第31回 アキ

常にチャレンジャーでいたいんです!!


―アキさんはスタントマンから始められたんですね。

東映京都撮影所の宍戸(大全だいぜん)グループにお世話になりました。「水戸黄門」(TBS系)でもお世話になってて、由美かおるさんの吹き替えとかずっと。
(え!? そうなんですか?)
「お前のラインがいい。後姿が女性っぽいから」と(笑)。ずっと編みタイツはいてやってました。

―そんな世界に飛び込まれたきっかけを教えてください。

きっかけは、高校3年生の時に、世の中に名前を残したい、と思ったんです。で、自分に何が出来んねん? と考えた時に、フッと役者ってどんなんかな? と考えて、すぐに自分の足で太秦(東映京都撮影所)を覗きに行って、門の前に半日くらいおったんです。松方弘樹さんだったり、松平健さんだったり、若山富三郎さんだったり、少年隊の東山さんだったり…「うわっ、こんなに有名人いっぱい、生まれて初めて見たわ」と追っかけの人に混じって、ぼーっと見てたら、撮影所の中から1人の男の人が「君、何や?」って、声をかけてくれはって。「何でもいいからここで働きたいんです」と言ったら、「なんでもええって?」て、ちょっと半笑いされたのを、今でも覚えてます。「掃除でも何でもいいんです」というと、「学生時代何してた?」と聞かれて、「野球と格闘技です」と答えたら、「ちょっと道場においで」と、門から中へ入れてもらいました。道場で宍戸大全師匠に空手の型を見せたら「明日からでも来なさい」と言われて。そっからスタートですね。
(明日からって、高校生では?)
高校3年のちょうど冬休みと春休みの間で、もう卒業だし、学校へ行ったり行かなかったりの時です。
(初めてのお仕事は?)
1週間後にテレビ出てました。ABCの「ナイトINナイト」で、今、太秦映画村で忍者ショーやってますという特集があって、そのショーに出してもらったんですが、「あ、もうテレビ出れる!」みたいな。友達にも「もうテレビに出てるから!」って自慢して、「え~っ!?」って(笑)。

―スタントのお仕事はどんな感じでした?

その頃東映京都撮影所では、10本以上作品の撮影があって、毎日、黒板にバーッと何組がどことか書いてありました。「必殺仕事人」「暴れん坊将軍」「水戸黄門」…。いろんな女優さん、俳優さんの現場で殺陣の勉強させてもらいました。
(華やかな時代でしたね)
はい、毎日1本は時代劇が放送されて、年末年始は長時間の大型時代劇があって、大忙しでした。ちょっと合間があったら、誰々のお芝居見に行こかとか、生で見れたりして、ものすごい芝居の勉強させてもらいましたね。プラス、殺陣、アクションの見せ方、乗馬…斬られて走っている馬から落ちる練習や、屋根から飛び降りないといけないんで、最上階の5階から飛び降りる練習とか、車に轢かれる練習とか。野生のイノシシと闘うとか…。
(え? 野生のイノシシと闘う?)
何で闘うねん? って思いながら…でも闘うんですよ。麻酔2本くらい打ってるんですけど、強いんですよ。全然効いてないんです。メッチャ怖かったですね、野生のイノシシって。動物園で見ると全然違いました。
(今ならCGですね…)
あの頃は命がけの仕事が何個もありました。辛かったのは嵐山の川。夜中の撮影で、冬場の冷たい川に、斬られて、ジャブッとはまる役が多かったんで。あれは、冷たかったですね。はまる前から、ものすごい寒いんです。

―スタントマン生活はどのくらい?

2年ですね。3年やろうと思ってたんですけど、高校時代の友達だった(後の水玉れっぷう隊の)相方(ケン=松下賢示)が自衛隊に行ってて、2年任期で辞める前に、京都の福知山駐屯地におって、ちょくちょく京都で遊んでたんですね。僕の話を聞いてるうちに、相方が「僕も東映へ行きたい」と言い出して。そのタイミングで、僕が役者は置いといて、「お笑いってどやろ?」と切り出したんです。相方もびっくりして「えっ、お笑い!?」。そんな甘い世界でもないやろし、1年だけ思いっきりやろうかと。1年でもう全然違うなってなったら、2人でお店やってもいいし、って約束したのは覚えてますね。

―何でいきなりお笑いなんですか?

