いまや日本を代表する外食産業に成長した回転ずし。業界大手の「くら寿司」は、お皿を入れたら景品が当たるチャンスを得る「ビッくらポン!」や抗菌すしカバー「鮮度くん」を導入するなど独自のアイデアで店舗数と業績を伸ばしてきた。ながらく影響を受けてきた新型コロナウイルスが5類に移行され客足も戻りつつあるいま、創業者の田中邦彦社長は、群雄割拠の回転ずし業界の中で会社をどのように導こうとしているのか。アイデアマンとして知られ、会社を成長させ続けてきた田中社長にくら寿司の「目指す先」を聞いた。

「酢メーカー」に就職したものの「工夫の余地がある」とすし店を開業

―――どのような幼少期を過ごされましたか?
 1951年の生まれなんで、まだ戦争のにおいが残っていましたね。私は子どもの頃からどっちかというと1人でいるのが好きなほうでして、よく近くの川に釣りに行っていました。あまり大勢で遊ぶというのは好きではなかったですね。

―――大学を卒業して、一度就職されたんですよね?
 堺市に本社がある「タマノイ酢」という醸造酢の会社に就職しました。当時の花形はスーパーマーケットで、いまで言うIT企業のような位置づけでした。「ダイエー」に始まり「イオン」とか「ニチイ」とか。そういう業界が花形でした。でも私はへそまがりでしたから、「みんながそっちに行くなら、自分は古い業界に行ったほうがいいだろう」という単純な発想と「古い業界の川上から見たほうが、色んなものが見えるんじゃないか、流通が見えるんじゃないか」と思いました。

―――どうでしたか、お酢の会社は?
 面白かったですよ。本当に色々なことを教えてもらいました。無駄なものは何一つなかったです。でも、実は大学進学で岡山から大阪に出てくる時から「将来は自分で商売をしたい」と思っていたんですが、何をしようにも右も左も分かりませんので、「とりあえず」って感じで入った会社でした。会社員時代は色々なことがありましたよ。でも入社5年目か6年目の時に「ある部門を持たせてやる」と言われたのに、結局話がなくなって、この機会に自分で商売をやろうと。「さて、業種は何がいいかな?」と思った時に、やはり成熟した市場はダメだと。むしろ人気はあるけど、工夫の余地がある業種がいいんじゃないかと思ったんです。

破格の値段で店舗を借りる…月に1000万円を売り上げる店に

―――工夫の余地があると思い、すし業界に?
 人気の食べ物は、当時もいまもすしでしたからね。酢の仕事をしていて、すし店をいくつも見てきて、工夫の余地を感じていました。そして、26歳の時に堺市に持ち帰りと出前専門のすし店をオープンさせたんです。思い返せば、ある意味、あの時代は競争のない時代だったんですね。1960年代、1970年代は競争があるようでなかったようなものでした。出せば売れるので。

―――のちに回転ずしに進出して1号店は、堺市の中百舌鳥でしたよね。
 開業には、ストーリーがありましてね。私には、開業したら絶対に商売は当たると思っていた場所があったんです。ただ、当時は何しろお金がないでしょ?陰で妻がずっと交渉をしてくれていたんですが、あるとき「あの場所で商売できるよ」って。それも破格の値段で。当時、覚えていますけど、30万円の家賃が20万円くらいになったんです。しかも、保証金を出すお金がないと言ったら「ほな、もうええわ」って、タダ同然で。そこが、やがて月に1000万円を売り上げる店になるんですからね。

―――当時、お客さんがいっぱいの店を見てどんな気持ちでしたか?
 サービス業は儲けも大事ですけど、お客さんが喜んでくれているっていうのが基本なんです。いまでも覚えているのは、ある日、生きた車エビを「持って帰れ」って市場のおっちゃんが言うので、「ありがとー!」って持って帰って、それを回転ずしのベルトの上にフタつけて流したんですよ。生きたまま、安い値段で。そしたら、お客さんがフタをとると車エビがポンと飛び出るんですよ。お客さんは「キャーッ!」と叫ぶんです。「この値段でこの商品売るか!?」というのが、私の商売の基本です。

「小鳥を捕る仕掛け」から思いついたすしカバー「鮮度くん」

―――くら寿司といえば、すしカバーの「鮮度くん」をまず思いつきますが、田中さんが考えられたとか?
 そうです。ちょっと持ち上げるとすぐすしをとることができますし、衛生的です。思いついたのは、小鳥を捕る仕掛けからなんですよ。ざるに棒を立てて中にエサを置いて、鳥がエサを食べにきたらパッとひっぱって、ざるを落として小鳥を捕るという仕掛けが「鮮度くん」の原理なんです。5皿に1回、景品が当たるチャンスがある「ビッくらポン!」も私が考えました。
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―――「ビッくらポン!」は、どんな発想からだったのですか?
 テーブルの上に食べた皿を積み重ねていると、女性の場合、「こんなに食べている」という視線が気になるという意見があって、「これは絶対に改善せにゃいかん」となった時に、水を流して皿を回収しようと考えました。それと、お客さんがすしの跡が残った皿をテーブルの上に置いていると、在席時間は約40分前後ですから米がこびりついてなかなか取れないので、すぐ回収するメリットもありました。

