世界遺産にも登録された大阪府堺市にある「大山古墳」は、『仁徳天皇陵』として仁徳天皇の墓だと学校でも教えられています。しかし、専門家の間では「仁徳天皇の墓ではないのではないか」と論争が起きています。では一体誰があの巨大な前方後円墳に眠っているのでしょうか。

“仁徳天皇の墓”とされる日本最大の前方後円墳『大山古墳』

去年11月、普段は立ち入り禁止の場所にカメラが入りました。日本最大の前方後円墳である大阪府堺市の「大山古墳(仁徳天皇陵)」です。
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天皇の墓として管理する宮内庁が「古墳の保全工事に向けて堤の遺物を調べるため」として堺市と発掘調査を行ったのです。
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その結果、前方後円墳を囲む堤の内側から今回、初めて「円筒埴輪列」が見つかりました。築造時は堤の両側に埴輪列が並ぶ壮大な姿であった可能性があり、埋葬されている人物の権力の大きさがうかがえます。
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(宮内庁書陵部 徳田誠志陵墓調査官)
「今回は第1堤の一番幅の広い所にトレンチを設定して、内側の埴輪列があることを確認いたしました。荘厳化だとか、より装飾をするということは考えられます」
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宮内庁によりますと、仁徳天皇が埋葬されたのは4世紀末ごろ。今から300年ほど前には仁徳天皇の墓とされ、今は宮内庁が『仁徳天皇陵』として管理しています。
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仁徳天皇とは、今から1600年ほど前に実在したとされ、民家から炊飯の煙が立ち昇らないのを見て生活の厳しさに気づき、3年間税を免除したという伝説の天皇です。

『大山古墳』が仁徳天皇の墓ではない?研究者の間で論争

静かに眠る仁徳天皇の巨大な墓。しかし『仁徳天皇陵』が仁徳天皇の墓ではないのではないかという、思わぬ論争が巻き起こっています。
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大山古墳の復元模型を展示する大阪府立近つ飛鳥博物館の白石太一郎名誉館長は、古い文献の記述などから「大山古墳は仁徳天皇の墓」だと主張する1人です。

(大阪府立近つ飛鳥博物館 白石太一郎名誉館長)
「宮内庁が仁徳天皇陵として祭祀を行い、管理を行っておられますが、おそらくそれは正しいのではないかと。古事記や日本書紀にも、仁徳天皇陵は和泉の国の百舌鳥にあって、『百舌鳥耳原中陵』と。百舌鳥古墳群には中陵・南陵・北陵などがあるのですけれども、その相対的な位置が大体分かるわけで。そういうものから考証して、これは仁徳天皇陵に間違いないだろうと」

8世紀に編纂された日本書紀などに「大山古墳が仁徳天皇の墓」と書かれているというのです。
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一方でこれに異を唱える研究者がいます。大阪市立大学の岸本直文教授は「大山古墳は別の天皇の墓」だと主張します。

(大阪市立大学文学研究科 岸本直文教授)
「大山古墳は5世紀中ごろ(の完成)だろうと。年代的に見合うのは允恭天皇と考えていいだろうというのが私の考えです」
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允恭天皇は、仁徳天皇の子で、5世紀中ごろに亡くなったとされています。
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岸本教授によりますと、古墳から出土する土器や馬具の研究から、大山古墳が完成したのは5世紀中ごろであり、没年が一致するのは仁徳天皇ではなく允恭天皇だというのです。

(大阪市立大学文学研究科 岸本直文教授)
「仁徳天皇というのは、民が苦しんでいるから3年間税金を免除したという、徳のある王として描かれているんですね。そういう人物を一番大きい古墳に当てるとか、特別なものについては伝えられたものとは別に少し操作をしているということはあるのではないかと。(Q素晴らしい天皇だから一番大きい古墳に眠っているというストーリーのもと、当時日本書紀などで決められた可能性がある?)はい、その可能性はあると思っています」
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大山古墳は誰の墓なのか。研究者によって見解が分かれる中、宮内庁は『仁徳天皇の墓』という考えを変えるつもりはありません。

(宮内庁書陵部 徳田誠志陵墓調査官)
「被葬者についていろんな学術的な見解・学説があるのは承知しております。それはそれぞれの学者の先生方のご見解ですので、学説は承知しておりますが、それで今すぐ宮内庁が治定をどうするという問題ではないと思っております」

過去には「継体天皇の墓」として管理していた古墳が“違う天皇の墓”だったケースも

しかし実際に“天皇の墓が違った”とされるケースもあります。6世紀前半に実在した「継体天皇の墓」として宮内庁が管理する古墳です。
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しかし1.5km東にある「今城塚古墳」では…。
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(今城塚古代歴史館 内田真雄館長)
「6世紀の前半に築かれた古墳だということがわかっております。継体天皇の古墳だと考えるのが学術的な見方としては有力ですね」
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今では『今城塚古墳=真の継体天皇の墓』であることが研究者の定説になっているのです。ここは宮内庁ではなく大阪府高槻市が管理して、公園として市民の憩いの場となっています。
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厳しい管理下ではないため、大規模な発掘調査も可能で、出土した埴輪などの年代から継体天皇の墓なのはほぼ確実です。

(今城塚古代歴史館 内田真雄館長)
「宮内庁が管理されている陵墓は、今もお祀りの対象ということで、皇室財産という位置づけになりますので、その部分は発掘調査はなかなか一足飛びには行かないと思いますね」

現在は立ち入り禁止の『大山古墳』…かつては誰でも入ることができた?

一方、宮内庁の管理で立入禁止の大山古墳。発掘調査も保全工事に伴う周辺のものに過ぎず、全容解明はほど遠いのが現状です。
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しかし堺市博物館の学芸員・白神典之さんは、江戸時代以前の大山古墳は誰でも気軽に入ることができたといいます。

(堺市博物館・学芸員 白神典之さん)
「江戸時代の人が使っていたであろう物とかをしのぶことはできますのでご案内します」
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大山古墳近くの住宅街。ここには古墳の濠から水路が作られ、江戸時代には住民たちが田畑に利用していたといいます。

(堺市博物館・学芸員 白神典之さん)
「今はもうコンクリートで固まっていますけれども、雨が降った時は流れます。(Qこの水はどこから?)仁徳天皇陵。水が繋がっています。江戸時代も主要な水路の幹線ですね。ここから分かれて、この辺りの田畑に広く灌漑用水が供給される仕組みがあったということですね」
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実際、江戸時代の絵図にも濠に門があり、そこから水が流れていたことがわかります。
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さらに大山古墳の中にも別の痕跡があります。

(堺市博物館・学芸員 白神典之さん)
「江戸時代は3重目の濠は無かったんです。無かったというか埋まっていた状態ですね。田畑に使われていた。こういうフェンスも当然無い時代で、(ここは)天皇陵の範囲の中には入っていなかった」
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今は立入禁止の古墳の中も、かつては民間の土地で、多くの人が中に入っていたというのです。

(堺市博物館・学芸員 白神典之さん)
「戦国時代、その以前からおそらく地域の人たちが入って里山的な利用、濠についてはため池的な利用をしながら、古墳と共に生きていった暮らし。共生ですよね、まさに」
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元々は地域に開かれていた大山古墳は一体誰の墓なのか、それは永遠の謎なのか。

(堺市博物館・学芸員 白神典之さん)
「被葬者が確定するということはないんだろうと思うんですけれども、(発掘調査が進めば)今考えられている以上に古墳が作られていた年代が絞られていき、正確になっていくということは期待できるかと思います」