松方弘樹さん、田村正和さん、若山富三郎さん、みんなめっちゃオーラあるなあ~って思ってました。そんな時、オール阪神・巨人師匠が時代劇のゲストに来はったんです。オール阪神・巨人師匠も僕ら関西人からしたら、すごい漫才師さんですけど、めちゃめちゃ腰を低くされてたんです。「オール阪神・巨人です、よろしくお願いします」とあいさつされている姿を見て、魅力を感じたというか、感動したんです。意識をしてテレビを見てたら、お笑いだけじゃなく司会もこなされて、芸人ってすごいねんな、って。

―どうやってお笑いの世界へ?

そうなんです。宍戸大全師匠も「はあ?」となって。先輩からも「どういうコネで、どうやって行くねん」と言われましたが、何のコネもなかったんです。そんな時、たまたま東映のメンバーで、大阪のミナミに遊びに行って、ショーパブ「アランドロン」の人に、スカウトされたんです。僕以外、みんな東映養成学校のメンバーで、身長も180cmくらいあって、男前で、「1回ショー見に来てくれへんか?」と誘われました。それから半年か1年後かなあ、大阪へ行った時に見たら、本格的ですごいかっこ良かったんです。店内は100席ほぼ満席状態で、ステージにセリもある。ビシッと踊って、アクロバットもやって、笑いもちゃんと取っていて。それで相方と吉本行く前に、養成学校に行くつもりで、ここで1、2年やらせてもらおかとなって。で、社長に相談して、吉本行きたいんで1年後には辞めます、ちょっとここでダンスやら、お笑い、ステージ、お客さんを経験したいんです、と言って、そこから、ステージ、生のお客さん相手にネタ作ったり、コントやダンスの振り付けを自分らで考えたりしてました。
(修業を積まれたわけですね)
1日2ステージあって、日曜だけが休み。けっこうなステージを生のお客さん相手にやらせてもらって、ネタのストックもけっこうありました。やっぱり、横山アランドロンさんがやっていらした店なんで、お笑いは本格的に指導してくれてはるし、いろいろご指導いただきました。そこに、NGKでチケットのモギリをやっている女性が見に来ていて、「心斎橋2丁目劇場で一般も混じったトーナメントがあるから、それに出たら?」と教えてもらったんです。2丁目フレッシュリーグで優勝して、次のチャンピオンリーグでも優勝するやろと言われてました。自分らもこんなところでつまづいてる場合やない、負けてる場合やないぞ、2年間ずっと舞台踏んできたんやからと思ってたんですが、決勝で千原さん(千原兄弟)に負けたんです。今でも忘れられないですね。次の時に優勝して、2丁目のレギュラーに…。吉本に入った時には、僕らが一番若いくらいでした。NSC10期生の卒業生と一緒くらい。ジャリズム(解散)であったり、メッセンジャーだったり。同期から「松竹おったん?」とか「他の事務所におったん?」と言われましたね。「アランドロンって何?」って何回も聞かれました。

―本格的に水玉れっぷう隊として活動が始まったわけですね。

今でもメッチャ覚えてますね。吉本入って1年くらいは、半年後にNGKのオーディションにも受かって、2丁目劇場の舞台もNGKの舞台も出させて貰って、夜は「アランドロン」のステージがあって、その頃、東映でかわいがってもらってた殺陣師の先生からの紹介で、歌舞伎座の近藤真彦さんの舞台にも出させて貰ったりとか、3種類くらいやってました。吉本入った1、2年はメッチャ忙しかったですね。
(いきなりフル回転ですね)
1日1日、体調を崩さないように。迷惑をかけんようにするのが大変やったのを覚えてますね。

―いろんなことをやって来られてますね。

そうですね…漫才1本でやってはる人から見ると、「何を何個もやってんねん」っていう話なんですけど。僕も相方もけっこうな負けず嫌いなんで、漫才も負けたくないし、コントも負けたくないし。そんなんでがむしゃらやってました。だから、その辺でやっぱり、どっかで中途半端になってた部分もあるかも知れないですね。僕も相方も、根本に持ってる気質が、いろんな事をやりたがりなんですね。1本に絞って勝ち上がれたらかっこいいんですけど。

―その後は?