―――なるほど!
 流している水の中に皿を入れてもらったほうがクリーニングがしやすいんですよ。そこで水を流して回収を始めたら、小さいお子さんがそこに皿を入れるのが好きだということがわかったんです。「小さいお子さんは、こういう単純なことが好きなんだ」と。そして生まれたのが、「ビッくらポン!」です。子どもが皿を入れるのが好きだったら、皿を5枚入れたらゲームができるようにしたらもっと楽しいんじゃないかと。

くら寿司の強みは「安全性世界一」 科学的な運営で安く提供

―――くら寿司の強みは?
 やはり、食の安全性は世界一じゃないでしょうか。それと科学的な運営。だから安くできるんじゃないでしょうか。科学的というのは、いまお客さんが何を食べていて、食材は何が不足しているかが厨房で全て分かるシステムです。そして、可能なものはできるだけハンドメイドで、自分のところでやるというのが1つの方針なんですね。味のチェックにしてもシャリにしても毎月全店のものを集めてチェックしています。

―――1977年に創業されてからいままでで、最大のピンチはなんでしたか?
 阪神・淡路大震災の翌年、1996年に腸管出血性大腸菌O157による学童の集団食中毒が堺市でありました。生ものに対して風評被害が広がって、回転ずしとは無関係だったんですが、我々も被害を受けました。けれど、「なすべきことをしっかりしていたら絶対によくなる」と信じていました。当時も食の安全性には力を入れていましたので。何もすしカバーだけじゃないんですね。自分が食べないものは提供しないというのは基本的にありましたから。従業員にも徹底していましたので。

―――こういうことをして立て直したとかって、ありました?
 当時の会社は、そんなに大きな規模じゃありませんでしたから、「こういう安全対策をしっかりしています」っていうのを店に貼って。いまのようにSNSが活用される世界じゃありませんから、そういうのを徹底して、「ちゃんと衛生面はやっていますからご安心ください」というのは掲示してやっていました。

「いい加減にやめてほしい」SNSで拡散される迷惑動画

―――最近で言いますと、迷惑動画に悩まされましたね。
 大変な時代になりました。SNSが広まって玉石混交の情報があふれかえる中で、どれを信用するかが一番重要ですよね。だけど、SNSを今更やめられるかって言うと、それはないでしょう。絶対に存続していきますよね。だからちゃんと大きな問題にならないように法規制するっていうのも大事なんじゃないですかね。私どもと関係なくても同業他社さんが迷惑動画をあげられると影響はありますからね。だからやめてほしいですよね、いい加減に。

―――誰もがSNS上に動画をあげられてしまうし、みんながその情報に触れてしまう時代ですもんね。
 対策として当社は、しょうゆとかお箸などは、新しいお客さんが来た時には別のものに全部入れ替えています。これは全店やっています。すしカバーでもしトラブルが起きたときは、すぐに警察へ連絡できるようになっています。

―――企業トップとして、プレッシャーを感じることはありますか?
 プレッシャーがあると喜ぶほうなんです。「困ったことがあったら何でも持ってこい」と言っています。学生の頃は、数学の問題で難しい問題があったらずっとそればっかりやっているタイプでした。だからいつも0点ですよ。独立して若い時は、資金繰りが大丈夫かなとか考えるときはありましたけど、いまは担当者がいますからね。プレッシャーらしいものをあまり感じなくなってしまいました。

レストラン革命「回転ずしはゲームチェンジャーになる」

―――田中さんがリーダーとして心がけていることはありますか?
 絶対に人を傷つけない。それは学生時代からずっと思ってきました。部下を指導するポジションにいる人には、特に「傷つけるな」と言っているんです。叱る時は叱りますよ。でも、絶対にフォローしないといけない。「この人にはここまで言ってもいい」という程度がわからない人が多いですよね。それからもう1つ大切にしているのは、うっとうしいから相手にしない、黙っておくのは間違いだと。「他人が全て」ということですね。商売の基本は、人が全てという気持ちを持たないといけないでしょうね。指導するときに絶対に守れと言っているのは、「人を傷つけるな」ということですね。
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―――回転ずしは今後どんなふうになっていきそうですか?
 ゲームチェンジャーになると思います。レストラン革命を起こせると思います。私はそう確信しています。やれると思います、絶対に負けない自信があります。今後、くら寿司の店舗が本当にいろんな国、アフリカやインド、そんな国でも見られるようになると思います。
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―――社長としての夢をおきかせください。
 いま、72歳なんですが、健康で100歳まで生きられたらいいかなと思います。あとはもう、気楽に健康で色々と社員たちとディスカッションしながら、時には激しくやりながら、100歳まで生きられるのが夢ですよ。社長から引きずり降ろされるまで頑張ります。

―――最後に、田中社長にとってリーダーとは?
 人々を巻き込む力のある人。そのポイントはね、コンセプトと説得力です。


■くら寿司 1977年創業。1995年会社設立。国内外に646店舗、2300人余りの従業員を抱える。売上高は1830億円。
■田中邦彦 1951年岡山県総社市生まれ。1973年桃山学院大学経済学部卒、タマノイ酢入社。1977年独立、すし店開業。会社設立と同時に社長に。

※このインタビュー記事は、毎月第2日曜日のあさ5時30分から放送している「ザ・リーダー」をもとに再構成しました。