2025年4月25日で発生から20年が経った、JR福知山線脱線事故。直接死亡した人は乗客106人と運転士1人、計107人にのぼる。事故車両に乗っていた大学生の男性は、一命をとりとめたものの、あの日を境に人生が一変、自死に至った。107人に含まれない"犠牲者"は、生き残った者としての「罪悪感」に襲われていた。

誕生日に事故に遭いケガ… その日もピアノのレッスンへ

兵庫県宝塚市の実家に住んでいた岸本遼太さんは、2005年4月25日、通っていた京都の大学へ向かうため、JR福知山線に乗車。事故車両の4両目に乗っていた。その日が、22歳の誕生日だった。

この脱線事故では、7両編成の1~5両目が脱線。死亡者は、マンションに激突した1両目と2両目に集中した。事故調査委員会の報告書によると、死者107人の乗車車両は、1両目が43人(運転士含む)、2両目が57人、3両目が3人、車両不明が4人となっている。

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遼太さんが乗っていた4両目では、警察の調べによれば102人が負傷。事故現場では、3両目を挟んで目と鼻の先に、大破・変形した2両目が位置していた。

遼太さんは転倒し、他の乗客数人の下敷きになったものの、けがは首の捻挫で済んだ。当時、ピアノを教えていた熊谷啓子さんは、事故当日も彼はレッスンに来たと話す。

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熊谷啓子さん
「事故の状況も訊いたんですけれども、『自分はすぐに外に出ることができたので、あまりよく見てない』と言って、多くは語らなかったです。その後も普通にレッスンをして帰ったので、違和感のないいつも通りの遼太くんで、さすが遼ちゃんやなと思って」

安心したあまり、“もし亡くなっていたら今頃、喪服を着て出かけなあかんかったやん”と、冗談めいた言葉を彼にかけたことを、熊谷さんはいまだに悔いている。

ブログに記した罪悪感「わたしはなんで、生き残ったんだろ」

一方で遼太さんは、一時的に経路を阪急電車に切りかえ大学に通っていたが、事故の数ヶ月後にはPTSD(心的外傷後ストレス障害)と診断された。電車に乗れなくなり、大学にも通えなくなったという。

遼太さんは、加害企業であるJR西日本への感情や、事故をめぐる自らの心境などを、ブログに詳しく記していた。2005年10月には、「夢」というタイトルで、以下の文章がある。

(2005年10月22日「夢」)
「わたしは、ちょっと離れた後ろから、呆然と、その男を見ていた。
 一瞬。
 いつの間に、後ろに回り込んだのだろうか、わたしの背中に、男が抱きついてきた。
 とても強く締め付けられた。
 振り返ると、その大きく見開かれ、血走った目は、こう言っていた。
 『どうして、お前は生きているのか』と。
 はっとして、目が覚めた。」

その後も、生き残った者としての罪悪感や、事故当日で人生が止まっているような感覚をうかがわせる言葉が並ぶ。

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(2006年4月20日)
「4月25日はわたしの誕生日
 誕生日だから助かったのか
 (中略)
 正直なところ、とても複雑
 わたしはなんで、生き残ったんだろ」

(2007年4月25日)
「この2年、色々とありましたが、それでも、記憶の区切りともいうべき頭の中にあるしおりは、2005年の4月25日に挟まれています。
 何か思い出す分岐点であり、記憶の節目です。
 (中略)
 今でも、この事故で亡くなった方に、『何で、お前が生きているのか』と、問いつめられています。」

強まる虚無感「わたしは、ただの形骸だ」

遼太さんは大学を特例措置で卒業したものの、仕事に就ける状態ではなく、ピアノのレッスンなど以外は実家に引きこもる生活が続いた。

事故から3年目になると、ブログからは虚無的な感情が一層強くにじみ出るようになった。

(2008年4月25日)
「4月25日は、わたしの誕生日でもある。
 しかし、わたしの年齢は3年前から変わらず止まっている・・・
 今のわたしには、この日、黙祷しかできない。
 それ自体も、何になるのかと自問自答する。
 無力だ。
 そして空虚だ。」

