ロシアによるウクライナへの軍事侵攻について、現地で4か月以上にわたって取材してきた香港出身ジャーナリストのクレ・カオルさん。戦争を目の当たりにしてきたカオルさんに、命懸けの取材を通じて感じたウクライナの今について聞きました。

ロシア兵に銃を突きつけられたことも

 ―――カオルさんはこれまでMBSの番組でも何度も中継で現地の様子を伝えてくださいましたが、本当に今、ご無事でいらっしゃることが何よりだと思います。けがや病気はされませんでしたか?

 「不思議なくらいに大丈夫です」

 ―――ただ、カオルさんは、ともに取材をしていた人が負傷したり亡くなったりという経験をされているということですね。カオルさん自身はウクライナの主に東部、広くいろいろな場所を取材され、その中でも印象的だったのはやはりキーウ近郊の街ということですが、かなりロシア兵と接近するようなこともあったようですね?

 「そうですね。最初の1週間くらいは、キーウの交通手段も断たれていまして、しばらく動けなかった時間も続いていたんですけど、ようやく車を見つけてイルピンに入ろうとしたところ、ロシア兵のチェックポイントに当たってしまって、銃を突きつけられたこともありますね。ウクライナの兵士に、この先にもう1か所ウクライナ軍によるチェックポイントがありますよという情報を受けて、進んでみたら、そこがロシア軍のチェックポイントになっていたということがありました」

 ―――カオルさんは大丈夫でしたが、場合によってはメディアの人間もそこで射殺されるという可能性もあったのですか?

 「そうですね、特にブチャ近辺の軍は結構、メディア関係なく撃ってしまう部隊もあったという話なので、僕たちは大丈夫で済んだんですけれども、そこで亡くなってしまったアメリカのジャーナリストもいました」

 ―――カオルさんはそのチェックを受けたときに、何かを要求されたのですか?

 「そのときは『プレスです』って両手を上げて、僕以外にも2人、ジャーナリストがいたんですけど、全部手を挙げて、兵士もそれをわかってくれて釈放してくれました」

 ―――その時は「取材人です」ということが釈放の理由になったけれども、そうじゃない場合も大いにあると?

 「そうじゃない場合も多くあると思います」

橋の上で亡くなったままになっている市民を目撃

 ―――「ブチャ」というキーワードが出ました。ここは民間人の大虐殺が起きた場所ですね。

 「実は戦争が始まった2月24日に、僕はたまたまブチャにある町にとまっていまして、その日も爆撃の音が聞こえて起きたようなものですね。その後ブチャを出てキーウの中心部まで来たんですけど、虐殺が終わってからも二度と戻ることはなかったです」

 ―――今回の取材の中で民間人が殺害された状況というのも目にしたんですか?

 「特にイルピンとキーウの間には壊された橋があって、3月の頭とか中旬くらいに人道回廊があって、そこでイルピン方面の民間人がキーウへ逃げてきたんですけど、逃げている間にも爆弾が飛んできて、橋の上で亡くなったままになっている市民もいました」

 ―――特に最初のキーウ近郊は激しかったと思います。JNNもこの辺りの町に入っていますけれども、本当に綿密に計画をして入っていたと思います。やはりロシア兵の影があるときには近づかないとかそこら辺の不文律があったのですか?

 「基本的にはウクライナ軍が町の要所を守っていまして、この先にもしロシア兵がいるとして通ろうとすると大体止められてしまうんですね。ですからなかなかロシア兵自体と会う機会もなかなかないんですね」

爆発で一緒にいたドライバーが負傷

 ―――ウクライナ軍とコミュニケーションをとりながら、最新情報を手に入れながらということですね。自分が死ぬかもしれないという恐怖はなかったですか?

 「リシチャンシクの爆撃のときは5mくらい離れたところで爆弾が爆発してしまって、その破片で僕たちのドライバーさんが負傷してしまったんですけど、すぐに隠れて、隠れている間に2発目3発目が飛んできました」
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 ―――カオルさんが一緒にいたドライバーさんは負傷したと。ドライバーさんはその後どうなったのですか?

 「ドライバーさんの肩に爆弾の破片が刺さって、結構角度が悪いらしくて、神経線を切断させながら背骨のところまで到達してしまって、ちょっと今は右半身がまだ動かない状態で、リハビリに2年間くらいと言われています」

 ―――この後、土地勘があるからドライバーさんは片手で運転して、みんなと共に病院に入ったということですね?

