MBS(毎日放送)

池乃めだか

2023年9月になんばグランド花月(NGK)で行われた、池乃めだか傘寿記念公演『ちっさいおっさんの今日はこれぐらいにしといたるわ!』の出番を終えためだかさんにお話を伺いました。80歳を迎えためだかさんにとって新喜劇とは?

―傘寿記念公演を迎えられていかがですか?

まだ実感がわきませんけどね。明日、楽日(らくび)の2回目公演が終わった時に、なにか押し寄せてくるものがあると思います。今回は酒井藍ちゃんにお任せして、舞台の原案をやってもらって良かったなぁと思っています。新喜劇は喜劇ですからね、笑ってもらわなあかんねんけど、藍ちゃんもどっちかというたら「お芝居が好き」というところがあってね。藍ちゃんの座長公演の舞台に、僕が出してもらえる日はそういうのが多いですね。僕もそういうのが好きなんでね、良かったです。

―めだかさんと藍さんが扮する祖父と孫が心を通わせるシーン、母親役の浅香あき恵さんのお芝居にもジーンとくるものがありました。

やっぱりあき恵さんの力も大きいね。今回の公演にかかわってくれた皆さんには感謝の思いでいっぱいです。

―先日、ネットニュースにもありましたが、今年2月に脳梗塞を発症されていたんですね。ビックリしました。

そうそう。自分から言うのもなんやしね。たまたま検査にマネージャーさんがついてきてくれて、1回目の舞台が終わって、検査の後に2回目の舞台をする心づもりでいったんやけど、病院の先生に「ありがとうございました、(舞台に)行ってきます」と言ったら、先生に「今から入院してもらわんと!」って引き止められて、そのまま2回目は出ずに入院しました。

―舞台に立ち続けていらっしゃるので、まさかという思いでした。

いやぁ、歩くのもやっとこさやからね。セリフも、ものすごい慎重にしゃべってますもん。ゆっくり、ゆっくり、慌てんと。早口は言えないからね。

―体調を崩されてから舞台で意識していることはありますか?

これっていうのはないね。とりあえず、自信は持っておかないとあかん。「もう倒れるかもわからへん」とか、普段はそんなことばっかり考えてますからね。でも、舞台に出る限りは「もう俺は大丈夫なんや!」という感じで、自分に言い聞かせています。弱気になったらそっちに引っ張られるからね。

―新喜劇に入団されて47年、これまでをふりかえっていかがですか? 一番うれしかったことは?

漫然とその日、その日を、とりあえず一生懸命にね、やってきた感じです。うれしかったことは、やっぱり(間)寛平ちゃんがでてきますね。寛平ちゃんと全国の色々なところに行ったり、外国へも行ったり、舞台を一緒にやってきて、一緒に笑ってもらったり、一緒にすべったり、思い返されますね。

―「舞台人」の池乃めだかさんが考える「笑い」とはなんでしょうか?

難しいねぇ。とにかく、新喜劇に入ってから80歳になるまで心掛けてきたのは、できるだけ下ネタを使わないこと。下ネタでウケてもあまりうれしくないしね。極端に言ったら、誰でも笑いがとれそうな気がしてね。そこは、ずっとこだわってきましたね。そらたまには、やってしまったり、言ってしまったりしたこともあるでしょうけど、やっぱりそういうのは潔くない。僕の中では“逃げる”ということになるのですが、下ネタをしても面白く思えないです。僕は新喜劇に入る前に漫才をやっていましたから。漫才をやっていた時の師匠である海原小浜さんという方に、明けても暮れても聞かされた舞台に対する考え方、それが影響していますね。「下ネタとお客さんをいじるのはやめときや」と。「お客さんをいじったら、誰でも笑うわな」って、ずっと嫌っていましたね。

―お客さんいじりもダメですか?

楽じゃないですか。漫才やってて、僕らが客席を見て、お客さんの反応がもう一つやなと思う時でも、漫才やってるときに誰かが席を立って、「あ、トイレ行くんでっか、行ってらっしゃい。気を付けてね」と、こんなこと言ったらね、絶対笑うんですよ、お客さん。それはもう漫才を外れてるというか、楽して笑いをとれる。だから、なかにはそっちへ走る、そんなことばっかりやってる方もいらっしゃったけどね。そういうのを小浜師匠はダメやと言うてましたね。新喜劇のお芝居でも、お客さんをいじったら言語道断やと思うんですよ。やっぱり話の筋を離れんように、離れそうなぎりぎりのところで、笑いをとる。それが僕にしたらかっこええなと思うんですよ。

―現在の新喜劇は100人を超える座員さんがおられます。これからどうなってほしいという思いはありますか?

