阪神・淡路大震災の年に神戸に本社を移し、今は神戸港の間近に本社を構える。社名の「フェリシモ(FELISSIMO)」には、「最大級で最上級の幸せを届けたい(英語のfelicity=至福に強調を表す接尾語ssimoを付けた造語)」という気持ちを込めた。通信販売大手に育て上げた矢崎和彦社長は、32歳の時に社長となり30年あまり。この間、カタログの有料化や500色の色鉛筆などさまざまな驚くべき策を打ってきた。フェリシモはなぜ次々と独創的な商品を生み出すことができ、群雄割拠の通販業界で成長し続けられるのか?そして次に手掛ける新たな一手を矢崎社長に聞いた。
「神戸ポートタワー」展望層の運営権を取得したワケ
―――2021年に神戸港の目の前に本社を移転されましたね。
本社から見える神戸港の表情は、曇っていても雨でも大雨でもそれはそれで全く違うんです。朝昼晩でも違いますし。本社を神戸に移したのは、阪神・淡路大震災が起きた1995年で、そのころから社会の呼吸と会社の呼吸がなんとなくひとつになっていった気がします。そして2021年に神戸港の間近に移して、オフィスは白色で統一しています。オフィスは画用紙の役割でいいかなと思って。商品は色とりどりなので、オフィスは白色でと。その方が仕事をする上で考えやすいかなと。
―――500色の色鉛筆は矢崎さんのアイデアだとか?
1992年に発売しましたので、もう30年あまりになります。小学校に入学する時に、確か24色だか36色ぐらいの色鉛筆を買ってもらってとてもうれしくて宝物のようにしていました。500色の色鉛筆は、同じ黄色でも同じブルーでも色々な種類があります。無限に色は出せますが、この何万本という商品を同じ色に再現できるというのはすごく技術が必要です。
―――本社にワインの醸造所をつくるなど新しい事業を手掛けられていますね。
我々はたくさんの商品を販売している会社ですけれども、ものづくりをしたことがないんです。商品は、取引先のみなさんに作っていただいたものを仕入れて販売するということをやってきました。商品を作るってものすごく大変じゃないですか。それを経験したい、社員たちに経験させたいと思って。ワインの醸造で得たものを我々の新しい商品や事業に転換していく狙いもあります。また、今年春頃を目指してリニューアルオープンする「神戸ポートタワー」の展望層フロアーなどの運営権を取得しました。展望層では、光をテーマにしたミュージアムや回転フロアーを活用したメリーゴーラウンドカフェ&バーを作ります。神戸ポートタワーは神戸の人たちや神戸を訪れる人たちにとって特別な場所だと思います。特別な場所をもっともっと我々の手で輝かせてあげたい、見る人もタワー自身も輝く。そして神戸が輝いていく、そんな事業になればいいなと思っています。
無料が当たり前のカタログを「有料化」でも即完売!
―――次々とアイデアが出てきますね?
2022年には、野生動物や自然環境の保全、病気や障がいがある人の支援など社会的課題と向き合う仲間たちとともにカタログを創刊しました。基金付きの商品などを通して社会課題を考えるきっかけになればと。私には仕事場で片時も離すことができない一冊のノートがあるのですが、思いついた時にアイデアをノートに書きこんで、やがて通販商品や新しい事業につながることもあります。また、会社の組織に「部活動」があって、社員が部署を超えて好きなことを商品化につなげています。「猫部」や「女子DIY部」など、今では15の部があり、社員たちにも好評です。
―――インターネット販売が6割と聞きました。でもカタログは根強い人気がありますね。
よくいただく声では、小さい子どもさんがいらっしゃるお母さまは、子どもがやっと寝ましたと。ご主人が帰ってくるまでのひと時をカタログで何か別の異次元にワープできるみたいな。1987年には、書店に並べるために思い切って780円で有料化したのですが、1万冊がたちまち売れて完売しました。「本屋さんで買えるようになったのですごくうれしい」と言っていただくお客さまもいました。それがきっかけでもう一度フェリシモのお客さまになっていただいた人もたくさんいらっしゃいました。
「サラリーマンになるのが夢だった」32歳の若さで社長就任
―――当初は、入社は考えていなかったとか?
私は子どもの頃からサラリーマンになるのが夢だったんです。父親が作った会社だったので、家業のような感じだったから日曜日とかもなくて。お友だちの家に行くとお父さんがいて、日曜日にはどこかに連れて行ってもらったとか話を聞きますが、私にはそういう経験があまりなくて。大きくなったらサラリーマンになるって決めていました。だから本当に大学の時もそう思っていたので、フェリシモに入ることも社長になることも一切考えてなかったです。大学卒業後に別の会社に入ろうと思って就職活動をし始めた時に、私の兄が「来いよ」と。「来て俺を手伝ってくれ」と言われました。「お前が来るまで新卒は採用しない」と。「その方が絶対やりやすいだろう」とまで言ってくれて。結構、熱心に誘い入れてくれました。
―――32歳で社長になられました。社長になる年齢としては…。
若いですよね。兄と13歳離れていまして、兄がずっと言っていたんですが、「45歳になったら俺はやりたいことがある」と。「会社じゃなくてもうちょっと別のことをやりたいので、お前が社長になれ」とずっと言われ続けていました。とはいえ会長としてずっとおりましたので、何かあると相談できる機会は一杯ありましたし。喧嘩することも一杯ありましたけどね。
―――社長になられて30年あまりたちます。これまでで一番楽しかったことは何ですか?
