阪神・淡路大震災から28年。震災を知らない世代が増え、記憶や思いを語り継ぐ、そして受け継ぐことがますます大切になってきました。今回、MBS入社1年目の22歳の記者が、双子の兄を亡くした妹と母親の28年間を取材しました。

震災により1歳半で亡くなった『双子の兄・将くん』

 中学生たちの前で阪神・淡路大震災の体験を語る高井千珠さん。28年前、娘の優さん(29)の双子の兄・将くんを1歳半で亡くしました。

 (高井千珠さん 関西大学第一中学校で話す様子 去年12月)
 「将くんは1歳半でした。1歳半で一人で天国に行かせてしまったことを考えると、本当に親としてかわいそうでなりませんでした。将くんのところへ行ってあげたいと思いながら毎日泣いていました」
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 高井さんは結婚から7年後に念願の子どもを授かりました。兄の将くんはよく笑う妹思いの優しい子だったといいます。
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 【高井千珠さんが震災前に撮影した映像より】
 (高井千珠さん)「ふたりともパパが好きで『パパ抱っこ』と言ってきました。あー、落ちるよ」

西宮市への帰省中に被災…“たまたま寝ていた場所”で

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 地震が起こる3日前、高井さんは、当時住んでいた山口県から兵庫県西宮市の実家に2人を連れて帰省していました。そして、あの日を迎えます。
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 1995年1月17日午前5時46分、阪神・淡路大震災が起きました。大きな揺れで高井さんの実家は全壊。当時、親子3人は2階の部屋で川の字になって寝ていて、高井さんの右側に寝ていた将くんは倒れてきたタンスの下敷きになったのです。
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 (高井千珠さん)
 「私が真ん中にいて、右に将くんがいて、左に優ちゃんがいて。交互にしていたので、その日は将くんをここ、優ちゃんをここに寝かせたんですよね。だから前の日は逆だったし、もし次の日でも多分逆だったので、本当にその日たまたま将くんがここにいました」
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 1か月後に親族が撮影した実家の映像から、当時の過酷な状況を伺うことができます。

 【親族が撮影した映像より】
 「階段を上がってきて、これが2階なんですけど。もう完全に屋根が落ちて、どこに何があるかわからない状態ですね。お花が置いてあるところ、多分このあたりだったと思います、私の記憶では。将ちゃんがこの下にいました」

 自分の行動が1つでも違えば将くんを救えたのではないか。高井さんは自らを責め続けました。

 (高井千珠さん)
 「まず実家に帰らなければ良かったと思うし、そこに寝かせていなければと思うし、夜中に1回起きたときに、将くんがちょっと上のほうにずれていたんですけど、そのまま元に戻さずに、私自身が戻さずに寝てしまったこととか。息子が亡くなったのに自分が生き残ったこと自体が本当につらかったですね」

成長する妹・優さんに「将くんと同じところで止まってほしいと思っていた」

 高井さんは、将くんが亡くなってからも椅子に写真を置いて、将くんの食事を作り続けました。
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 成長する優さんを見ると、時が止まった将くんのことが頭をよぎります。優さんの入園式では思わず涙が溢れました。

 (高井千珠さん)
 「成長しないでと思っていました。このまま時間が止まって、将くんと同じところで止まってほしいなとすごく思っていて。将くんが一人置いてけぼりになっているような感じがして。優ちゃんの成長を感じると、成長できていない将くんのことですごく頭がいっぱいになっていました」
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 どうすれば優さんの成長を喜べるのか。高井さんは、将くんも一緒に成長できるようにと、通園カバンや給食セットを全て2人分用意しました。

小学校1年生になった妹が聞いた「私と将くん、どっちが死んだら良かった?」

 そんな高井さんをハッとさせる出来事が起こります。それは小学校1年生になった優さんが投げかけたこんな質問でした。

 (高井千珠さん)
 「『私と将くん、どっちが死んだら良かった?』って言われたんですけど。1年生の子がそんなふうに思っていたんだと思ってまず動揺して。でもそれを顔に出しちゃいけないと思って、結局『どっちも死んでほしくなかったよ』って本当に思っていることなのでそういうふうに言ったんですけど」

 亡くなった将くんを思い続けることで優さんを傷つけていたのではないか。高井さんはこの20年、優さんの真意が気になっていました。

 現在29歳になった優さん。「私と将くん、どっちが死んだら良かった?」。なぜ、この質問をしたのか聞いてみました。

 (高井優さん)
 「私が小学校低学年くらいのころまでは、けっこう将くんのご飯を用意したりということも多くて、将くんが生活の中にたくさんいることが多かったので、やっぱり子どもながらにいろいろ気になっていたのかなと思います。でも愛されていないとかっていうのはなくて。あんまり覚えていないんですけど、何が不安やったんかな。…不安だったんでしょうね。漠然とした不安があったんだと思います」

 高井さんが優さんの気持ちを気にしていることについては。

 (高井優さん)
 「この前聞かされて、初めて気にしていることを知ったくらいなので。全然気にしなくていいかなと思います。将くんが死んだときの母の年齢に近づいてきたというのもあると思うんですけど、子どもが死んだときの気持ちがちょっと、わからないけど、昔よりは何となくわかるかなと思います」

28年がたった母親の思い「ああしておけば良かったを減らして別れたい」

 去年12月。優さんの母校「関西大学第一中学校」に高井さん親子の姿がありました。高井さんが優さんを誘って、初めて親子での対談を行うことになったのです。

 【対談の様子】
  (娘・優さん)「私が一人暮らしをするときに、将くんのお骨を持っていこうかなと思っているという話をこの前したんですよ。小さいころから将くんが当たり前に日常にいすぎて。それがすごく良かったなって思うの?」
 (高井千珠さん)「小さな分骨っていうお骨があって、『それちょっともらっていっていい?』と言ってくれたのが、私はすごくすごくうれしかったです」
  (娘・優さん)「日常にありすぎて、仏壇とかも。生活の一部だから普通に思って、自分でもびっくりしました」

 震災から28年。将くんの存在と母の思いは、確かに娘に伝わっていました。
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 (高井千珠さん)
 「将くんとの別れのときに、たくさんたくさん本当に後悔して、罪悪感があってつらかったんですけど。優ちゃんと別れるとき、突然かもしれないし、病気でかもしれないし。別れるときには一つでも優ちゃんへの『ああしておけば良かった』『こうしてあげれば良かった』というのを減らして優ちゃんと別れたいなと思っていて。私自身の生き方もそうですし、優ちゃんに対しての関わりとか過ごし方もそんなふうに生きることが、私のこれからの残りの人生の目標かなと思っています」