今まであったものを壊して新しいものを作っていく気持ちはいいことやと思うし、それはいいんですけども。一時期は、古いものを捨てて、「これが新しい笑いや」いう感じで、お客さんが笑うねんから、いじろうと何しようと笑わしたら勝ちやねん、みたいな方に行きかけたりしたこともあったけどね。やっぱり歴史は繰り返されるというか、酒井藍さんでもそうやし。お芝居をしながら、お芝居のなかから笑いをとっていこうと。ただ単に笑わすだけのギャグというんですか、ボケとかね、そうではなくお芝居をしたい、という若い人たちも結構増えてきてるからね。もちろん新しい時代になっていかなあかんと思うんやけども、古いものの良さを全部捨てるんじゃなしに、今までやってきた古いものの良さを残していってほしいなと思いますね。いや、残していってもらえそうな予感がしてますね。

―9年前のこの座員インタビューでは、「誰でもわかる」のが新喜劇の魅力だとおっしゃっていました。

そこは、やはりそうやと思いますね。なんら予備知識もなしに笑えるしね。あらかたストーリーを先に聞かせて、「見どころはこうなんです」ということもなく、今入ってきて、今見て、今そのなかに入っていけるということがね、いいところかなと思いますね。

―最後に、今回の傘寿記念公演の放送を楽しみにしてくださっている視聴者の方に一言お願いします。

今回は私じいさんと、孫娘の藍ちゃんとの話なんですけども、定番ぽいギャグもいっぱい出てきますが、普段よりはちょっと人情のほうに比重がかかっていると思います。どうかそれでも、ご覧になっている方に「こんな新喜劇もあるんやな」という形でご容赦いただきたいと思います。なかには、「湿っぽい話なんかええねん、もっと笑いとれ、笑い」という方もいてはるやろうからね。そういう方々には申し訳ないけども、こういうのもあるんやとご理解ください(笑)。

2023年9月24日談

▼以下は2014年9月1日に伺ったインタビューです。

第11回 池乃めだか

明けても暮れても子どもの役ばかり。嫌で嫌で、やめようと思った。

―芸人になられた経緯を教えてください。

中学を出てからすぐに某電機メーカーという会社に勤めておったんですが、辞めることにして。さして辞める理由もなかったんですが、大企業でのん気に、何の刺激もなく毎日を送っていることに飽きが来たというか、何か冒険してみようと。そういうスタイルが流行ったんです。まわりに会社を辞めて町工場に行った人とかもいた。僕も、とりあえず会社を辞めようと、退職願いが受理されて、9月にやめることになった。さあ、なにをしようか。何の当てもなかったんですが、たまたま漫才師の海原小浜さんの息子(海原やすよともこの父)が友達やったから、小浜さんの弟子にしてもらおうとしたけど、断られて…。その時に来てはった人に「俺らと一緒にやろか」と誘われて、音楽ショーに入ったんですよ。3人で「ピスボーイ」というトリオを組みました。9月20日に退職して、10月1日が初舞台やからね。その間ね、一応、音楽ショーの面接みたいなのを受けて、「どこまでできるかわかりませんが、やります」「ドラム叩いたことあるか?」「スティックも持ったことありません」。「それなら明日から習え」ということで、メンバーの1人に10日間みっちりドラムを教えてもらって、10月1日に初舞台を踏んだんです。
(速成ですね。音楽的素養があったのでは?)
いや~なかったでしょう。ムチャクチャやったもん。終わるなり、「辞め!」と言われたけどね。それでも1年3か月やりましたね。解散になって、今度は(海原)やすよともこのお父さんと「海原かける・めぐる」という漫才コンビを組むことになりました。
(その時は入門という形で?)
いや、入門じゃない。小浜師匠にはとりあえず、「あんたは弟子やない。一夫(かけるの本名)の友達として、私の用事をしとったらええからね」と言われました。良かれと思って、遠慮せんでもええで、弟子じゃないからそんなに一生懸命頑張らんでもいい関係というか位置だったんですね。

―漫才はどのくらい続けられたのですか?

