MBS(毎日放送)

第9回 浅香あき恵

女優になる!はずだった。つなぎのつもりの新喜劇でずるずると…。

―もともと女優を目指されていたんですね。

中学2年の時の学芸会で三枚目のお婆ちゃんをやるハメに陥りまして…。やりたくなかったんですが、私が断れない性格なのをわかっている子に推薦されたんです。それが、本番の舞台に1歩踏み出した時、「ええぃ!」って開き直れたんです。そこで世界が変わったというか…。それまで誰にも注目されない、おとなしい静かな恥ずかしがりの子が、学校で「あの面白いお婆ちゃんやったのは、あの子やで」と、クローズアップされることになって、私の仕事はこれだ!と。「女優になる!」と決めたんです。当時、九州に住んでいて、親は地方公務員。なんのきっかけもなく、どうしたらいいかもわからなかったんですが、アタマの中は「なる!」という思いでいっぱい。すると、思い込みどおりに回りが動くというか、高校2年の時、家の事情で大阪に来ることになって、天王寺商業に入って演劇部に入りました。当時、四天王寺高校の演劇部に秋野暢子さんがいらした時代。文学座の演劇研究生に中村雅俊さん、藤田美保子さん、高橋洋子さんがいて、「文学座に入ったら、女優になれる!」と思って、文学座を受けました。願書に一般常識とあったので、一般常識の勉強をしたんですが、それが演劇の一般常識。チェーホフは何を書いたかとか…。まったく出来ず、次の年も文学座を受けようと、東京に住むつもりでしたが、知り合いの人から「ご両親の元にいられるし、芝居にも関われるし」とすすめられて、つなぎで入ったのが吉本新喜劇だったんです。
(女優から急転直下ですね)
私の頭の中には新喜劇とかお笑いとか、まっ、たく、なかったんです。家族で花月に行った時も私は下の(当時なんば花月の地下にあった)蝋人形館へ行きたい、というくらい。興味も何にもなかったんです。

―最初は進行係だったとか。

入る時に、冨井さん(冨井善則氏)から金曜日に「いつから来るねん?」と聞かれて、「じゃあ月曜日から」というと、「じゃ、月曜日からおいで。月曜からな、まず進行というのをやってもらうわ。進行で顔覚えてもろてな、それから新喜劇、はいり」そんなんやったんです。あの時代だったから入れたと思います。で、1か月ちょっと進行をやりまして、昭和51年の7月21日が初舞台ということで。進行係として6月14日に入ったんです。
(初舞台を覚えてますか?)
初舞台の時は、セリフはなくて、ちょうど幕締めのお祭りのシーンで、やぐらの上に船場太郎さんと中山美保姉さんがいて、みんなが集まって盆踊りを踊るというエキストラ状態で出ました。次の舞台で初めてのセリフが「ありがとう」だったんですけど、演劇部の時は1ページ2ページのセリフをしゃべっていたのに、その一言がどんなに難しいか、というのは身に沁みました。「侮るなかれ新喜劇」と思いました。

―この時代、セリフをもらっていくのは難しかったのでは?

ツイてたと思うんです。お盆の時に、花紀兄さんが座長で、片岡あや子さんがマドンナの芝居がありました。花紀兄さんが「この台本はマズい、あや子は俺の嫁になった方が絶対オモロイから。娘は…そこ、お前!なんかセリフ言えるやろ」と抜擢されて(笑)。家族も見に来たんですが、恥ずかしくて見てられないような舞台でした。初めて着物を着て、かつらをかぶって、利休という歯の細い下駄を履かされました。あや子姉さんが始めて化粧をしてくれたんですけど、彫りの深いあや子姉さんと同じ化粧をしたもんやから、私が舞台に出て行ったら、みんなが笑い倒してセリフが出て来ないような状態。その上、利休を履いてるもんやから、ちょっと歩いたらコロン、ちょっと歩いたらコロンとこけて。最初は花紀兄さんが「うちの娘は小さい時から足が弱いねん」と、何回かフォローしてくれたんですが、そのうち「お前、動くな!」と。立ち聞きするシーンも、当時は細かい演出がなかったので、姿が見えたらアカンという素人考えで、足しか見えてない。そういう失敗を繰り返した10日間でしたね。
(けっこう、ヘコみました?)
ヘコんでませんね~。わかってないから、怒られても何もかも新鮮で。ヘコむのはヘコみますが、浮き上がりが早いんです。どっかで楽天的なんですね。

―その後、どうなりましたか?

