今年2月に開業した「大阪中之島美術館」。20世紀初頭にパリで活躍したイタリア人画家・モディリアーニの「裸婦像」や大阪出身の画家・佐伯祐三の「郵便配達夫」など6000点を超えるコレクションを有する。しかし、美術館の建設構想から開業まで実に40年の歳月を要した。経済状況の変化、行政トップの交代など様々な困難を乗り越えて国内の美術館では初めての運営方式で船出した「大阪中之島美術館」の菅谷富夫館長に、開業までの曲折と描く未来像を聞いた。
モディリアーニ、バスキア...6000点を超える膨大なコレクション
―――ようやく出来上がった「大阪中之島美術館」の最も大きな特徴は?
30年かけて収集したコレクションの数々ですね。美術館は大抵、オープンするときにこれほど多くのコレクションはありません。開業までの準備期間が長かったので、その分、色々な作品が収集できて現在6000点を超えています。世界的な作品から大阪で誕生したコレクションも収集できていますので、これらの作品の数々がこの美術館の最大の特徴だと思っています。
―――美術館に携われて30年になります。出来上がった時は感無量だったのでは?
作品を寄贈してくれた人たちがたくさんいます。「僕が生きているうちには美術館はできないだろうね」と言った人たちが何人もいました。残念ながら寄贈してくださった人たちの中には、もう亡くなってしまった人もいるんですよ。そういう人たちにもぜひ開業の報告をしたいですね。
―――美術館の外観は真っ黒で、とても素敵なデザインですね。
中之島という場所の中で存在感を示せる色や形というものが、建物に関しては1つのコンセプトになっていました。「黒色は良いよ」と言いましたが、ちゃんとした黒色にするのはとても難しいそうです。黒色は光が当たると白く見えたりすることもあって、いつ見ても黒くするために建築家はだいぶ苦労したようです。
大阪出身の画家・佐伯祐三の作品から始まった美術館構想
―――美術館は佐伯祐三の作品から始まったといっても過言ではないそうですね?
1983年に佐伯祐三の作品を含む「山本發次郎コレクション」が大阪市に寄贈されました。「じゃあ、中之島に佐伯祐三をはじめとする近現代の美術館を作ろう」という話が決まったという点では、きっかけを作ってくれたコレクションです。
―――山本發次郎はかなり佐伯祐三に惚れ込んだようですが、大阪における芸術の発展はどのようなものだったのですか?
美術大学で勉強して、といった形ではない勉強の仕方をみなさんしています。その中から世界に通用する美術が生まれました。吉原治良の作品がありますが、彼がリーダーでいまや世界的な評価を得ている具体美術協会の作家たちも美術大学で勉強した人は本当に少ないです。1割もいない。吉原治良は会社の社長でもありましたしね。そいう人たちは生活のために創作活動をする必要はありません。だから、売れる売れないを考えないで、最先端の一番尖がった作品を作る傾向がありました。だから、時代を突き抜けるような作品が大阪から次々と登場したんですね。
―――いまや作品名と作者をパソコンに入力すれば手軽に作品を見られます。そのような時代で、直接、実物を見る良さというのは?
開業準備中に100点ぐらい提示して「この中で一番好きな作品はどれですか?」という質問を職員たちにしたことがありました。すると8割ぐらいの人は「去年亡くなった母と子どもの頃一緒に展覧会に行ったときにこの絵がありました」とか「いま結婚している人と独身時代にデートに行ったときにこの絵を見ました」とか、非常に個人的な思い出とともに作品が好きになっていたことがわかりました。好きな作品とともにその人の気持ちというか記憶に残っている。それこそが「作品を好きになる」ということだと思うので、やはりぜひ絵の前に立って見てほしいです。
「世界に通用する美術館を作るチャンスだ」と期待を膨らませて転身
―――関西に来られたのは滋賀の陶芸の森にある「陶芸美術館」がきっかけですよね?
工芸やデザイン分野のライターをしていて日本の現代陶芸の記事を書いていたところ、京都の陶芸の先生たちが「ちょっと面白いやつがいる」と思ってくださって「信楽で現代陶芸の美術館をやるので、お前に任せるからやってみたら?」というふうに声をかけていただいたのが関西に来たきっかけです。
―――そして30年前に新しい美術館の準備室に移られたのですね。
大阪という非常に大きな地方自治体が本気で美術館を作ると聞きました。夢は大きいですよね、バブル時代でしたし。それこそ世界の中でも肩を並べるような美術館を作るという、日本では最初で最後のチャンスだと思ってすごく期待を膨らませて大阪市役所の準備室に移ったということです。
―――なるほど。でもそれからの30年はちょっと長かったですね。
私が入った頃にはすでに基本計画作りが始まっていて、具体的にどういう建物で、どういう展示をして、どういう活動をすべきかを議論していました。展示の構成まで作り上げていて、結果としては計画した全てを収集できなかったのですが、その考え方はいまも続いています。美術館は、開業したらそこで収集作業は終わりではなくて、開業した後もずっと続いていきます。
「大阪市にそんなカネあったんか」と言われた居酒屋の夜
―――開業までには、凍結や白紙、そしてまたGOサインと二転三転しました。その1つ1つの壁はどうやって乗り越えたのですか?
