今年10月に創立125年を迎えた川崎重工業。いわずと知れた日本の三大重工企業の一角をなす巨大会社である。創業者の川崎正蔵が1878年に東京で造船所を開設し、1896年に神戸で「川崎造船所」を創立したのが始まりだ。陸・海・空の様々な分野でグローバルに活躍する会社にあえて「ロボットを作りたい」と飛び込んだ橋本康彦社長(64)。なかなか採算が取れない幾多の困難の末、米国に乗り込み半導体製造向けロボットで成功。去年、ロボット部門出身で初めて社長になった。新型コロナウイルスで経済環境が厳しい中、どのような会社の未来図を描くのか。橋本社長に聞いた。

ロボットに夢中だった少年時代
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―――橋本社長はもともと生まれも育ちも神戸ですよね。どんな子どもでしたか?
 とにかくプラモデルを作ることとロボットが大好きな子どもでしたね。漫画は鉄腕アトム、鉄人28号を夢中で読み漁っていました。国語の時間が好きではなかったので、国語の教科書はロボットの落書きだらけでしたね。

―――その頃から「将来は絶対ロボットを作りたい」と?
 大学生の時は、筋ジストロフィーの患者さんをサポートする会に友達から誘われてボランティアに取り組みました。その中で、息子さん2人が筋ジストロフィーの患者さんというお母さんと出会いました。筋ジストロフィーのお子さんは体が動かないので、寝た時に寝返りが打てないですよね。だから体がすごく痛くなるので、1時間か2時間おきにお母さんが起きて体をさすってというのを2人の息子さんにされていました。

―――大変な毎日でしょうね。
 お母さんが「この子の体位を変えないといけないからずっと起きていないといけない。私は2時間以上、この子が生まれてから寝たことがない」という話をされたことがありました。その時、自動でベッドが動いて体をさすることができれば、お母さんはゆっくりと寝られるのにと思ったのを覚えています。そういうことができる医療ロボットを作りたいと当時は漠然とですが考えていましたね。

ロボットを手掛けたいと川崎重工へ 先輩「東大を出て何でこんな部署に来たの?」
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―――大学生の時に、将来、医療や介護に携わるようなロボットを作りたいと?
 作りたいと思っていましたね。けれど就職で会社を調べても医療用ロボットをやっているところはなかったので、ロボットをやっているメーカーに就職したという感じです。実は、川崎重工は1969年に日本で初めて産業用ロボットを製品化した会社です。1962年にアメリカの「ユニメーション社」が世界で初めて産業用ロボットを作りまして、4年後の1966年にはもう日本に来て「こんなロボットどうですか?」と日本に紹介していました。

―――とても早い時期に日本に売り込みに来たのですね。
 その時はなんと700人も集まってすごい活況だったそうです。集まった日本のメーカーが「うちの会社にぜひ技術提供を」と激しいプレゼン競争を繰り広げたそうです。川崎重工の当時の役員は「これはぜひうちが取らないといけない案件だ」とアメリカのユニメーション社まで行って、熱く我々の技術を語って提携を勝ち取りました。

―――当時のプレゼン力を評価してもらえて?
 そうですね、熱いプレゼン力が功を奏したのでしょうね。これは川崎重工の伝統の1つだと思います。そういった熱い思いが日本にロボットをもたらしてくれたということですね。

―――橋本社長が川崎重工に入られた時は、ロボット事業は決して会社で花形事業部ではなかったですよね?
 全然違いました。入社してビックリしたのは、ほかは事業部だとか事業本部だとかの名前が付いているのに、配属が「油圧機械事業部」と言われて。「あれ?ロボットじゃないの?」と不思議に思ったのを今でも覚えています。つまり当時は、油圧機械事業部の中の1つにロボット技術部という部署があって、その部が全てだったんです。だから入社した時は先輩方から「東大を出てなんでこんなところに来たの?」と言われましたよ。当時はまだ川崎重工は船だったりプラントだったり、車両や航空事業が花形でしたからね。

事業が苦境に!そこで思いついた半導体製造向けロボット
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―――そんな環境の中で1995年にはロボット事業部で半導体製造向けロボットを手掛けられますよね?
 1995年は阪神・淡路大震災があって大変な時期だったのですが、それがプラスに働いたんです。ちょうどその頃、ロボットメーカーはどこもそうだったのですが、メインのお客さまの自動車メーカーが投資の端境期にあって、ロボットの受注が激減した頃でした。全然仕事がなくなってしまって...。そこで私が提案したのは、半導体製造向けロボットだったんです。