8年半くらいやって、新喜劇に移ったんです。
(吉本への移籍ということですね)
音楽ショーとかける・めぐるは最初の頃、松竹芸能やったんです。で、昭和47年(1972年)に吉本移ったんかな? 29歳の時にかける・めぐるとして、吉本興業へ移籍するんや。23歳でこの世界入って、33歳の時(1976年)に新喜劇、その前に移籍したんです。
(移籍後、コンビが解消になりますね)
当時の吉本の八田(竹男)さんから「吉本に居りたいんか? なら、また漫才の相方捜しとけ。その間、飯食わなあかんから、とりあえずポケットミュージカルスだけ出してもらえ」と言われて、5か月ほどポケットミュージカルス専門に出してもらっていたんですよ。

―ポケットミュージカルスはどんなことをやっていたんですか?

僕はまだ新喜劇の人間とは違ったけど、新喜劇の人がコントをやって、コントのつなぎ目に、なんば花月、うめだ花月、京都花月それぞれの専属の歌手の人がおって、5~6人の生バンドで歌を歌って、歌が終わったらコント、コントが3つくらいあったかな。コントの合間合間に歌があって、というのが、ポケットミュージカルスのスタイルでしたね。
(その時にご一緒されていたのは?)
当時のポケットミュージカルスは寛平ちゃん、(木村)進さんね、ほかに室谷信雄さん、伴大吾さん、やなぎ浩二さんとか。花紀京さん、岡八朗さんら大看板の人や、原哲男さん、桑原和男さんらはポケットには出てないんです。新喜劇の中の若手が、ポケットミュージカルスに出てたんですよ、その中から、「面白い」と認められたら本業の新喜劇に反映されたり、いい役がついたり。つまり、ポケットミュージカルスは養成所みたいな感じかな。その後も「やめよッカナ?」くらいまでは、あったのと違うかな? ポケットミュージカルスを5か月ほどやって、八田社長が「相方見つかったか?」「まだ見つかってません」というと、「とりあえず芝居も出とけ。そのうちエエ相方が見つかるかもしれん、俺も捜しといたるけど。芝居も勉強になるやろ」「はい、わかりました」ということで。まことに失礼な話ながら、自分の気持ちの中では、漫才の相方が見つかるまで、という腰掛けのつもりで新喜劇に入ったんですよ。

―当時の座長さんは厳しかったのでは?

情はあるけどね、花紀さんや岡さんが目を光らせてはるから、今みたいに 誰でも彼でもがボケられない。そういう時期が来るまで、なかなか笑いを取ったり出来なかったしね。今なんかはほんとに自由で、若い子も幸せやなあと思うんですよ。若い子が「こう、こうしますから、ここでこう、突っ込んでもらえます?」って言うてきよるんですよ。「お~やれ、やれ」と。そんなことはとんでもない時代やった。台本にないことを自分が考えて挟み込んでというのはなかった。そういう意味では厳しかったかも知れんね。

―新喜劇で決まった役柄はありましたか?

最初、嫌やったんはね、明けても暮れても子役でね。それで新喜劇やめよう、やめよう、ばっかり思ってたんですね、何年か。ほんとの子役。小さいから子どもに変装しろとか言って、そこから笑いとか、筋が運ぶとかじゃなくて、ほんまの子ども役。セリフも「おかあちゃん、何か買おてーえーな」とかちょっとしかあれへんし。誰かに手を引かれて出てきたり、たまにこまっしゃくれたこと言うて。セリフも一出番で3つか4つ。それが1年くらい続いたんですよ。短パンとロングソックス、黄色いキャップ、もう、ゾッとするわ(笑)。その時、辞めようと思って。漫才の相方も決まりかかってた。で、会社に「漫才しようと思うんですけど」と相談したら、「やるんなら他所でやってくれ、うちはこんなん考えてるんや」と、見せられた出番表ね、6月の中席(当時は10日づつの上演)に書いてある名前が大きいんですよ。谷しげる座長、次の副座長。こういう位置で考えてるんだけど、漫才やるんやったら、しょうがないわな、他所行ってやってもらおか。で、ずるいけど、「ほな、もうちょっと考えます」言うて、相方に話をして…。それが(いま)寛大君ね、当時(はな寛太と)別れとったからね。こんな話になったから、もう一度新喜劇で頑張ってみようと思う、ごめんな、天秤にかけるようなことして、と言ったら、何にも言わんと、「わかった」と言うて引いてくれた。それで新喜劇に残ったんやけど、大してセリフも変わらず。子役はなくなったけど。そうこうしてるうちに、当時は座長が寛平組、進組、谷組と3組あって、花紀さん、岡さんはゲストいうて、どこにでも出られることになっていた。そのうち組み替えがあって、寛平ちゃんの組に僕が入って、寛平ちゃんと仲が良かったし、それで猿VS猫のギャグも生まれた。その頃から手ごたえのある、新喜劇人生を歩み始めたんですね。