大阪市役所内の手続きの問題もありますが、そこは優秀な人たちもいまして、「報告書は上司とかを説得するためではなくて、市民が報告書を見て納得するように作るものだよ」というふうに色々教えていただきました。例えば「美術館を新たにもう1つ作る意義を証明しろ」といわれても私にはなかなか難しい訳です。
―――市民に納得してもらうのは簡単ではないですね。
色々な数字を探してきていただいて、例えば東京でやった展覧会が関西に来た場合、東京では大体30万人入った展覧会は、関西では20万人入る。すると割合は3分の2だと。つまり3分の2の需要があるということだから、関西、特に大阪には美術館も東京の3分の2あってもいいんじゃないか、となります。でも、圧倒的に少ないのですよね。そういった意味で「大阪に新しい美術館が必要だと言えるんじゃないか」という具合にデータを集めたこともありますし、考え方や資料の作り方とか説明の仕方とかを30年間に色々教えてもらいましたね。
―――計画が二転三転しましたから「もうちゃぶ台返したいわー!いい加減にしてくれ!」という気持ちになったことはありませんでしたか?
行政の仕事をしていましたから、そういう気持ちはなかったです。ただ、ミナミで飲んでいる時に「どういう仕事をしているの?」と聞かれた時がありまして、「今度、大阪市が世界的な美術館を作る仕事をしています」と話すと、「そんなん、いらんで!」と言われたんですね。「美術館は京都にあるし、神戸にあるし」って。「大阪市は美術館にそんなに税金を使ったらあかんわ」とか、よく言われました。正直、辛かったですね。
―――「モディリアーニ19億円もしてもったいない」とか言われるんですね。
そうです、そうです。「大阪市にそんなカネあったんか!」と言われるわけです。「それならこっちにカネ回してほしいわ」と言うのが町の声ですよね。市民の方々から直接そのような声をかけられたのが一番辛い思い出ですね。
美術館では日本初「作るのは行政、運営は民間」
―――石の上に3年どころか30年頑張られましたけど、30年で学んだことは?
やはり1人でワーワー言っていてもダメですよね。自分1人ではなくて、チームというか、スタッフたちと一緒に仕事をするということですね。スタッフには私が知らないことを知っている人がいっぱいいます。私の場合は市役所でたくさん教えてもらいましたけれど、「私が、私が」と思っていても「あっ、そうか」と気づかせてもらえることは、たくさんあります。それから、タイミングですね。じっと待つのも1つのタイミングだと知りました。
―――美術館の運営方式は、作るのは公の力で、運営は民間の力でという日本で初めての方式を取り入れましたね。
収益が赤字になれば赤字を背負います、黒字になればそれはもらいますというやり方です。行政が運営する美術館では考えられなかったことだと思います。良い悪いじゃなくて、いままでの自治体の会計規則とか発想ですと「今回は失敗しました。大赤字です」となってもそれは1年で消えるわけです。けれど、私どもは赤字を背負うと次の年に繰り越されます。民間の運営ですから。そうすると「なんでこうなったのか」とかの責任をはっきりさせなくてはなりません。そういう意識をちゃんと持って展覧会をやることが重要なことだし、「良い展覧会をやっている」ではなく「じゃあ、良さをどう伝えようか」というのも責任を持ってやっていかないと駄目だと思っています。
―――なるほど。「みなさんに美術館へ足を運んでいただいてナンボ」という感じですよね。
美術館が一番辛いのは、地域の人たちに支持されないことなんですよね。といいますか、そうでないと美術館は存続できないと思っています。だから良い展覧会をやるのは当たり前で、それをいかにお客さんに来てもらえるかまで考えてようやく展覧会ができる、あるいは美術館の運営ができるということなのだと思っています。これはある意味では美術館の運営にとって健全だと思いますので、従来のような公立美術館としての役割が果たせないとは思っていません。
「日本の美術館も少し変わったよね」と言われる仕事がしたい
―――館長としての夢は?
この美術館が成功してほしいと思っている。「菅谷だったから駄目だったよね、と言われると嫌だなあ」と思っています。でも、私だから出来ることはあるという自負はありますし、それなりにプレッシャーもあります。新しい美術館ですから「こうやったらこうなる」というふうに何かが決まっているものばかりではないので、冒険もしますけど、結構無理も言いますし、無理も通すこともあります。ですが、「日本の美術館も少し変わったよね」と言われたら、それはうれしいですね。
―――そしていつかまた飲みに行って「大阪中之島美術館やっている人なん?あそこ良いよね」と言われたいですよね?
言われたいですね、ぜひね。
―――最後に、菅谷館長にとってリーダーとは?
1人で出来る仕事はたかがしれています。みんなと力を合わせて取り組むからこそ色々なことができると思っています。そういった意味では、やはりみんなが気持ちよく力を発揮できるような環境を作ることがリーダーの仕事だと思っています。
■菅谷富夫 1958年、千葉県生まれ。1985年、明治大学大学院博士前期課程を修了。工芸やデザインのフリーライターを経て、1990年、「滋賀県立陶芸の森(陶芸美術館)」の立ち上げに携わる。1992年、大阪市の美術館建設準備室。2019年より現職。
■大阪中之島美術館 1983年、大阪市は市制100周年を記念して新たな美術館の建設を計画。総額155億円を投入し作品数は6000点を超える。市が建物を作り民間が運営する国内の美術館では初めての方式で2022年2月に開業。
※このインタビュー記事は、毎月第2日曜日のあさ5時30分から放送している「ザ・リーダー」をもとに再構成しました。
『ザ・リーダー』は、毎回ひとりのリーダーに焦点をあて、その人間像をインタビューや映像で描きだすドキュメンタリー番組。