12月16日。埼玉県熊谷ラグビー場で行われた1部の拓殖大学と2部の関東学院大学の関東大学リーグ戦の入替戦。激闘の末、関東学院が38対26で勝利し、1部昇格を決めた。関東学院が9点ビハインドで迎えた後半24分。ラックから抜け出してトライを決めたのは大学3年生のフランカー・内川朝陽選手(佐賀工業高校出身)。右足にがっちりと巻かれたテーピングが印象的だが、実は、足の切断、最悪の場合は死のリスクもあった時期を乗り越えてグラウンドに立っていた。今も足には約40センチの手術痕が3本も残る。それでも「自分の姿で少しでも大けがした選手を勇気づけたい」と前を向く。その強い想いの裏にあった壮絶な1年間とは。

「お母さん、死を覚悟してください」昏睡状態から目が覚めた時、母は泣いていた

 「麻酔で眠らせてくれ!」手術室で叫んだ記憶だけはある。

 2022年8月。ラグビー夏の聖地、長野県菅平高原で立正大学との練習試合。相手ディフェンスを突破しようと試みた時、内川はタックルを受けた。瞬時に右ひざが悲鳴をあげる。診断の結果は、前十字靭帯断裂。ラグビーでは起こりうるけがだが、ここからが違った。受傷から2か月後の10月に手術を行ったが、麻酔から目が覚めた瞬間、人生で経験したことのないような激痛が右足を襲った。

 「右足全体が破裂しそうなぐらい痛くて、麻酔で眠らせてくれと叫んだ記憶はあります。その後、目が覚めた時には3日が経っていました。目が覚めた時にお母さんが泣いていて、何で泣いているかも分からなくてとりあえず慰めました。お母さんは病院の先生に『死を覚悟してください』と言われていたみたいです」

 コンパートメント症候群。手術後に何らかの原因で筋肉が膨張し、血管、神経などを圧迫していた。当時の太ももの太さは、通常の倍以上。その状態が続くと足が麻痺状態となり、足を切断しなければならない可能性もあったという。集中治療室での生活がなんと2か月も続いた。

 「とにかく動けない。40度の熱が出ていても気づかない。痛みがひどくて、痛み止めも飲むので体調も最悪。腫れ過ぎて皮膚を閉じることもできなくて、毎日、傷口を洗うのですがその痛みで気絶することもありました。腫れが収まってから、皮膚移植をして強制的に傷を閉じました」

支えとなったのはラグビーで培った「不撓不屈」の精神力

 傷口が塞がってから始まったリハビリは、足の指先を動かすことから始まった。今年2月に内川はこんなことを日記に書いている。

 『自分の中でプロやトップレベルにいけなかったときの言い訳ができたと安堵している自分がいる。実力的にも厳しいのは本心で分かっている。だがそれにしても、コンパートメントを理由にするのは一番楽で格好もつくがそんなぬるい道でいいのか?不撓不屈とはどんな困難に直面しても決して挫けない様ではないのか?』

 不撓不屈とは、内川の出身校・佐賀工業高校ラグビー部が部訓としている言葉。どんな困難にも負けず、立ち向かうという意味がある。自問自答する日々。しかし、ラグビーで培った体力や筋力だけでなく精神力が、絶望の状況にいた内川を奮い立たせた。そして入院中も高校や大学の仲間がラグビーをしている姿は、内川に強烈な刺激となった。「もう一度グラウンドに立ちたい」そこから続いたのは地道なトレーニング。足の指を動かすところから、徐々に歩く練習へと移行。筋肉がつくとランニングができるようになり、今年の夏にはコンタクト練習ができるまでに復帰した。まさに驚異の回復力。そして11月5日にはBチーム戦で試合復帰。手術から14か月後。11月12日にはAチームの試合にリザーブとして名を連ねた。

 「僕は運が良く命があって、リハビリをしてラグビーできる体になりました。世の中にはもっと重いけがやスポーツが続けられない人もいます。大変な時期を経験して、少しでも誰かの希望の光になるように努力を続けたいと思うようになりました。復帰試合は、チームメイトや観客からたくさんの声援をもらって、色んな人の支えがあって自分があると実感しました」

「少しでも希望の光となれるように」内川朝陽の覚悟

 12月16日、大学リーグ戦の入れ替え戦。内川は色んな思いを背負って戦っていたに違いない。自らトライも奪い昇格が決まった試合後は天に指を突き上げて喜びを表現した。

 「試合が終わって支えてくれたみんなの顔を見た時に涙がこぼれました。感謝を忘れずに来年は大学選手権を目指したいです。そして、その先はやっぱり、リーグワンの舞台でプレーするのが夢ですね。これからもっと精進していきます」
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 一度は死の淵を経験した内川朝陽。この先、どんな困難があろうと、挫けることなく、明るく周りを勇気づける太陽のような存在になってくれるに違いない。


(MBSスポーツ局 進藤佑基)