MBS(毎日放送)

第16回 楠本見江子

26年ぶりに帰ってきた吉本新喜劇の元祖コメディエンヌ!

―芸人を目指されたのはいつからですか?

小さい時から人前で何かをするのが好きな子どもでした。当時、新喜劇にルーキー新一さんといって、「いや~ん、いや~ん」と身体をねじるギャグをされていた方がいたんですが、ある時、夕食後にその人のマネをしたら、母親が「あんた面白いことするね。吉本へ入ったら」と。今でも皆さん、そういうことを言われてますでしょ。それを言われたんですよ。それで高校を卒業してからプロダクションに入りまして、まず、今でいう派遣社員みたいな形で、私の場合はコマスタジアムで、舞台のお手伝いをしてました。そこで夢路いとし・喜味こいし師匠に付かせていただきました。師匠が出られる時に、かばん持ちをしたり、化粧前を片付けたりするお手伝いをさせてもらっていました。その関係で、今も先生のお家へは行き来させていただいてます。弟子ではなかったんです。必ず師匠よりも後から劇場へ入ってました(笑)。そのくらい寛大な両師匠でしたね。

―スタートから新喜劇だったんですね。

昭和42年(1967年)に事務所の先輩の紹介で吉本に入れていただきました。4月20日に当時の部長の中邨秀雄さんの面接で、「女の人が少ないから、新喜劇のメンバーに入ってもらおか。明日初日やから、明日なんば(花月)に来い」ということで、21日に花紀京さんの座に出していただきました。花紀京さんが開口一番、「うわぁ~これは舞台に立つ顔やないで」って言われましてね。初舞台は、浜裕二さん(チャーリー浜)の恋人役でしたが、緞帳(幕)が開く時に、「僕の恋人の楠本見江子さんです」「見江子です。よろしくお願いします」と言って、緞帳が開いたら、もう去るんです。開く前にね「はよ喋れ」と言われて、緞帳が開きかけた時に出て、上がりきったら、去るんです(大笑い)。それが10日間続きました。でもそれがうれしいんですよね。それが一番最初でした。

―入る前の新喜劇のイメージは?

女性はやっぱりきれいどころの娘役がお芝居をして、岡八朗さんとか花紀京さんとかが三枚目で受けてる面白さというか、それを私もやってみたかったんです。私は娘役より、お笑い的なことがやってみたかったんですよね。その頃の新喜劇は、女性は筋運びだけで、笑いを取ったらダメな時代だったんです。そんな時、三枚目をやり始めていたヘレン杉本(西川ヘレン)さんが引退されたんですね。そこで私に白羽の矢が立って、三枚目をすることに。目立つためにほっぺたに大きなほくろをつけたり、目の下に隈を作ってみたり、いろいろさせていただきました。最初の「舞台に立つ顔やないで」というのがここにつながったんです。

―それからどうなりましたか?

入ってから、4年目くらいの時に作家の竹本浩三先生が女優の三枚目役というのを作ってくださったんです。その間いろいろありましたけど、ね。女が笑いを取らんでもええんや、台本どおりやっとけ、とか、いろいろ言われましたけど、竹本先生に相談したところ、「舞台に立ったら、作家を取るのか、先輩を取るのか、自分の考えを取るのか、これは自分で判断しなさい」と言われて。で、笑いを取らせていただきました。ちょうど、木村進さん、間寛平さん(1970年入団)が入団された時期と女性の三枚目を作ろうとしてくださった時期とが一緒だったんです。昭和48年(1973年)にアイ・ティ・エスという吉本の制作会社(吉本とMBSが共同出資)が出来たんです。そこが制作するテレビ番組の枠にちょうど私たちが若手という形で入れていただいて、「モーレツ!!しごき教室」(1973年10月~84年9月)とかに出させていただきました。男の人5人に紅一点で出たりして、おかげさまで目立つ役をさせていただきました。

―当時、女性でそんなポジションはなかったのでは?

