鶏の出汁が効いたしょうゆ味を付けた「ケンミン焼ビーフン」。世界で最も長く販売されている「焼ビーフン」ブランドとして2020年1月、ギネス世界記録に認定された。ただ、国内のビーフン市場はまだ、年間1億食ほど。そこで、2019年に父親からバトンを渡され会社を率いることになった高村祐輝社長(38)に、若さを武器に挑むビーフンの消費拡大策や若さゆえのプレッシャー、創業家としての覚悟などを聞いた。
新型コロナで経営に大きな影響
―――飲食店を運営されていますが、新型コロナウイルスの影響は?
神戸・南京町の店舗は、新型コロナウイルスで緊急事態宣言が出された2020年4月、売り上げが前年比で95%ダウンしました。なんとか南京町の灯は消さず、いつでもお客さんをお出迎えできるように店はずっと開けておこうと、みなさんと力をあわせて営業を続けてきました。
―――会社全体では、どうでしょうか?
スーパーで販売している家庭用商品は、非常にたくさんお買い求めいただきました。その一方で、コンビニの「焼ビーフン弁当」であるとか、学校給食であるとか、直営のレストランは多大な影響を受けました。当社全体では業績が若干、前期を下回っている状態で大きな影響を受けています。
70年前に10坪の自宅で事業を起こす
―――70年前に創業者の自宅で事業は始まったそうですね。
台湾出身の祖父・高村健民が戦後、神戸に渡ってきました。当時、台湾やアジアから日本に帰国する人が大勢いらして、その方たちから「現地で食べたおいしいビーフンを日本でも食べたい」という声があったそうです。そのような声に応えて、10坪の自宅で製麺し始めたと聞いています。
―――高村社長は3代目社長になります。家族で会社を継承する良さは?
私が優秀だから社長に就いているわけではなくて、創業家に生まれたからこの立場にいるのであるということ。創業者が行ってきた努力をすっ飛ばして、この立場にいることをまずわかった上で従業員のみなさんに気持ちよく働いてもらえる会社作りをしていかなければならない、と思っています。
まだ少ない?国内消費は年1億2000万食
―――ビーフンの国内消費量は年間どれくらいですか?
年間、約7000tです。食数計算にしますと、1億2000万食です。日本の人口は約1億2000万人ですので、「1人が1年間に1度食べる」という量です。まだまだ、ビーフンの良さを伝えきれていないと思っています。日々、ビーフンを使った料理のレシピを考案したり、ミシュラン三ツ星料理人とコラボしたりして、新しいビーフンの魅力を開拓中です。ビーフンの材料である「コメ」に合わない食材はないはずです。
―――様々な調理方法を提案したいと?
ビーフンの「価値」を上げていくのが、3代目として私に課せられた仕事だと思っています。創業者は「起業」と「ビーフン」という商品作りを成し遂げ、会社の礎を築きました。2代目の父であり現在の会長は、テレビCMや外食事業の進出で会社の知名度を高めました。3代目の私は、会社や商品の「価値」をしっかり社会に伝えて「価値」を上げる、磨いていくことをやらなければならないと思っています。
グルテンフリーな「焼ビーフン」でアメリカ進出
―――「価値」を磨く?
例え良い商品を作ったとしても、いまは商品があふれる時代です。数多くの商品の中から選ばれなければならない。これから日本は人口が減っていくであろうし、子どもの数も減っていきます。この厳しい状況の中で、商品や会社が選ばれていくためには、お客さまにとって、いかに「ケンミン食品」という会社と「ビーフン」という商品が必要とされるかが、重要だと思っています。
―――需要拡大のために米国に「焼ビーフン」を本格進出させたそうですね。
グルテンフリーの考え方、トレンドは日本以上に世界でとても定着しています。私たちの「焼ビーフン」が、世界のグルテンフリー生活を支える商品になるのでは、と信じています。そこで、2020年から「焼ビーフン」をアメリカ向けに本格的進出をしました。けれど、タイミングが最悪で、アメリカやほかの国でもロックダウンがなされてしまいました。残念ながらスーパーは、なかなか通常の営業が出来ない状態が続き、これから仕切り直しで、取り組まないとなりません。
「現場」の大切さを知った「京セラ」時代
―――大学を卒業して、最初に就職されたのは大手電子部品メーカー「京セラ」でしたね。
就職活動はあえて食品会社以外で行いました。あいにく3年足らずで辞めてしまいましたが...。ご迷惑をおかけしただけになってしまいました。京セラでの3年間で学んだのは「現場」の大切さです。工場部門に配属されまして「現場100回」ですとか、「現場を見る」、「現場を知る」、「現場を理解する」ことの大切さを教え込まれました。
―――その経験があって「ケンミン食品」ではまず、タイ工場で勤務された?