全国ネットの公開コメディー番組「それいけ!新伍迷探偵」(MBS製作1978年1月~3月放送)に出るチャンスをいただいたりして、ずるずると…。その頃は劇場も3館あったので、組が3組あって、30代のヒロインをそろそろ変えていこうという時代。高橋和子ちゃん、園みち子ちゃんと私が3人娘的な状況で、作家さんが役をつけはじめたんです。次から次へと役を与えてもらえて、肌で感じながら覚えていきました。「お芝居しなさい」とはものすごく言われたし、木村進兄さんからは「相手のセリフを聞きなさい、相手のセリフを聞いて自分がそれに答えたくなった時が、誰の間でもない、お前の“間”やから」と。花紀兄さんには「声を出しなさい。どんな面白いこと言うてても声が届けへんかったらお客さんは笑ってくれへん」。平参平さんからは「ほんまに泣くんじゃない、泣いたら鼻水が出て声がうわずるから。いかにも泣いてるように見せるのがお芝居や」とか、いろんな事を教わりましたね。

―先輩からあまり教えてもらえなかったという人も多いですが。

いや~教えていただきましたよ。とくに進兄さんなんかは芝居一家の人ですし、今でも覚えているんですが、成人式の着物が買えない女の子の役をした時、セリフを泣きながら、「私だけなんで着物が買えないの?」とか言っていたら、リハーサルの後で、「悲しいから泣くんじゃなくて、けなげというのは、そういうセリフを笑いながら言ってみると、また違う感情が出てくるもんやで」と言われて、微笑みを浮かべながらセリフを言ってみたら、涙がとめどなく出てきて、すごく感情が入ったんです。先輩のアドバイスは自分が納得しようとしまいと、一度はやってみて、やってみた時に得られたものがすごく大きかったと思います。アドバイスしていただいた事は糧になってます。寛平兄さんは本能の方で、何をしたら受けるかというのを本能で嗅ぎ取りますから、勉強になりましたね。

―その後、「やめよッカナ?キャンペーン」になりますね。

そう。突然、新聞で知ってね…
(新聞で?)
全然そういう状況になっているのを知らないから、先輩の名前と私の名前が出てて、「どこへ行く?」みたいに書かれていて。でもピンと来てなかったんですよ。で、1人1人、ミスター吉本と呼ばれた木村政雄さんとか大﨑さん(現大﨑洋社長)の面接があったんですよ。その時に、「漫才やってくれへんか?」と言われたんです。いくよ・くるよ姉さんとハイヒールまでの間がいないので、その辺の年代で女性漫才師が欲しい。君はそっちの方がいけそうなんで、全部面倒見るからやってくれへんか、と。後になって実はそれは辞めさせようとしていたと気づいたんですが、その時は会社に期待されてる、みたいに思ってしまって…。自分は漫才をやる気もなかったけど、期待されているんやったら、一回はやって、また帰ってきたらいいわという甘い感じで受けました。

―漫才はどうでしたか?

相方探しになって、最初は女性を捜してたんですが、確か中田カウス兄さんでしたか、「あき恵ちゃん見とったら男の人に突っ込んでる方が面白い、一ちゃん(島田一の介)なんかどうやねん?」といわれ、一の介兄さんとコンビを組むことになりました。自分では、今喜多代師匠にも似てるし、(宮川)花子姉さんにも似てるし…イメージで漫才をやってるんですね。役者が漫才師を演じてるんです。ほんまに自分が役者やなあと思わされた時期でした。営業では芝居もやる二足のわらじだったので、芝居が新鮮に思えて、もっと面白くなって、どう考えても自分は漫才じゃない、元々芝居が好きやったんやと。一の介兄さんも同じで、新喜劇に戻してもらったんですが、新喜劇ブームでぐわぁ~っと動いている時に戻ってきて、名前は「小田真理」にしろと言われるわ、なんか、浦島太郎のようでした。たかだか1年半の間に、様変わりして、演出家がついたり、いろんなことが全部変わっていて、精神的についていけない。営業やお休みも多くて、自分がどんな風に身をおいたらいいのか全くわからなくなった。そんな時にうちのパパ(Wヤング佐藤武志)からプロポーズを受けたんです。考えたら、この時、新喜劇ブームに乗っていたら、いまだに独身で子どもも産んでいないと思うんですよ。乗り遅れたからこそ、自分の事をいろいろ考える時間がありました。

