ウクライナ軍事侵攻が始まる前からウクライナとの交流を続けてきた、大阪府八尾市の日本ウクライナ文化交流協会。2005年に協会を設立した小野元裕会長の1日に密着しました。大阪から「ウクライナ」という国を発信し続けた小野会長は、今回の軍事侵攻をどのように見ているのでしょうか。また、侵略に対するウクライナ人のメンタル、歴史を紐解くと、様々なことが見えてきました。

ウクライナとの時差で『毎朝4時に起きて活動』

 大阪府八尾市にある「日本ウクライナ文化交流協会」。朝6時の住宅街に静かにあがっていくのは「青い空と小麦畑」を表すウクライナの国旗です。
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 小野元裕会長は、ほぼ毎朝4時に起きて全紙に目を通します。最近、気がかりなのは日本への難民の受け入れです。

 (日本ウクライナ文化交流協会 小野元裕会長)
 「ウクライナ語の通訳とか翻訳を(できる人は)ものすごく少ないんでね。ロシア語ができる人がやるといっても、たぶん足らないよね。(Qロシア語とウクライナ語は違う?)例えば『ありがとう』はロシア語で『スパシーバ』と言います。ウクライナ語では『ヂャークユ』と言う。似て非なるからややこしいね。ロシア人は(ウクライナ語)を3割ぐらいしか分からないという人が多いですね」
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続いて、ウクライナの友人たちから届いたメールを確認。日本のウクライナとの時差は-7時間。早朝から活動するのは、そのためです。

 (ウクライナ文化交流協会 小野元裕会長)
 「(Q日本の早朝とか深夜がウクライナでのメインの時間になる?)そうそう」

 メッセージは動画のこともあり、ウクライナの現状がわかります。

現地のウクライナ人とオンラインで会話

 最近、ウクライナ南東部の都市・マリウポリでは、市民の避難所として使われていた劇場が空爆されました。地面にロシア語で大きく「子どもたち」と書かれていたのにです。

 フランキフスカにいるウクライナ人の翻訳家・アンドリーさん。小野会長とのオンラインでのやりとりで、ロシアが子どもにも攻撃することについてはこう話しました。

 (フランキフスカにいる翻訳家 アンドリーさん)
 「統計が毎日出ていますが、病院だけで116か所、今のところやられていますね。子どもが産まれる病院はかなりやられています。ウクライナ人同士で話すときは、なぜ新生児病院を狙うのかと。それは私たちウクライナ人の将来を切りたいから。(Q病院に軍人がいたというのは?)それは100%嘘ですね。(ロシアの言葉は)嘘ばっかりだね、びっくりするほど」
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 (日本ウクライナ文化交流協会 小野元裕会長)
 「(ロシアはウクライナの)新しい命を壊そうとしているんですよ。根絶やしにしようとしているんですよ」

 取材した日、アンドリーさんは妻や子どもを国外へ避難させようと西へ移動中でした。

 (アンドリーさん)「ウクライナから西ヨーロッパに向かった子どもたちは、薬が不足している、食料も不足している。人道的な支援を(お願いしたい)。ウクライナは絶対に降伏しないから」
    (小野会長)「スラヴァウクライーニ(ウクライナに栄光あれ)」
 (アンドリーさん)「英雄たちに栄光あれ」

ロシアの研究を続けるうちに「ロシア発祥の地がウクライナ」と知る

 日本から支援を続ける小野会長。ウクライナにどっぷりはまったきっかけとは…。

 (日本ウクライナ文化交流協会 小野元裕会長)
 「元々私は高校の時にドストエフスキーが好きで、ドストエフスキーを原文で読みたいと思って天理大学のロシア語学科に行ったんです」
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 ロシア語を猛勉強し、出版社に就職した後もロシアの研究を続けてきました。すると…。

 (日本ウクライナ文化交流協会 小野元裕会長)
 「やっているうちに、ロシアの発祥の地がウクライナと分かった。よし!これはウクライナと交流と研究をやっている人はいない。自分がやらないかんと。(当時は)『どこに行くの?ウクライナ?』って。『え?ウルグアイ?』と言われて、ウルグアイは違いますとか言いながら」

 2005年、勤務先を辞めて「日本ウクライナ文化交流協会」を設立します。ウクライナとの強いつながりを頼って、今、小野さんの元を大勢の人が訪れています。

ウクライナへの入国を考えるノンフィクションライターが訪れる

 小野会長は、国を流れる大河の名をとった「ドニエプル出版」の社長。
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 さらに創刊90年の新聞社の社長でもありました。

 (日本ウクライナ文化交流協会 小野元裕会長)
 「東大阪新聞。地域のいいことだけをのせる新聞なんですね」
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 世知辛い現代だからこそ、いい記事だけ載せたいといい、紙面には自ら「ウクライナを歩く」という小説を連載しています。
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 取材した日の午前、東京から、ウクライナへの入国を考えているノンフィクションライターの水谷竹秀さんが訪ねてきました。太いパイプを持つ小野さんを頼ってきたのです。

