『欲しがりません勝つまでは』『足らぬ足らぬは工夫が足らぬ』など戦時中に数多く作られた「国策標語」。市民の日常に浸透し、戦争へと誘導するプロパガンダに使われました。プロパガンダという言葉は宣伝のことですが、特に特定の主義・思想などの宣伝に対して使われます。こういった標語はどのように作られて国民を扇動していったのか。その真相に迫りました。
子どものおもちゃにまで…戦時中に数多く作られた「国策標語」
兵庫県姫路市に住む黒田権大さん(93)。中学生の時、毎日のように書いた言葉を今でも覚えています。『欲しがりません勝つまでは』など戦時中に作られた標語です。
(黒田権大さん)
「みんなが戦争に協力させられた。内心は知りませんよ、表向きは全部が一億(国民)がみんな戦争に協力させられたわけや。国の方針ですわ。それが文部省を通して全国の学校に伝達するわけです」
当時、日本では戦意高揚や愛国心を高める国策標語が数多く作られたのです。
戦時中のおもちゃや日用品など約5000点を集めている上村真理子さん(69)。標語は身の回りの様々なものに付けられていたと話します。
(上村真理子さん)
「子どもなんかは遊ぶことによって(標語を)身につけてしまっていくんじゃないかなと思うんですよね。自然となっていくんじゃないですかね、軍国少年・軍国少女に」
紙風船には『欲しがりません勝つまでは』の文字。
かるたにも日本軍を応援する言葉が並んでいます。こうした標語を通して国の都合の良い主張や情報を宣伝するプロパガンダが行われていたのです。
(上村真理子さん)
「正面から見たらかわいい狸さんですけれど、こういった貯金箱にもこのような敵愾心を持たせるような感じですね。当時の世相というか雰囲気を伝えているんじゃないかなと思うんですよ」
新聞社が国に「標語募集」の後援依頼…4日間で約32万の応募
こうした標語はどのように作られたのでしょうか。
(記者リポート)
「防衛省の防衛研究所です。こちらに当時の新聞と国が標語に関して強くつながっていたことを示す資料が残されていました」
それは新聞社から陸軍への依頼文です。
【新聞社からの依頼文】
「強化標語を公募し、以つて一億国民蹶起の合言葉となし。御賛同の上、御後援賜はり度」
新聞社のトップが、後に総理となる陸軍大臣の東条英機に、標語募集の後援を願い出ていたのです。この新聞社はその後、標語を募集。実際に陸軍や海軍が後援していました。
さらに、太平洋戦争の開戦翌年の1942年には国が大手新聞社とともに標語の募集を行い、当時を象徴する「10の国民決意の標語」が選ばれました。
【10の国民決意の標語】
▼欲しがりません勝つまでは
▼「足らぬ足らぬ」は工夫が足らぬ
▼さあ二年目も勝ち抜くぞ
▼たつた今!笑つて散つた友もある
▼ここも戦場だ
▼頑張れ!敵も必死だ
▼すべてを戦争へ
▼その手ゆるめば戦力にぶる
▼今日も決戦 明日も決戦
▼理窟言ふ間に一仕事
わずか4日間で約32万の応募があり、当時の熱狂ぶりがうかがえます。国民から広く募集することで自発的に戦争に協力する雰囲気を作り出したのです。
きっかけは大手新聞社が戦争で亡くなった兵士をたたえる歌詞などを募集していたことです。東京外国語大学の中野敏男名誉教授は「そのノウハウを国が踏襲してプロパガンダに利用した」と指摘します。
(東京外国語大学 中野敏男名誉教授)
「メディアですね。新聞とか雑誌が先行して1930年代初めに懸賞募集という形をつくっていたんですね。その形を1930年代後半、日中戦争以降の時期に国家が上から利用するという形になっています」
標語が入選した男性の娘『自慢する話ではなかった』
では標語に応募したのはどのような人だったのでしょうか。取材に応じたのは関西に住む80代の女性。女性の父親は『すべてを戦争へ』という標語を応募して「国民決意の標語」の1つに選ばれたのです。
ただ標語について父親が語ることは無かったといいます。
(標語が入選した男性の娘(80代))
「自分で納得と言っていいのか、何て表現していいのかわからないけれど、自慢する話ではなかったですね」
戦争のために大勢の人が財産を国に寄付していた時代背景が、この標語を生んだのではないかと話します。
(標語が入選した男性の娘(80代))
「社会的なその時の時代の流れかなと思って。(戦時中は)流れにいくら抵抗しても難しい。流れに乗ってしまって表現したのかと。(Q結果として国策に協力してしまったという思いがあった?)あったと思う。結果としてね。(Q後悔?納得がいかなかった?)それは口には出さなかったけど、何も言わなかったというとこで」
軍国主義とは程遠い庶民が作った標語が、結果として様々な形でプロパガンダに利用されたのです。
戦争が進むにつれて『アメリカ人をぶち殺せ』など過激な標語も作られました。しかし終戦とともに日本ではこうした標語は姿を消します。
一方で終戦から77年が経った現在も国によるプロパガンダは行われています。ウクライナ侵攻をめぐり、ロシアは自国民に対してウクライナや西欧諸国と正反対の主張を展開しています。
『我々は標語に“触発”されたというより“抑圧”“支配”された』
中学時代、毎日のように標語を書いていた黒田さん。国のプロパガンダに支配されない世界を切に願っています。
(黒田権大さん)
「庶民はですよ、次から次に標語ポスターを出してくると、そういうものに我々は触発されたというよりは、抑圧されたと言ったほうがいいかなやっぱり。支配された。もし戦争になればこういうプロパガンダがまた行われるでしょうね。そんなことがないように平和大国であってほしいと願うだけです」