JR福知山線脱線事故の発生から、2025年4月25日で20年が経った。事故で直接亡くなった人は乗客106人と運転士1人、計107人にのぼる。しかし、事故が心に残した深い爪痕によって、自ら命を絶った人たちがいることはあまり知られていない。死者107人には含まれない「知られざる犠牲者」と、遺族や関係者の悲しみを取材した。
お祭りで肩車してくれた婚約者 突如絶たれた幸せな日々
「会いたいですよ… たまに街でよく似た感じの人を見たら、アッと思う時があるもんね… アッて思う時が」
荒川直起さん(58)。大切な妹は、2006年に自ら命を絶った。
「一番後悔しているのは、(妹が自死した)その夜にマンションの前を通ってたんですよ。夜遅かったから、“遅くまで起きてんねんな”と思って、通り過ぎたんですよ。あの時に寄ってたら、もっと事態が変わっていたかもね…」
直起さんの妹・荒川由起さん(当時32)。由起さんには、13年間同棲した婚約者がいた。けんかも頻繁にあったが、お祭りの時には、由起さんを肩車してくれるような心優しい男性だった。しかし、2人の幸せな日々は突如絶たれた。
事故がなければ翌月に結婚… 「全てが事故当日で止まった」
2005年4月25日に発生したJR福知山線脱線事故。快速電車が制限速度を大幅に超えるスピードでカーブに進入して脱線、マンションに激突した。乗客106人と運転士が死亡、乗客562人が負傷する大惨事となった。
手前の駅で約70mのオーバーランを起こした運転士が、過少申告を車掌に要請。その車掌と指令員の交信に気を取られるなどして、ブレーキ使用が遅れたことが事故の原因とされた。懲罰的な社員教育が行われるなどしていた、JR西日本の当時の企業体質が厳しく批判された。
そして、死亡した乗客106人に、由起さんの婚約者が含まれていた。夜勤明けで帰宅する際、普段乗る1本後の電車に乗った結果、帰らぬ人になった。
事故がなければ、2人は翌月に婚姻届を出す予定だった。打ちひしがれた妹の姿や言葉が、兄・直起さんの脳裏から離れない。
「記憶に残っているのは、最後まで部屋の中が、事故当日のまま。何も変えずに…。冷蔵庫の中にアイスクリームがあって、『こんなん食べんねや、甘いの嫌いやのに』『違う、それはあの子(婚約者)が食べたやつや』って。洗濯物も干しっぱなし。靴の並び方もそのまんま。全てが事故当日で止まってる」
婚約者の“最期の乗車位置”を懸命に探す
由起さんは決してふさぎこんでばかりいたわけではなかった。遺族や負傷者の有志による、“犠牲者の最期の乗車位置を探す活動”に加わっていた。
脱線や衝突の衝撃、救助活動の混乱の中で、犠牲者が最期に乗っていた車両、座ったり立ったりしていた場所が分からず、苦悩する遺族がいたことを受けて始まった活動だった。情報交換会も開催されるなどして、事故の生存者や救助活動に関わった人々から、地道に証言が集められた。
自らも2両目で負傷し、活動の中心的な存在だった小椋聡さん(55)は、次のように語る。
最期の乗車位置を探す活動の中心メンバーだった小椋聡さん
「“自分の家族が一番最期にいた場所の、せめて一番近くまで行って、お花を手向けてあげたい” “何か困難に直面した時に、話を聞いてもらったり、嬉しいことがあったよと報告できるような場所が欲しい”というのが、参加者の望みでした。手がかりだけでも分かれば、今後の人生の中で、何かの報告の時に手を合わせる場所ができるんじゃないかという気がしていたのです」
由起さんも、婚約者が2両目に乗っていたことは判明していたが、より詳しい位置を知りたいと、積極的に活動に参加していた。参加者らの思いをまとめた冊子にも、手記を寄せている。
「事故の瞬間の全てを知る事はできません。でもせめて、最期の位置を知り、その場へ行きたい。行ってあげたいと思うのです」
小椋さんによると、由起さんは情報交換会で証言を聞いていた際、他の部屋に駆けこんで泣いている場面もあったという。
小椋聡さん