―やがて「やめよッカナ?」キャンペーンが来ます。

お客さんが新喜劇始まったら、帰ってしまう。百年一日の如く、マンネリ感もあったんやろけど。お客さんって勝手なもんやから、そのマンネリが面白んや、と言って来てはったのに、そこまでになるかというくらいお客さんがいなかった。新喜劇が始まったらお客さんドーッと立って帰ったりね。会社としては、これではいかん、なんとかしないと、ということになったんでしょうね。
(多くの方がやめられることに…)
その前に肩たたきがあったんですよ。今、自主的にやめられる方がいたら申し出てください、その方は給料の(当時は給料制)3か月分を渡します、と。手を挙げた人は2人か3人。だからやめた人は少ないですよ。その後、新生・新喜劇をなんばグランド花月(NGK)でやる時(1989年)に、10月に「真田十勇士」を1か月やったんですが、その時に大﨑(洋・現吉本興業社長)さんが、稽古が始まる前に、「今ここに出てもらっている人たちが、これからの新喜劇のメンバーだと思ってもらって差し支えございません」と言われた。そこから今田耕司とか東野幸治とか、木村祐一、ほんこん、板尾創路、石田靖、そこに吉田ヒロとか島田珠代とか若い子らと合体して新しい新喜劇が始まったんです。その時に残っていたのは、桑原和男さん、井上竜夫さん、原哲男さんくらい。中山美保さん、末成由美さんも出てなかったね。とりあえず大﨑さんが「今までのギャグは封印してください」と言うて、「真田十勇士」を1か月間やったんですけどね、どないしようもない感じで…。11月はうめだ花月に出て、12月にNGKで「チュウチュウ忠臣蔵」が1か月あったんですよ。その時また大﨑さんが稽古が始まる前に、「ギャグは封印を解きますから、どんどんやってください。めだかさんもカニバサミやってください。」となって、現在の新喜劇にだんだん戻ってきたんですけどね。若い子の中には「新喜劇をやるためにNSC入ったのと違う」と言ってる、というのを聞いたこともあるけど、会社から言われたからしょうがない、という子もいた。でも芝居の面白さに目覚めてくれた子も居る。今田君もそうやし、板尾君もいま、俳優っぽいでしょ。でもまあ最初、半年くらいはやっぱり、ギクシャクしとったね。ただ僕らも吸収するものがあったからね。そんなことしたらアカンということも多々あったけど、こういう形もあるのか、それもアリかみたいなことも。向こうは向こうでおっさんらがやってる古いのを見て、こうしたら大きい笑いが取れるとかを覚えたり。互いに吸収しあいつつ、エエ感じになってきたな~と思ったら、みんな東京へ持って行かれたんですよ。

―そこから、またニューリーダーの下、現在につながる新喜劇になるわけですが、そんな新喜劇の魅力とは?

…何やろ?上手い言葉が出てけえへん。とりあえず、歌舞伎や狂言を観るというと、この前僕も狂言を初めて観に行ったけど、予備知識とかある程度知ってないとわからない。歌舞伎座に歌舞伎を観に行くといったら、小学校の子は行っても面白ない。新喜劇は初見でも、小学生でも笑えるところは笑えるし、話の筋もわかる。大衆的なとこ、庶民的なとこ、わかりやすいこと。その代わり、噛んだとか、失敗した、セリフを忘れたとか、そんなんでも笑いを取ったらOK。それを好まない人は、ほかの劇場を見に行くか、入っても来はれへんと思うけど。新喜劇がなぜ続いてるかというと、そういうとこじゃないかと思うんですよ。誰でもわかる、そこがいいところやと思いますね。

2014年9月1日談

プロフィール

1943年7月3日大阪府出身。

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