乗客106人が死亡したJR福知山線の脱線事故。当時18歳の大学生・山下亮輔さんは、大破した先頭車両に乗車していましたが、奇跡的に生存しました。生死の境をさまよいながら生き続けた18年。今、大きな転機を迎え、新たな人生を歩んでいます。
ベッドの上で声も出せず 両脚切断の可能性も…回復までの険しい道のり
2005年、ベッドの上で宙を見つめる1人の青年。彼は動くことも声を出すこともできません。当時18歳の山下亮輔さん。あの日、人生が一変しました。
2005年4月25日、マンションに直撃した電車。その地下に埋もれ、絶望視された1両目から山下さんが救出されたのは、事故から18時間後でした。
長時間圧迫された体の組織から毒素が出る「クラッシュ症候群」。
(関西ろうさい病院 高松純平医師)
「これを放っておけば命にかかわると思いましたので、当然、両脚の切断も考えました」
(山下亮輔さんの父 正実さん)
「そりゃショックですよ。家に帰って息子の部屋に行くとつらいですね。ズボンとかあるし、靴とかもあるし。靴がもう一生いらなくなるとか考えると」
事故から1か月たった2005年5月、山下さんに少し反応が…。
(スタッフ)「亮輔くん、タイガース勝ったらうれしい?」
(山下さん)「(うなずく)」
(スタッフ)「きょうは勝ちそう?甲子園行かなあかんしな」
(山下さん)「(うなずく)」
入院3か月目の2005年7月、「言葉が出た」と母親から連絡が入りました。山下さんは劇的な回復を遂げていました。
(父・正実さん)「(事故の時)感覚あったん、足?」
(山下さん)「体を抜くときに痛くて抜けなかった。最後は無理やり抜いた」
治療は一進一退。40℃を超える熱が40日間続き、再び両脚切断の可能性を告げられたこともありました。母親は1日も欠かさず泊り込み続けます。
(山下亮輔さんの母 美佐江さん)
「頑張れって言うのもつらいし、代わってあげられるものなら代わってあげたいけど、そういうこともできないし」
何とか松葉杖で歩けるようになった時、季節はもう冬になっていました。そして事故から10か月がたった2006年2月、ついに迎えた退院の日。
(山下亮輔さん)
「素直に生きていてよかったのもあるけど、そんなに両手を挙げて喜べることではないかな。友だちも1人亡くなっているし、申し訳ない悪い気持ちはやっぱりあるかな」
「人のために役立てるように」現在は市役所で勤務 「人生のパートナー」との出会いも
36歳になった山下さんはいま、伊丹市役所で働いています。周りの人に助けられた事故の経験から、人のために役立つ仕事を続けたい思いがあります。
今も両脚に麻痺があり、杖は手放せません。病院へも定期的に通っています。5年前から通いだした西宮協立脳神経外科病院では、3回の手術を経験しました。
(医師)「自分で足が上がる?」
(山下さん)「上がらない」
(西宮協立脳神経外科病院 木下光雄医師)
「運動とか感覚の障害があるので、潰瘍ができて時間が経過すると皮膚がんになる恐れがある」
1人で生きていくことも覚悟してきましたが、人生の出会いがありました。福祉の仕事で一緒になった奈央さん(39)です。「こんな自分に自然体で接してくれる」、5年の交際を経て結婚を決めました。式を前に、正直に伝えておきたい不安があります。
(山下さん)「これから足が良くなるわけじゃないから、逆に言うと悪くなることしかなくて。ひざを痛めるとか傷口が悪化してがんになるとか。将来、また体力が落ちていくから、できることがどんどん減っていくとは思っていて」
(奈央さん)「私も全く不安がないわけじゃないし。でも、それは考えても仕方ない心配やと思うから、一緒に頑張ってできたらいいかなって思っている」
支えてくれた両親に感謝のスピーチ『大切に育ててくれてありがとう』
2022年9月11日、結婚式の日がやってきました。
(山下亮輔さん)
「(Q式直前、いまの心境は?)無事にうまくできるか心配で。さすがに緊張すると思うので。手と足が同時に出ないかとか」
そして、式が始まりました。これまで支えてくれた多くの友人や家族に囲まれ、笑顔がこぼれます。お色直しで中座する時、ちょっとしたサプライズで感謝を伝えたい人がいました。
(山下さん)「お母さん、来てくださーい」
ずっと病室に寝泊まりし、看病し続けてくれた母親にエスコート役をお願いしました。
(山下亮輔さんの母 美佐江さん)
「こんなことができると思っていなかったから、あの時は。本当に長い10か月間もずっとね。しんどかったのは本人やけど、それを見ているのもすごくつらかったからね。きょうは本当に私…」
(スピーチをする山下亮輔さん)
「お父さん、お母さん、今まで大切に育ててくれてありがとう。18歳の時に大きな事故に遭いましたけれども、お2人の懸命な看病のおかげで社会に復帰でき、このような晴れ姿を披露することができました。今、こうしてここに立って…笑顔でいられるのも…皆さまのおかげです。僕のゆっくりの歩くペースに合わせてくださってありがとございます」
事故から18年…『一日の大切さをこれからも意識して持ち続けたい』
18年前に自分の人生を変えた場所。2023年4月15日、この日初めて夫婦で訪れました。
(奈央さん)「どの辺まで記憶があるの?」
(山下さん)「記憶はマンションにぶつかった時くらいまでははっきりと覚えていて。真っ暗やったから人の声と音ぐらいしかわからなくて。最初はほんまに映画の地獄絵図みたいな感じで、事故とか遭難とかした時のような叫び声とか苦しい声とかいっぱいあったけど、どんどんその声が減っていくのがわかって。それでも全然救助の人が来てくれなくて。発見してもらったときに『何人いるのか』と聞かれて、声を数えたら4人しかいなくて」
(奈央さん)「事故があった後の18年、いろんないい人に支えてもらって、いろんな出会いのなかで、あなたがきっと乗り越えてきたんやろうなってここに来て改めて思った」
事故から18年。これまで多くの人に救われてきました。これからは自分が人の支えになれるように。「跳ぶ力を失ってもできることはある」、そう教えてくれたあの日を忘れずに。
(山下亮輔さん)
「当時、事故があったときは18歳だったので、そこから18年たつってことは事故前と事故後と同じ年数がたつので、本当に人生を2回やっているような気持ちなんですけど。当たり前のものがなくなったということがあるので、当たり前のものがこれからもなくならないように、一日、今を生きるということを心がけて、一日の大切さをこれからも意識して持ち続けたいなと思っています」