最初に勢いが良かった分、後に来るっていいますけど、ほんまにその~「すんげー!Best10」(ABCテレビ95年1月~97年9月放送)とかあの辺の番組がバーッと終わって、2丁目劇場も若い子に入れ替わるっていう時に、メッセンジャー、やすとも(海原やすよ ともこ)、中川家、水玉、その辺が浮いちゃったんです。今では凄いメンバーですけど、東京にも行かない、NGKにもそんなレギュラーで入ってない、じゃあ僕らどうしたらいいええのん? テンダラーとやすともと僕らでよくイベントしたりしながら、関西で今のままでどうすんの? と。この時がものすごい仕事もなかったし、辛い思いしましたね。
(不安な時代ですね)
今までやってきたことや、自分で自分を否定するようなこともありましたけど、やっぱりこの世界で頑張りたいし、なんか複雑な思いがずっとありました。その時に相方が落ち込んで、1回「やめる」、「解散する」って、なったんです。でも僕の中には根拠のない自信があって、「絶対大丈夫やって。負けてると思ったら無理やけど、俺ら負けてないって」と励まして。悩んで、悩んで…ちょうど、ルミネtheよしもとが新宿に出来る(2001年春)ことになって、その時の支配人が比企啓之さん(「すんげー」のプロデューサー)で、「悩んでるんやったら来いや」と言われて、そっから、東京で新たな道が始まりましたね。ネタもやらせてもらって、新喜劇も。そこで新喜劇に出合ったという感じです。いろんな座長の班に出させてもらっていました。
(東京の新喜劇から始まったんですね)
そうなんですよ12、3年前に。こっちではまだ1年なんですけど。

―大阪へ戻られるきっかけは?

ルミネで10年間出させてもらっている間は、水玉れっぷう隊の新喜劇座長というのもやらせてもらってたんですが、新喜劇がなくなるってなって、「えっ、あれだけ頑張ってきてなくなるんか…。今後どうやっていくねん?」という時に、よし、1回、「THE MANZAI」、「キング・オブ・コント」もふんどし締めなおして、相方と本気でやろう、と。ネタ書いて決勝に残る自信絶対あるから。それがあかんかったら解散しよう、ずるずるやっててもあかん。で、頑張ったんですけど、結局準決勝止まりで…。

―新喜劇入りにつながるわけですね。

石田靖さんから「お前ら新喜劇入れ!」って、何回も言ってもらってたんです。でも、最初は大阪の新喜劇って、どんなんやろ? とイメージ出来なかったんです。石田さんは「2人とも芝居も出来て動けるし。俺見えてんねん」と。それで大阪の新喜劇を意識してみるようになり、東京で思ってたのと同じ、舞台上で演者の皆さんと協力し合って、生の笑いを作ってお客さんに笑ってもらいたい。「やりたい。やるぞ!! がんばるぞ」と。それで、会社に相談して…ですかね。ほんとはケンと2人で入る予定だったんです。でもケンが急に「やっぱりゴメン。もうちょっと東京で頑張っていきたい」と言い出して。え? うそ? もっと早い目に言うて~と。相方は、宮本亜門さんのミュージカルや三谷幸喜さんのドラマに出たり、芝居も出来て、踊りも出来て、歌も上手い。僕も、何回か作品見て、自分を出せる奴やなと思ってたんです。だから「それは諦めんほうがいい、突き詰めたほうがいいと思う。応援するわ。僕は、45歳、50歳、55歳、60歳でこうなっておきたいという未来予想図立てたから、頑張るわ」って。
(お2人別々の道を…)
解散するって会社にいうたんですけど、「せんでええがな」と。新喜劇に入って頑張りたいんで、片手間みたいで失礼かなと思ったんで「許されるんですかね?」「誰が許さへんねん? どっちも頑張ったらええがな」と言っていただいて。で、解散せんまま、今に至るんですけど。

―昨年の5月1日から大阪の新喜劇に来られましたが、最初は?

いや~~~。会社に相談した時は、すぐに舞台に入れていただけるような感じだったんですが、キャストは座長と作家が中心となって決めはるんで、「すぐ入れないです」となった時に、話がちょっと違うんですけど…みたいな。半年、(出演)ゼロ状態でした。今の座長も最初は、みんな大変やったよという話を聞いてると、あ~そうなんかな~とは思いながら、焦りと危機感で「とにかくやらせてください!!」と必死でした。お笑いのピュアなところは、「結果がすべて」。そこが僕の大好きなところなんです。舞台でどんだけ結果出せるか、そこに集中するしかないな、と思いました。

―手ごたえを感じられたのはどのあたりから?

その後、半年ぐらい経った時に辻本(茂雄)さんの班に入った時ですね。10月か9月くらいかな。「5月くらいからアキが入ったっていうの、知っててんけど、初めて名前が(出演者候補に)あったから。お前いろいろできるから、頼むわなっ」て。嬉しかったですね~。「ありがとうございます。しっかり頑張ります」。そこで自分の踊る部分とかまかせていただいて…。
(新喜劇でやりたいことは?)
けっこう遠まわりはしたんですけど、最終的に新喜劇で、今までの経験、いろんな人からなかなかないよなと言われる経験を生かして、笑いと感動のある新喜劇をやりたい。やっぱり感動が欲しいんですね。新喜劇は面白いんですよ。さらに、エンタメ感のある見せ場も欲しい。まだ本気でやりたい芸事がいくつかありまして、それを学んで、ますますもっとエンターテイメント感のある新喜劇も作ってみたいですね。常にチャレンジャーでいたいんです。
(まだまだ発展しそうな感じですね)
必ず、発展します。常に、本気でやってますから。自分で出せるとこといったら、メリハリの部分を強調することですかね。見せるところは見せる。ダンスも、誰もが見てスゲーなとなって、殺陣にしてもただ練習して頑張ってはるんじゃなくて、殺陣をやってる人も、すごいやん、本格的やん、と思われるように。常にメリハリは味にしたいですね。