一番楽しかったこと?今かな?今かも知れません。どんどん社員も増えてきましたし、色んな知り合いも増えてきました。結構大変なことも一杯あったし、楽しいことも一杯ありましたけど、なんか根っから楽観的なせいか、なんかね、楽しくなかったことって思い出せないんですよね。
会社が「社会に存在する意味」が変わった阪神・淡路大震災
―――あの時が転機だったなと思うことはありますか?
明らかに、神戸に移転した時ですかね。神戸に本社を移すことになり、すごくワクワクしていましたが、1月17日に阪神・淡路大震災が起こりました。2月に移転する予定だったので段ボールに詰めるとか、引っ越しの準備を始めようとしていた頃でした。でも移転話が全部ゼロになったどころか、えらいことになったなということもあったのですが、結果的にその年の9月に引っ越して来ました。電車の復旧とかを待ってね。
―――移転直前に大地震が起きたのですね。
震災が起きてフェリシモも駄目になったと思ったお客さんがたくさんいらっしゃって。当時、ファックスとかで「もうフェリシモはだめになったかもしれないけれど、また復活したら絶対買いますから、応援していますから」といったお便りがいっぱい来ました。商品を買っていただいていたお客さまが、例えば5000円の商品を買っていただいているのに1万円分を振り込んでこられるとか、現金書留でお金を送ってこられるとか。「フェリシモだったら間違った使い方をしないと思うから、神戸のために役立ててください」というお客さまが本当に多かったんです。神戸に来たことで物理的な立ち位置が変わったということ以上に、フェリシモが社会に存在している理由がすごく大きく変わったんですよ。
―――社会に存在する理由が変わった?
お客さまに神戸をもっと長い時間軸で支援していただきたいので、我々は「一緒にお願いします」ということで義援金を呼び掛けました。毎月100円だけでいいですから、賛同してくださった人たちに義援金をお願いしますと呼びかけたところ、結果的に10年間やりましたが、全部で5億円くらい集まりました。たぶん、震災がなくて神戸に来ていたらそういうことになっていなかったかも知れません。
“こんな商品があれば売れるんじゃない?”という発想で作るな!
―――会社の強みを教えてください。
例えば、色鉛筆一つでもそうですが、鉛筆って世界中にいっぱい昔からあります。でもフェリシモが色鉛筆を作るとこうなると。だからたぶん同じものを見ても違うアウトプットを想像できる想像力みたいなものは強みかなと思います。商品もものすごく独創的なものが多いですし。商品で言いますと、うちの場合は「こんな商品があれば売れるんじゃない?という発想で作るな」と言っています。「自分が本当にほしい、自分がお客さまだとしたらほしくなる、買いたくなるような商品を作ってね」と。でないと独創的なものは生まれないし、模倣しかできない。
―――自分がほしいものを作る商品開発なんですね?
ひとりひとりが情熱を注げる、愛情を注げる商品を作ってほしいと頼んでいます。だから「うちは事業性・独創性・社会性を大事にしてください」とよく言うんです。事業性というのは事業として当たり前のことだけれども、独創性は、絶対よそのマネをするなという独創性。もうひとつは、社会性。「その3つの輪を書きまして3つの輪の交じりあうところを目指そうね」と社長になってこの30年あまりずっと言い続けてきました。
無理に京都や大阪のマネなんてしない方がいい
―――京都や大阪に比べて神戸は外国人観光客がなかなか増えないですよね?
私は、神戸には大阪とか京都とか東京のように大勢の外国人が歩いている状態でなくても、好きな人だけが来ていただくのがいいなと思っています。だって神戸は外国人の居留者数ってやはりすごく多いじゃないですか?なぜかというと、大阪で仕事をしていてもやはり、神戸の暮らしやすさとか自然との関係性とか色々なことを含めて神戸が選択されているということは、外国人から見ても価値がある地域だということです。そこをちゃんと見据えたコンテンツ設計とか、動線設計をしていく。無理やり来ていただくよりはいいんじゃないかと。ちょっと山に行くと人工スキー場だけどスキーもできるし、海水浴場もあるし。無理に京都や大阪のマネなんてしない方がいいでしょうね、絶対。
―――今思い描いている夢は?
今思い描いている夢…そうですね、いっぱいありますが、「私は社会を幸せにするプロデューサー集団をフェリシモでやりたいと思っています」ということです。社会には色々な課題がもっともっとあって、可能性もあって。たくさんの社会課題をたくさんの可能性の芽に変えていきたい。そのことをお手伝いできるフェリシモになりたいし、あり続けたいというのが夢ですね。
―――最後に、矢崎さんが考えるリーダーとは?
会社って何をやってもいいんですよ。そのためには、中にいる人たちがやはり色んなことをやろうと思う、そういうふうな思いになってもらうための役割と舞台を提供し続けること。それが、私が思うリーダー像です。
■フェリシモ 創業1965年。大手紡績会社に勤めていた父・又次郎(またじろう)が独立し、働く女性たちに向けたハンカチの頒布会としてスタート。当時の社名は「ハイセンス」。1989年に今の社名に変更。1995年神戸に本社を移転。従業員750人、売上高321億円。
■矢崎和彦 1955年大阪市生まれ。学習院大学経済学部卒業後、1978年入社。1987年社長就任、現在に至る。神戸経済同友会代表幹事(2007年~2009年)、神戸市デザインアドバイザリーボード、神戸商工会議所デザイン都市推進委員会委員長、日本マーケティング学会理事、神戸大学大学院経営学研究所非常勤講師などを歴任。
※このインタビュー記事は、毎月第2日曜日のあさ5時30分から放送している「ザ・リーダー」をもとに再構成しました。