―――これからは半導体がいいんじゃないかと?
 いろいろと調べていく中で、実は半導体製造向けロボット事業というのはまだまだ小さなベンチャー企業がやっていて、いつか必ず大手じゃないとできない時代が来ると思いました。加えて投資額が非常に大きいので「これからは半導体の分野に行かない手はないですよ」と切々と訴えたんですね。でも簡単に話は進みませんでした。川崎重工は自動車メーカーの中では有名ですが、半導体メーカーの中では全く無名だったんです。だから半導体メーカーに売り込んでもなかなか「うん」と言っていただけなくて...。

―――結構ハードルは高かったのですね?
 始めて半年くらいは「もう会社に来るな」と言われ続けていました。でも諦めずに通い続けて、通い続けて「試作機でいいですから、1台でも良いですから作らせてください」と言えるようになり、ようやく作らせてもらって、納入してって感じでしたね。でも、そこからは「結構いいものを作る」という評判が広がって注文が増えました。それまでに2年くらいかかりましたよ。

ロボット事業部が廃止 運命のプレゼンに臨む!
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―――サラリーマン人生の中での一番大きな壁に直面したのはいつでしたか?
 ロボット事業があまりにも伸びなかった時期がありまして、ある日、急に事業部がなくなってしまいました。モーターサイクルの1つの部門になってしまったんです。でも「もう一度ロボット事業を立ち直らせないと」と思い立ち、モーターサイクル事業のトップにロボット事業を説明する機会を得たんです。でもたった2分くらいしか時間を与えられませんでした。

―――たった2分?プレゼンに2分は厳しいですね。
 パパパッと説明したあとに案の定「君が言っていることはさっぱりわからん」と言われました。けれどその時に私は「お言葉ではございますが、たった2分で理解しろというほうがちょっと...」と思い切って言いました。すると事業部のトップは「ムッ」とした顔をして「じゃあ、お前は時間をやったら俺を説得できるというのか!」と言うので、私が「説得できると思います!」と。すると「できなかったらどうする?」と言われましたので「クビはお任せします」と...。

―――サラリーマン人生の大勝負に出ましたね。
 すると横にいた私の上司に頭を叩かれて「謝れ!」とメチャクチャ怒られました。でもその後、その事業部のトップは私になんと1時間半の時間をくれたんです。その間、ずっと聞いてくれました。そして「どこまで大きくしたいのか?」と聞かれたときに、実は当時の売り上げはわずか3億円しかなくて、事業部のトップは「100億をお前が覚悟をするのなら、俺はお前を応援してやる。そこまで覚悟するのか?」と言われました。私は「覚悟しますけれど、その代わりに100億円を実現するためにアメリカのシリコンバレーに行かせてください。ぜひやらせてください」と言って認めてもらいました。

売り上げ100億円目指し米国シリコンバレーに乗り込む
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―――2分で諦めていたら今の半導体製造向け事業はなかったわけですよね。
 そうですね。頭をパンと叩かれて「ごめんなさい」と謝っていたら、それで終わっていたと思いますね。いよいよシリコンバレーに乗り込むのですが、そこから1年半くらいは半導体があまり売れない時期と重なってしまったんです。さほど売り上げが上がらず、社内ではシリコンバレーに行ったこと自体に厳しい評価があった時期がありましたね。

―――100億円のミッションがありますよね。ダメだったらどうしようというのはなかったですか?
 「ダメだったらどうしよう」なんてことは考えませんね。「ダメだったらどうしよう」と考えると、どんどんダメになることを考えてしまう。当時はどうしたら良くなるのかを一生懸命に考えていましたね。「とにかく良いことだけを信じて前に進もう」と。やはり「求めなさい、さらば与えられん」です。ずっと求め続けないと与えられないというのは、いつも思っていることでしたので。

―――「求めなさい、さらば与えられん」は橋本社長の座右の銘ですよね?
 ずっと門を叩き続ける、ずっとそこにかかわり続ける...するとチャンスは必ずやってきます。結局、目標の100億円は10年でやりなさいと言われていましたが、6年間で、2006年に達成できました。