「自分の愛する人の姿だったかもしれないという話をたくさん聞くのは、苦しかったんじゃないかなと思います。由起さんの場合は本当に、(婚約者を事故で喪って)体の半分を持っていかれたような感覚だったんじゃないかという気がします」
感情を抑えきれない場面があっても、由起さんが活動から離れることはなかった。
小椋聡さん
「みんなが一生懸命(最期の乗車位置を)探している仲間の中に入って、“私もみんなと一緒に頑張るよ”っていう雰囲気の中にいることで、かろうじて生きていたんじゃないかなという気がするんです」
しかし、思いは届かず、婚約者の最期の乗車位置の特定には至らなかった。
「二人の未来を奪い 私から全てを奪ったJRが…」妹の悲痛な言葉
そして、事故から1年半が経った2006年10月、由起さんは、自ら人生に終止符を打った。
兄・荒川直起さん
「おふくろは… すぐ… 抱きかかえてましたね。(由起さんは)優しい顔じゃなかった。一点をずっと見ていた」
部屋には複数の遺書が残されていた。
部屋には複数の遺書が残されていた。
(由起さんの遺書)
「彼に会いたい でも乗車位置が見つかるまで これが終るまではって がんばって来たけれど もう無理 限界です」
「彼がいない世界で生きれるなら 違う道選んでるやろ。彼じゃなきゃあかんから がんばって来たんやん」
「二人がんばって いろんな事乗り越えて 大変やったけど すごい幸せになったよ そやのに 何でこんな事になんの?」
「由起は悔しくて悔しくてたまりません。二人の未来を奪い 私から全てを奪ったJRが 憎くて憎くてたまりません」
婚約者を喪った絶望に加え、“JR西日本や世間から、遺族ではなく単なる同居人として扱われている” という思いを、由起さんは抱いていたという。遺書にも「由起は ただのバカですまされるの? 彼にとって存在しない人として扱われて」など、そうした苦しい感情をつづっている箇所があった。
“妹も脱線事故の犠牲者” 兄の思い
“脱線事故さえなければ、妹の死もなかった” 直起さんが悲痛な思いを抱える一方で、JR西日本側の直起さんへの対応は、誠実とは言い難かった。2007年に国土交通省の事故調査委員会が報告書をまとめた際の説明会には、JRから案内状も来なかった。
その後、JR側の姿勢は変化したものの、“妹と婚約者が同じ場所にいられるように、事故現場に妹を偲ぶ花壇を設けてほしい”という、直起さんの願いは実現しなかった。
直起さんも、直接死亡した乗客106人と由起さんが、同列だとは考えていない。感情に折り合いをつけられるようにもなった。それでも、“妹も脱線事故の犠牲者だ”という思いが、心から消えることはない。
自死した由起さんの兄・荒川直起さん
「当時は(乗客の死者数)106という数字を見るのはすごくプレッシャーだったし、その表現を見たらちょっと悲しい部分はあるけど、自分の心の中で、人数をちゃんと計算してるんで。僕自身が思い続けているのが、一番大事だと思うんで」
直起さんは自らに言い聞かせるように、何度も胸に手をあてていた。
取材を終えて
未曾有の事故がどれだけ多くの人生を翻弄したのかを、まざまざと突きつけられる取材でした。荒川由起さんの死が、この脱線事故の理不尽さ・悲惨さを象徴していると痛切に感じます。
事故自体の風化が急速に進む中で、由起さんのように間接的な形で亡くなった“犠牲者”は、より一層忘れ去られていくという残酷な現実があると思います。少しでもその現実に抗い、由起さんのような“犠牲者”がいたことを社会の記憶に留めたい。そして、二度とこんな理不尽極まりない事故を起こさないという決意を新たにしたい___。取材を終え、その思いを改めて強くしました。
取材に応じてくださった兄・荒川直起さんからメッセージを預かっています。
「当時、さまざまな方にお世話になりました。妹、私たち家族にあたたかく接していただけた事をこれから先も忘れません。皆様に支えられ、家族でゆっくりと歩んでいます。ありがとうございました」
不条理に打ちのめされた由起さんや直起さんに、寄り添い、手を差し伸べた人々がいたことも、忘れないでいたいと思います。