 「そうですね。病院は3分くらいのところにありましたので」

取材時は「防弾チョッキ」を着用して「止血帯」などを携行

 ―――そういう状況の中で、できることは非常に限定的だと思いますが、安全確保というか、どのような対策をとって取材を進めているのですか?

 「基本、ウクライナ軍が発行している記者証、戦時中の記者証みたいなものがあるんですけど、その有効条件としては防弾チョッキの着用と明記してありまして、そもそもそれを着ないとまず前線のところに行かせてもらえないです」

 ―――撃たれたときや破片が飛んだときのための「止血帯」という道具も携行するんですね?

 「そうですね。巻いてプレッシャーをかけて、腕に行く血を止めるようなものがあります。それを使ったのは初めてでした」

 ―――止血帯をドライバーさんにそのとき使って、何とか応急処置で血を止めて病院まで行ったと?

 「はい。でもちょっと当たるところが悪くて、止血帯でもどうにもならない傷がありました」

 ―――リスクと常に隣り合わせということですよね。怖い、やめたい、もう帰りたいという気持ちになることはなかったですか?

 「実は前線の町ではまだまだウクライナの一般市民で残っている方もいらっしゃいまして、そんな民間人が残っている中、記者が先に逃げてもしょうがないと思いますので、大丈夫です」

開いているスーパーなどで食料を確保

 ―――リアルな現状を伝えたいという一心ということなんですね。ウクライナの中でも何事もなく平穏に暮らせている場所はあるのですか?

 「最初はキーウもひどかったんですけど、4月ぐらいに入ると、キーウに対する攻撃も弱まり、キーウのロシア部隊もほとんど撤退しましたので、基本キーウより西側はたまにミサイルとかが飛んできたりすることはありますけど、ちょっとずつ普通の生活を取り戻しています」

 ―――リスクの濃淡はあるけれども、日本人からすると、落ち着く瞬間はあるのだろうかと感じます。カオルさんはMBSの番組内の中継では建物の中にいらっしゃいましたが、食事や宿などの確保はどうしていたのですか?

 「申し上げたとおり、キーウより西は町として稼働している町が多くて、閉まっているレストランも多いんですけど、スーパーやレストランがまだやっているところも一部ありました。キーウでもレストランがほぼ1か月間ほとんどなかった状態だったんですけど、スーパーはやっていますし、そういったところでは普通に食事はとれますね。あとは、実は昔にベラルーシで取材していまして、そこで知り合った友達との繋がりも深いので、ちょっと家を貸してくれたり一緒に食事をしたり」
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 ―――横の繋がりで滞在場所を見つけていったということですね。気になっているのは、教育施設が2000か所ぐらい破壊されているということですが、子どもたちは学校など、そういう中でどうやって過ごしているのでしょうか?

 「破壊された学校をたくさん見てきましたけど、実は戦争が始まってからはほとんど学校というのは使われていなくて。ただ、ウクライナのネット環境はかなり優秀で、だいたいどこに行っても“ズームクラス”とかができる環境にはなっていまして、ズームクラスを受けるときは、避難した子どもたちがドイツやポーランドから参加し、非常にインターナショナルなズームレッスンがありましたね」

 ―――町の治安はどうでしたか?
 
 「僕が見た限りでは、攻撃を受けたスーパーマーケットはあるものの、大規模な略奪や治安がすごく乱れている様子はなかったです」

取材で命を落とすようなことがあっても「後悔しない」 9月下旬に再びウクライナへ

 ―――日本人義勇兵が現地にいるという話もあります。そういった人を見た、あるいは聞いたことはありますか?

 「日本人の義勇兵は聞いたことはあるんですけど、実際に会ったことはないです。カナダ人義勇兵とアメリカ人の方は会ったことがあって、カナダ人の方は不幸なことに僕がイギリスに帰った2か月後ぐらいに前線で亡くなってしまいました」

 ―――カオルさんは9月下旬に再びウクライナに行くということですね。もし自分が取材をしている上で命を落とすことがあったり、深刻なけがをすることがあったりしても、この取材を続けているということを後悔はしませんか?

 「後悔しないです。やっぱり香港人のジャーナリストは今、香港で活動するのは非常に難しくなっていて、香港で独立した報道ができない。日本のメディアで報道できるようになっていて、僕もすごくうれしいと思っています。香港で報道はもう難しいんですけれども、まだやることはたくさんありますし、世界中のどこかで助けになるということがすごくありがたいと思っていますので」