―アキさんは他のお芝居にも出られてますね。

東京の時は何回か、他所のお芝居に出させてもらったりして。一芸人で行くじゃないですか。東京のお芝居の人もバイトしながら本気でやってはるんですが、でも僕の中では東映魂があるんで、負けへんぞ~。みたいな。
(東映魂って、どういう魂なんですか?)
これはすごい魂ですよ。東映の撮影現場で生で見てきたものなんです。「本番行きますよ~、一発勝負で行きますよ~、スタート!」で、超有名な俳優や女優たちがぶつかり合うわけじゃないですか。それを見てきてるんで。「極道の妻たち」の時のかたせ梨乃さんは、今でも忘れられないですね。クラブの中でホステスさんの髪の毛つかんで、バッチバチ平手打ちして、ビール瓶バカーンとぶつけて、うわ~すげ~そうか…ここまでスイッチ入れるんかと。アパートの部屋帰ってからも、女優魂見たな~と、ずっとぼーっとして。映画で見ても迫力あったんですけど、現場はもっと凄い。ひとつひとつ手を抜かずに、1個1個、全力でやる魂。いや~見てましたね。
(そういうところを新喜劇の舞台でも…)
出せてないです。全然出すところもない。そんなんは浮いちゃう。
(浮いちゃいますよね~笑)
あはははは…。そこは全然違うジャンルというか。新喜劇に対しては、東京でやってきた、ダンス込みの全体で作る合わせ技であったり、また違う作業ですね。

―ちなみに持ちギャグは?

考えてます、考えてます。それはぼくもあるんです。短めの。東京の時に板尾さん、今田さん、キム兄、東野さん、石田さん、いろんな座長によっては、一発ギャグで終わらせないといけない時もありますから、対応できるように、それはそれで短めのもあります。そんなんは持っておくべきやと思います。僕が踊ったりするとなかなかの尺ですから、(テレビの編集で)削る作業する時に、ものすごく申し訳ないと思います。ごめんな~嫌われへんかな~と思います。チームワークやし、全員で作ってるもんやから。自分が、自分がというもんではないし。

―仕事以外の趣味は?

仕事以外は…子どもですかねえ。全然相手してやれてないんで。小学校1年生の女の子なんです。東京へ行ったらもう1週間おらんかったりとか。7時8時以降に帰ったら、寝てますんで。その日は全く会えなかったりして。で、朝は学校へ行ったりしたら、もう2日3日会えなくて、一般の家庭に比べて父親らしいことが出来てないかな、と。そこはちょっとできるだけと思ってます。
(小学校1年生なら、思い出が残る年齢ですよね)
そうですね。娘は0歳から年齢制限のない舞台はメッチャ見てますね。舞台好きで新喜劇なんかもメッチャ見てますし。
(お父さんの舞台もよく?)
見てます。
(何か言われます?)
けっこう厳しいです。なんですかねえ。厳しくありたいって思ってるみたいですね。「お父さんとこは、回りみんな笑ってたけど、私、そんな笑ってない」。「ドリルの人、面白い。藍ちゃん面白い」。結局、面白いんですよ。面白いと言いたくないというか、照れるというか、認めたくないというか。それがちょっと面白いなと思って、「どこがダメだったんですか? どこが良かったですか?」って聞くんですけど…(微笑)自分がバレエもやってるんで、バレリーナを経て女優兼脚本家になりたいって言ってますね。作品を作りたいって。
(すごいしっかりされてますよね)
そうですねえ。バレエ公演や劇団四季とかも見てますし。
(奥さんの影響も?)
嫁のアドバイスがまたメッチャ的確なんですよ。かなり厳しいけど助かってます。僕がダンスを踊ったりしてウケた時には「自分だけの力じゃない沢山の人達の力のおかげやねんから、全ての人に感謝せなあかんで!!」と戒められてます。嫁も関西人で新喜劇愛が半端じゃないので、恐いです。

2015年8月17日談

プロフィール
1969年8月22日 大阪府生まれ。1992年入社。