2011年から3年ほどタイ工場で勤務しました。タイはお国も違えば気候も違って、慣習も違います。色々と戸惑いもありました。まず言葉が通じない。伝えたくても言葉では伝わらないので苦労しました。思いや考えを伝える難しさが一番の課題で努力したところです。でも、言葉だけの問題ではなくて、日本でも言葉で伝えてしっかり思いを理解してもらうというのは本当に難しいことだと思っています。
プレッシャーで「眠れぬ夜」も
―――経営者になって感じるプレッシャーとは?
創業家に生まれて社長になる以前から、私はいつか経営者になるつもりでいました。けれど、社長になって「これほどプレッシャーが違うのか」というのは、なってみて初めて思い知らされました。私が下す"ひとつひとつの決断"が、仮に間違っていたら大変なことになります。従業員のみなさんに「賞与や給料を払っていけなくなるかもしれない」などという不安で眠れない日もあります。
―――経営者としてのプレッシャーは大きいのですね。
何かあったら、最終的に全て私の責任です。日々、「決断、判断」の連続ですので、日によっては「この決断、判断は正しかったのかな」と思うことはあります。そのようなことがあれば、眠れないというか、不安に思うこともありますが、決めたことに対して「成功か、失敗か」は、決めたあとに「どれだけ努力するか、成功に導くか」だと思っています。ですので、決めたことは頑張っていかないとならないと肝に銘じています。
「唯一無二」の事業を続け、目指すは100年企業
―――いま描く将来の夢は?
従業員のみなさんが、30年、40年と「ケンミン食品」で働き、仕事にやりがいを感じてもらう。そのためには「ケンミン食品」や「ビーフン」を通して、社会や人の役に立てた、と感じてもらえることが大切だと思っています。だからこそ、会社を70年間続けてこられたのでしょう。その思いを持ち続けることが、一番大事ですし、よりその思いを「磨いていく」ことこそが私の大切な役割のひとつだと考えています。
―――目指すは100年企業ですか?
「ケンミン」の社名は、祖父の名前「健民」に由来します。つまり「健康をみなさまに」という意味です。食品会社として「健康のためになる会社」という気持ちを持ち、ひとつのことにこだわり続けて貫いた結果、「他社にない唯一無二」の事業を続けてこられた。これが当社の一番の強みです。この強みを守り続け、創業100年になった時、私は68、9歳になります。そこまで事業を続けてまいりたいと思っています。
関わる人たち全てを幸せにしたい!
―――最後に高村社長にとって、理想のリーダー像とは?
人の上に立っているということは、それだけ多くの人に支えられているということです。従業員やお客さま、生産者さまや取引先さま、そして応援してくれる多くの人たち、家族に支えられているということに感謝をもって、「関わる全ての人を幸せに導いていく人」こそが、私が理想とするリーダー像です。
■ケンミン食品 1950年、祖父で創業者の高村健民が、神戸市の自宅を兼ねた作業所でビーフンの製造を始める。1960年「即席焼ビーフン」を発売、1985年、中華ファストフード店「ユンユン」を開業。原料のインディカ米が、輸入規制で調達困難になり、撤退する企業が相次ぐ中1989年、製造拠点をタイに移す。
■高村祐輝 1982年、神戸市生れ、2005年、関西学院大学経済学部卒、大手電子部品メーカー「京セラ」入社、2008年「ケンミン食品」入社、タイ工場勤務を経て2015年に取締役、2017年に常務となり2019年、社長。
■このインタビュー記事は、毎月第2日曜日のあさ5時40分から放送している「ザ・リーダー」をもとに再構成しました。
『ザ・リーダー』は、毎回ひとりのリーダーに焦点をあて、その人間像をインタビューや映像で描きだすドキュメンタリー番組。