(2008年6月7日)
「わたしは、ただの形骸だ。」

自らを「形骸」と表現した4か月後の2008年10月、遼太さんは自ら命を絶った。25歳だった。

専門家 “事故当日が誕生日 彼の苦しみを強めた”

「本当に脱線事故が、遼太さんの人生を変えてしまったというのは、彼のブログの一言一言からもよく読み取れるのではないかと思う」

トラウマのケアなどに詳しい専門家は、遼太さんが「生存者罪悪感(サバイバーズ・ギルト)」を抱えていたと指摘したうえで、事故を経験した日が誕生日であったことが、彼の苦しみを一層強めたと分析する。

関西学院大学人間福祉学部 池埜聡教授
「生を祝福する、自分の命を祝う日と、何の落ち度もない多くの方々が命を奪われた、死を間近に感じる日が、同時に重なっている。生と死が一緒になり、否応なしに、自分の命って何なんだろうとか、生き残った意味って何なんだろうという問いを、すごく突きつけられたと思う。そこから答えを見出せなかったのかもしれない」

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甚大な災害や事故で、直接的に命を落としたわけではないが、その後の身体的・精神的負担などが原因で命を奪われるケースを「関連死」や「遠因死」という。

大災害の場合は、「災害関連死」が法的に定められている一方、大事故で生じた関連死や遠因死には明確な規定があるわけではなく、その悲劇が伝わることは少ない。

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脱線事故で時間が止まり、虚無感と罪悪感に苦しみ最期を迎えた遼太さん。彼も、脱線事故の「犠牲者」ではないか___ 筆者は、池埜教授に難しい問いを投げかけてみた。

「“生きたくても生きられなかった乗客106人と、自分で人生に終止符を打った人はやっぱり違う”という考え方はおそらくあると思う。一方で筆者などは、遼太さんも脱線事故の“犠牲者”と言っても差し支えないと、個人的に思っているが、そのあたりは教授はどう考える…?」

池埜教授は40秒近く考え込んだあと、こう答えた。

「“自ら死を選んだ”というふうによく言われるが、私は、“自ら死を選ばざるを得なかった” という表現の方が正しいのだろうと思う。“自分から命を絶つと選んだのだから、(直接的な死とは)違う” その心情もよく分かるが、その言葉で全てが語られるのは、彼の苦しみを、ある意味すごく誤解している所があるのではないか」

母親が息子を偲んで植えた “八重桜”

遼太さんの唯一の肉親だった母親は、息子を偲び、宝塚市の自宅に遅咲きの八重桜を植えていたが、2021年に亡くなった。JR西日本に対し、“事故現場の追悼施設にも桜を植樹したい”と要望していたが、実現することはなかった。

自宅は取り壊されたものの、その八重桜だけは兵庫県三田市の山あいに移された。取材班が4月22日に訪れると、晴天の下、可憐な花が咲いていた。まるで、4月25日の訪れを告げているかのようだった。

取材を終えて

脱線事故に遭わなければ、遼太さんは京都の大学に通い続け、社会に羽ばたき、そして毎年自らの誕生日を素直に祝福することができていたはず…。やるせない想像が尽きません。未曾有の事故がどれだけ多くの人生を翻弄したのかを、まざまざと突きつけられる思いがします。

事故自体の風化が急速に進む中で、遼太さんのように間接的な形で亡くなった“犠牲者”は、より一層忘れ去られていくという残酷な現実があると思います。少しでもその現実に抗い、遼太さんのような“犠牲者”もいたことを社会の記憶に留めたい。そして、二度とこんな理不尽極まりない事故を起こさないという決意を新たにしたい___。取材を終え、その思いを改めて強くしました。