったかな、なかなか思い浮かべへん。しょうがないな、ちょっとだけ寝てしもたろと思って…(笑)グーッと寝てて、「寝とんかいな!おっさん」と言われて、その時、ピュッとセリフを思い出して、「よう起こしてくれた!思い出したわ」。それがスタートやった。ほんまのセリフ忘れから出てきたんや(笑)。その後、みんなが膨らましてくれたんや。ギャグは自分で作ろうと思ってやったことはない。芝居をやってる途中に自然に出たものや。足のギャグは平参平さんのを見て、何かやらなあかんなと思って、固まった足を一生懸命動かしてからすっと歩き出して「この方が早いわ」とやったら、平さんから「考えたな、こら」と言われたね。
(即答で)これはマンネリの良さやと思うわ。それと、みんながそれぞれちょっとずつ考えて、現場で笑ってもらおうと思ってやってるから。それが功を奏しているのと違うかなあ。みんなの努力やわ。笑えへんかったら笑うように、いろいろするからね。この頃、ちょっと思うのは、笑われてるのに、笑ろてもうてるみたいに錯覚してる時がある。
(どういうことですか?)
例えば、ギャグを言うたり、セリフが面白かったら、笑ってくれるのは、これは笑ろてもうてる。そやけど、セリフを噛んだり、トチったりして、「お前のセリフやないか!」とか言うのは、完全に恥さらしや。それは失敗してるのを、笑われてんねん。笑ろてもうてるのと違うねん。それも笑いのなかに入ってしもた。相手の失敗を突っ込んでいくのもあるけど、昔は絶対突っ込めへんかった。相手が失敗したらカバーしとった。お客さんには絶対、失敗をみせへんかった。今なんか、相手が(カバーしないで)途中で黙ってる。あれは、笑われてる。この数が多いやろ?(笑)なんでもええから「笑わせろ」いうなら、そやねんけど。僕、昔、言うたことあるもん。「そんなにウケたかったら、フリチンで走れ!」て(笑)。ホンマに(笑)。絶対、ウケるから。そんなムチャしてどないすんねんって言うたことある。あの頃はまだ俺もしっかりしとったからな。今は歳とって、ポンコツになってもうて…。身体が弱いからね~あんまり長丁場出られへんし。肺を悪くしてるから、酸素がすぐ、足らんようになってしまうねん。今は完全に若い子に頼ってるわ。
昔はゴルフもやっていたけど、今は運動系がダメやから、写真やね。ずっと写真が好きやった。8ミリカメラやったり、ビデオも持って映していたけど、そのビデオをうちの娘が失いよって。そんなに歩かれへんから、ビデオも休憩。今はなんもない。テレビ見るだけや。(お城も好きかと?)城もよく見に行ったよ。写真でどっから撮ってもきれいなんは城や。写角的には、ものすごいええもん。(オススメのお城は?)やっぱり、姫路城やろな。あと親元が熊本やから、熊本城、あれもええけどな。ま、大阪城は後に建てとるからな。鉄筋や。(うんちくは続く…)
2014年7月談
井上竜夫さんは2016年10月5日に亡くなられました。
ご冥福をお祈りします。
1941年11月8日兵庫県出身。