コロナ禍で社長就任「苦しい時代に将来の道筋を示す」
―――去年、新型コロナウイルスという予期しない事態が発生しました。影響であったり、人生観が変わったりとかはありますか?大事な役割を任される時、例えば阪神・淡路大震災の時に新しい半導体の事業を立ち上げて、アメリカに行って半導体事業をスタートさせた時は同時多発テロが起き、日本に帰って来て事業を立て直してくださいと言われたらリーマンショックになって、社長に指名された時はさすがに今度こそ何もないだろうと思っていたら新型コロナウイルスと...。きっと私は苦しい時代に将来の道筋を示す役割に就くのだと自覚しました。

―――経営者としての大きな決断は何ですか?
 よく「事業をどういうふうに変えていくのですか?」と、トップとしての考えを聞かれるのですが、私は造船を残すとかどうのこうのという言い方はしません。「我々のミッションをもう一度見直しましょう」と言います。造船事業では、石炭から始まって石油、そしてLNG、LPGを運ぶ船を提供した側面があります。それプラス、社会的な価値としては、日本に必要なエネルギーを大量に必要とされる時期に最初に運べる技術を提供してきたと思っています。

世界初の液化水素を運ぶ船「すいそ ふろんてぃあ」
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―――その時代、その時代に必要とされるものを運ぶ船を作ってきた?
 そうです。そして今まさに我々の次のミッションは、水素を大量に安くみなさんに提供することだと考えています。だから、これからの船は水素を運ぶことに特化してやるのが正しい在り方だと思い、水素に舵を切ろうと決めたのは経営者として大きな決断だったと思っています。水素は最近だと思われるかもしれませんが、川崎重工では11年ほど前から研究所の中で「水素、水素」と言っている連中がいるんです。

―――11年前から「水素、水素」と熱い思いでいた人にとっては「やっとオレの時代がきた!」という感じでしょうね?
 まだ光が当たっていない時期から頑張っている人たちがいてくれるからこそ、会社はそれを方針にできるのであって、将来に向けて取り組んでいる人たちに光を当てて「多少の失敗はいいから頑張りなさい」という仕組みを作るのはすごく大事なことだと思っています。2031年度に水素関連事業で3000億円規模の売り上げ目標を立てています。世界で初めてとなる液化水素を運ぶ船「すいそ ふろんてぃあ」は、今年度中に実証実験に着手し、2030年頃の商用化を目指しています。
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―――幅広く事業を手がけてこれだけ歴史のある会社ですが、川崎重工の強みは?
 川崎重工は造船から事業をスタートさせて、その後は世の中のニーズで飛行機がいる、あるいは車両がいる、あるいはロボットがいるといった時、その事業に果敢にチャレンジして事業として広げてきた総合メーカーなんですね。まさに世の中のマーケットで新たに生まれたニーズに対してチャレンジし、それを我々の製品としてお応えしていく。そういった文化が我々の強みだと思っています。

リーダーは「社会の求めに応じる。先頭に立って社員とともに前に進む」
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―――社長としての夢は何ですか?
 社員が社内のパートナー、いろいろな企業のパートナーともっと広く連携できるような会社にして行くことが川崎重工の未来を作ると思いますし、社員も大きく成長できると考えています。日本人は比較的、他社と提携して一緒にやる場合に、自らの会社の中では頑張りますが、会社を越えると自らの会社に対する愛着が強すぎる弊害があります。やはりこれからは会社の枠を越えて幅広く連携することが非常に大事だと考えます。関西の企業にはその可能性がすごく大きいと思いますね。

―――最後に、橋本社長にとってリーダーとは?
 コロナ禍で社会が激変する中で社会が求めていることに応える。それをビジョンとして掲げ、実行する。実行するためにはまず、自分自身が先頭に立って社員とともに前に進んでいく。それがリーダーの役割だと思っています。

■橋本康彦 1957年、神戸市生まれ。東京大学工学部を卒業し1981年、入社。2013年、執行役員。2018年、取締役常務執行役員。2020年、社長。現在に至る。

■川崎重工業 創業者・川崎正蔵が1896年、神戸に「川崎造船所」を創立。鉄道、海運と事業を拡大、1954年、国産第一号のヘリコプターを完成。1960年、バイク生産開始。1964年、新幹線車両を納入するなど、陸・海・空の分野で事業を展開。生産拠点は国内外40あまり。約100のグループ会社を擁し、2020年度の売上高は1兆4000億円を超える。従業員約3万7000人。


※このインタビュー記事は、毎月第2日曜日のあさ5時40分から放送している『ザ・リーダー』をもとに再構成しました。
『ザ・リーダー』は、毎回ひとりのリーダーに焦点をあて、その人間像をインタビューや映像で描きだすドキュメンタリー番組。