 (小野会長)「リビウのイゴルさんとつなごうかと思うんですけどね」
 (水谷さん)「お願いします。ロシアの工作員の可能性を疑われるというか、不審者扱いされてしまうらしいので。写真が撮れる場所を探してくださる、機転を利かせてくれる、そういう相談に乗ってくれる方」
 (小野会長)「交渉したらいけるかもしれないね」
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 (ノンフィクションライター 水谷竹秀さん)
 「日本とウクライナの交流事業をやっているというのをインターネットでお見かけしたので、それで小野さんにお電話をして、そこから小野さんにいろいろアドバイスをいただいていたんですね。(ウクライナに)8割9割くらいは行こうと思っています。(今は小野さんにも相談し)行って何が得られるかというのを判断する時間に割いているところ」

軍事侵攻の後に問い合わせが急増「半分悲しくて半分うれしい」

 一方、午後は若者向けネット配信の収録です。ウクライナについて話してほしいと頼まれていました。

 (小野元裕会長 収録の様子)
 「民族は一緒です。宗教も一緒です。食べ物も一緒です。大きくなりすぎた子ども(ロシア)がお母さんであるウクライナを痛めつけている」

 これまでウクライナについて聞かれるのは年に2、3回程度。軍事侵攻の後、問い合わせは一気に増えました。

 (日本ウクライナ文化交流協会 小野元裕会長)
 「(Q聞かれる機会が増えたことについて?)半分悲しくて半分うれしいですね。やっぱり知ってもらえるということはうれしいんですね。本当は2005年からずっとやってきた文化活動で皆さんに知ってもらえたら良かったんですけども」

現地の人たちと連絡を取り状況を聞く

 午後8時、ウクライナは昼の1時ごろ。この時間が現地と一番連絡が取りやすいといいます。

 (リビウ在住・イゴルさんとのオンラインでのやりとりの様子)
  (小野会長)「今どうですか?」
 (イゴルさん)「夜中に1回サイレンが鳴っていて。避難所に逃げた人もいたし、6時前までそんな状態。(家族は)こっちにいます。みんなこちらにいます。(Q家族と話し合って決めた?)そうですね。(Qこの場所で家族とともに戦う?)そうですね。そのつもりです」
  (小野会長)「スラヴァウクライーニ(ウクライナに幸あれ)」
 (イゴルさん)「英雄たちに栄光あれ」
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 (日本ウクライナ文化交流協会 小野元裕会長)
 「切ないでしょ。彼らは国から離れないんですよ。日本の難民受け入れを知っているけど、絶対死んでもここにいるんですよ」
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 次に話したのは、首都・キエフから300km離れたクメールニスクに避難しているオレーナさん。日本の華道をウクライナで教えています。

   (小野会長)「今、食べ物はありますか?」
 (オレーナさん)「食べ物はありますが値段がちょっと高くなりました。1.5倍に。きょうはボランティアでカモフラージュネットを作っていました」

 ウクライナの女性らは、体育館などに持ち寄った布を網に絡ませて軍用車両などを隠す迷彩柄のネットをつくるそうです。
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 (フランキフスカにいる翻訳家・アンドリーさん)
 「ウクライナは勝利する。それはおばちゃんから子どもまでみんな信じています。ウクライナでは毎朝9時に1分黙とう。亡くなられたウクライナ人のために」
    (小野会長)「全ウクライナで?」
 (アンドリーさん)「全ウクライナで」
    (小野会長)「僕たちも同じようにする」

日本からできる支援を考え…コンサートの開催が決定

 ウクライナの情勢を毎日聞くたび小野さんは、やるせない気持ちになるといいます。日本からできる支援はないかと、3週間、考え続けています。

 そして…。

 (日本ウクライナ文化交流協会 小野元裕会長)
 「3月21日にウクライナの平和のコンサートを開きます。その打ち合わせをしたいと思います」
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 急遽、コンサートの開催が決まりウクライナの歌手、エバ・ハダシさんの参加が決まりました。エバさんも首都・キエフに親戚や友人が数多くいます。

 (歌手・作家 エバ・ハダシさん)
 「21世紀にはこのような大きな戦争になるとは誰も思わなかったです。ありえないことです。21世紀はみんな平和でいこうという考えだったんですけど、まずはショックでした。今もショックです」
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 コンサートでぜひ歌いたいというウクライナの国歌を小野さんの前で披露します。

 (ウクライナ国歌を歌うエバさん)
 「(訳)ウクライナの栄光も自由もいまだ滅びず。若き兄弟たちよ、運命はいずれわれらに微笑むだろう」
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 (日本ウクライナ文化交流協会 小野元裕会長)
 「ウクライナを旅した時のことを思い出すのがね、ものすごくいろんな情景を思い出すんですね。またあの美しい街に戻すのにものすごく時間はかかると思いますけど、でも記憶の中にありますから」