―葛藤もあったかと思いますが。

結婚したのは37歳の時。12月に結婚して、すぐに子どもが出来たんで、メッチャ悩みましたね。こんな仕事の状況で子ども産んだら、戻られへんわ、と。もともと「子どもいらんねん」って言ってたほど、子どもが好きじゃなかったんです。でも実際子どもが生まれたら、全部が変わったんですよ。こんな食べてしまいたいくらいかわいいものはない。車とかが向かって来たら、間違いなく前に飛び出すことが出来る、って。仕事がないことに対する不安よりも、子どもと会える方がうれしかった。たまに営業、時々劇場、あとは休みで子育て、という状況が何年か続きましたね。すべてがうまく回っていると気づいたのが、40歳の時なんです。雑誌の取材を夫婦で受けた時に、マイナスなことを言うたらアカンと思って、しゃべっているうちに、あれ?何もかもが上手いこといってるんや、私くらい幸せな人はいない、と。考え方がガンと変わったんですよ。そこから楽になりましたね。躍起になることもなくなって、毎日ありがたいな、楽しいな、でいけるようになりました。それまでどっちかというと楽天家なのに、思考がネガティブシンキングで「なんで私だけ?」とか「どうしてなの?」とか。でも前向きに考え出すと、状況が変わるというのを身にしみて思いました。少しずつ劇場にも出してもらえるようになりました。

―ブサイクキャラはいつ誕生したんですか?

それはね、内場君、辻本君や石田君に感謝、なんです。新喜劇に私の戻るポジション的なものがなかった時に、舞台で誰かからブサイクと言われたら、めっちゃお客さんにウケたんですよ。最初はただの「ブサイク」というのが1、2回だったんですが、みんな嗅覚が鋭いから、「この人をイジるとおいしいぞ」と。私も舞台の上では負けてないから、それに対して言い返す。お料理人の手によって、うまく料理してもらいました。最近はエスカレートして汚物みたいな扱いになってますけど…(笑)。

―新喜劇にはまだ女座長がいませんが…。

これは私の持論ですが、新喜劇は男芝居やと思っているんです。女性が何かをして、回したら、どうしても弱くなるし、突っ込みもそう。爆発するような威力のあるものにはならない。女祭りとか、お客さんに納得させてイベントみたいな形では出来るかもしれないけど、新喜劇自体を女性が取りまとめてやっていくのは、かなりハードルの高いもので、難しすぎる。今はまだそこまでの時代は来てないと思う。今、女性でも笑いを取ってもいいというのが普通になってきてるのは、ずいぶん、進化してると思います。私が入った時は、添え物でよかった。女性が笑いなんて取らんでいい、ちゃんとお芝居してればいいといわれて育ってきた。島田珠代ちゃんとか入ってきた時に、いらんお説教したことあります。「まず、お芝居を覚えて、そこから始める方がいいんじゃない?」って。でも、時代の流れを読み違えていたと思います。そういうキャラクター的なものが先にあって、人気が出てもいい。この先、どんどん進化して、私のいる間に女性座長が出てくるようになったらいいんですけどね。

―今、ハマっていることは?

ハマっているのは、韓流ドラマですぅ~。「冬ソナ」が最初ブームになった時には別に何ということもなかったんですが、番組の企画で見ることになって、ハマってしまって…。そこからずーっと見続けてますね。10何年。
(浮気しないタイプですね?)
しないんですよ!真面目なんですよ!ほんとに。ゲームでもね、しょーもないゲームでみんな止めてしまっても、最後のゲームセットになるまでやり続けているんです。納得せんと終われないんです。
(お芝居もまだ納得しない?)
私、もともと九州で、土壌にボケとか突っ込みとかないところで育っているせいか、笑いがまだ全然わかってないんですよ。私生活で、みんなボケを交えて会話をしはるけど、私、真面目な話しか出来ないんですよ。今からボケますよ、って状態なら出来るけど、普通にしゃべっている時に織り交ぜられない。いまだに笑いに対して自信がない。「これでいい」がないんです。お客さんの反応に一喜一憂してます。

2014年7月談

プロフィール

1956年10月23日大分県大分市出身。
1976年6月入社・吉本新喜劇研究生。

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