「ごく自然に私は死の準備をした。死ぬことがきっと、最も確実にこの監獄から出る手段だった」
これは太平洋戦争終戦間際に、憲兵隊から激しい拷問を受けたフランス人神父の言葉です。戦時下の日本では、宗派を問わず、キリスト教の聖職者たちがスパイや不敬罪(天皇の尊厳を損なう罪)などに問われ、逮捕・拷問される弾圧が各地で起きていました。知られざる弾圧の歴史に、当事者本人の手記や当時を知る関係者の証言から迫ります。
“外国人はスパイ”…戦時色が濃くなるにつれ教会や神父への監視が強まる
兵庫県西宮市、阪急夙川駅にほど近い場所にある「カトリック夙川教会」。阪神・淡路大震災でも倒壊を免れた聖堂は、90年以上の歴史を誇ります。日曜日には多くの人がミサに集います。
今もなお、信者たちに祈りと安らぎの場を与えるこの教会が、第二次世界大戦中に悲劇に見舞われたことはあまり知られていません。信者のひとりが当時のことを語ってくれました。兵庫県宝塚市に住む五百旗頭邦夫さん、86歳です。
(五百旗頭邦夫さん)「メルシエさんは説教の時になったら、説教台に上がって、説教台から後ろまで聞こえるようにゆっくり大きな声で話された」
五百旗頭さんは1937年に生まれた直後、フランス人のアルフレッド・メルシエ神父(1905~1977)から洗礼を受けました。しかし、戦時色が濃くなるにつれ、教会やメルシエ神父への当局の“監視”の目が強まっていったといいます。
(五百旗頭邦夫さん)「“外国人はスパイ”ということで憲兵から目をつけられていた。ミサをやっている時に、聖堂の後ろにサーベル(軍刀)をぶら下げた憲兵らしき人が立って見張っていました」
そして1945年の5月、メルシエ神父は突如、尼崎の憲兵隊に逮捕され、終戦翌日の8月16日まで勾留されました。
『私は嘘つき扱いをされ、棒で何発か叩かれました』
メルシエ神父はその時の経験を、パリ外国宣教会からの要請を受け、報告書にまとめています。
【メルシエ神父の報告書より】
『私は、なぜ自分が逮捕されたのかについては全く考えませんでした。私の良心に、やましい点は何ひとつありませんでしたから。憲兵は私を責める証拠は何も持っていなかったので、ただ「お前がしたり言ったりした日本に不利になることをすべて話せ」と言うばかりでした。私が望みに合わない返事をするたびに、私は嘘つき扱いをされ、棒で何発か叩かれました』
スパイの疑いを一貫して否認したメルシエ神父。拷問は次第に激しさを増していきました。
【メルシエ神父の報告書より】
『憲兵たちは厚いブーツをはいたまま私の腰の上に乗り、踊ったり、足踏みしたり、思いきり鞭で打ったりしました。ごく自然に私は死の準備をしました。死ぬことがきっと、最も確実にこの監獄から出る手段でした。ある日限界に達した私は「たとえ死刑であっても刑に処されるほうが、毎日理由も結果もなく拷問されるよりましだ」と言いました。憲兵は皮肉な口調で答えました。「それではお前に優しすぎるだろう。俺の計画では、ここでますます拷問を厳しくして、お前をじわりじわりと殺すつもりだ」と』
「赦すという態度」獄中の経験を信者らに語ることはなかったメルシエ神父
メルシエ神父は日本の降伏に伴い解放されましたが、獄中での経験を信者らに語ることはなかったといいます。報告書も長らく非公開にされ続けました。
(五百旗頭邦夫さん)「メルシエさん自身はとにかく自分が受けた苦しみとかは一切言わない。赦(ゆる)すという態度だった」
のちに、憲兵のひとりが「アメリカ軍に告発しないでほしい」と嘆願した際も“決して告発しない”と赦しを与えたというメルシエ神父。その後、三田や神戸で司祭を歴任し、日本でその生涯を終えました。
何者かに告発され憲兵隊に突如逮捕…獄中に散った青年牧師補
キリスト教の聖職者たちが戦時下で受けた“弾圧”。スパイの疑いなどではなく、信仰や伝道活動そのものを当局が危険視し、弾圧の標的にした例もあります。
(日本基督教団函館教会 松本紳一郎牧師)「小山宗祐牧師補は昭和17年(1942年)1月に憲兵に捕らえられて、函館で亡くなりました。神社崇拝をしていないということを近所の人に訴えられたんじゃないかと言われています」
1916年に大阪で生まれた小山宗祐さんは、1941年の夏、牧師補として函館に着任。五稜郭の近くで日々、熱心に伝道活動を行っていたといいます。
しかし、翌年の1月、憲兵隊に突如逮捕されます。戦勝祈願のための護国神社への参拝を拒んだことを、何者かに告発されたことがきっかけとされています。
小山さんはその後、天皇の尊厳を損う言動をしたとして不敬罪などで起訴され、非公開で即日判決の裁判が行われました。判決内容は不明。その直後、拘置所の中で死亡しているのが見つかります。26歳という若さでした。
当局の説明は“自殺” 自殺はキリスト教でタブーとされるが…
遺体を引き取った牧師は手記にこう記しています。
【小山牧師補の遺体を引き取った牧師の手記より】
『死体は既に棺桶に納められていた、ふたをとって見ると、がっくりと首が下がっている。リヤカーに棺をのせ、人目をはばかるような姿でまだ消え残っている雪路を火葬場まで運ぶのも言い知れぬ悲痛の極であった』
当局の説明は“自殺”。現在の函館市史にもそう記録されています。一方で、検死は行われず、浴衣の背中の部分に血痕があったという証言も残っています。何より、キリスト教で強くタブーとされる自殺を選ぶのか…。疑問視する研究者もいます。
さらに、小山牧師補の獄死から数か月後、牧師補が所属していたプロテスタント・ホーリネス派は、130人以上の聖職者が一斉に検挙される“大弾圧”を受けました。
「誰かを排除しようとか、そういう事柄が戦争にも結びつく」
キリスト教への敵視。背景には、天皇の存在がありました。
(日本基督教団函館教会 松本紳一郎牧師)「キリスト教の信徒は、“すべての人が罪びと”だという信仰に立っていますけれども、すべての人が罪びとだと言った途端に“天皇も裁かれなくちゃいけないのか”という話になってしまう。当時は天皇は神として崇められていましたから、天皇が神ではないということは国体に反するということになってしまいますね。戦時下の当局の見地からすると、危険思想だと」
そして松本牧師は、市民の密告が小山さんの逮捕につながったことも現代の私たちに重い教訓を投げかけていると考えています。
(松本紳一郎牧師)「権力に直接弾圧されたというよりも、隣の人が“こういう思想は好ましくない”というふうに思った時にそれを排除すると。連帯意識を強めるために誰かを排除しようとか、よそ者扱いしようとか、そういう事柄が結局やっぱり戦争にも結びつくし、ごく身近で起こりうるんだということを、私たちはこの機会に考えなくちゃいけないんじゃないかと思いますね」