ないんです。私が初めてです。
(今につながる三枚目女優のルーツですね)
島田珠代さんが壁にぶつけられる、ああいう風なのもやりました。
(すでに壁にぶつけられてたんですか?)
ぶつけられてね、お陰で顔が綺麗になりましたけど(笑)。皆さん、「痛くなかった?」って心配されますけど、あれもコツがありまして、足の先っちょで先にセットにドン!と当たるんですよ。そしたら音が出ますんで、それと同時に壁にカエルが押さえつけられたように手を広げたら、ほんとにぶつけられたような形になるんです。全然痛くもなんともないんですよ。まわりもちょうど室谷信雄さんとか間さん、木村進さんとかが輪の中に入れてくださった。あの当時は毎日のように新喜劇団員がバラエティーに取り上げられて有難かったです。その後、舞台では2年ごとに3組ある各座長の組を回っていました。それで昭和58年(1983年)に引退させていただいたんです。

―引退のきっかけは何ですか?

妊娠なんですけど…。舞台で椅子を引かれてドスン!とお尻を打ったりとか、壁にぶつけられたりしてて、ある時、吸っていたタバコが欲しくなくなって、病院へ行ったら、「はっきりわかれへんけど、切迫流産しかけてるんと違う?」と言われて、「えっ!?」と思って。11月30日のお稽古が終わって、12月1日に病院へ行ったら、このまま舞台に出たら、あんたの命も危ないからということで。その日から休みました。昔は365日休みがなかったんで、その当時の台本を書いていた中村進先生にお電話したら、「宿ってる命を大事にしたらええんと違うか。気にせんと、しばらく静養したら?」と言われました。当時は、暗黙のうちに子育てしながら新喜劇に出る方はいなかったんですが、子育てが終わって復帰されている方も、3つの座に3人いらっしゃいました。私も無事に生まれまして、また舞台に出たいなと思ったら、次男坊が出来て、三男坊が出来て、これは私はもうお家の中で子育てするような運命に来てるんやな、と思って。で、次男が二十歳になった時に、何となく「また舞台に出たいな、出たいな」と思ったのが復帰のきっかけです。

―離れられても新喜劇はご覧になってましたか?

やめようと思ってからは、新喜劇は見ていなかったですね。一番上の子が7歳になった頃だったか、「チャーリー浜さんって面白いね」と言われて、「そんな人いなかったよ」というと、「いや、めがねかけたおっちゃんでいてるねん」と言われて、ある土曜日に新喜劇を見てたら、「あ、浜裕二さんのことや」と。そのくらい、新喜劇のことがわからなかったんですよ。新喜劇に未練が残ったら嫌やと思って、見てないんですよ。中途半端で子育てしたくなかったんで。子どもが大きくなって、自分が何かやりたいなと思った時に、ちょっとずつ見始めたんですけど、テンポに違和感がありました。感情移入できないくらいのテンポの速さですよね。桑原和男さん、井上竜夫さん、チャーリーさん、やなぎ浩二さん、後輩では島田一の介さん、帯谷孝史さん、そういう方と一緒だったら、ホッとしますね。舞台に立たせてもらって、自分の厚かましさを痛切に感じてます。お稽古が何日もあるんだったらいいんですけど、前日に1回本読みして通し稽古して、次の日に本番でしょ。完全に復帰させてもらって、3年~4年になりますが、いまだに、まだちょっと自分では入っていけない部分がありますけど、必死についていってます。

―復帰の舞台は?

京橋花月(2009年12月)だったと思います。復帰第1回はショートコントのコーナーで、吉田ヒロさんがコントをやっていらして、そこに出させていただいたんですが、かみ合わなくて申し訳なかったなと。
(その前にM-1グランプリにも出られたとか…)
あれはね、お遊びというのか、復帰するにも何かやらないかんやろ、「復帰したい」だけじゃあかんやろ、という時に、インパクトの大きいM-1が始まったんで。「CERISES(スリーズ)」(フランス語でさくらんぼ色の意)という名前で、交流があった瀬戸カトリーヌちゃんのお母さん(安田密子=元新喜劇女優)と、2回出させていただいたのかなあ。大阪のおばちゃんの会話の感じの漫才でね。でもやっぱり難しいです。台本がなければダメですね。

―26年ぶりに戻ろうと思われた新喜劇の魅力は?

私自身にはよくわかりませんが、新喜劇のテレビを見てくださっている方のお話を聞くと、「楽しいからいいね」、と。今の若い人にも心の底から笑っていただける、笑いの少ない時代に新喜劇で笑っていただくのはすごくいいことなのかな、と思います。私自身、失敗しても周りの方がしっかりしてて、突っ込んでくださるから、すごく楽しいんですよ。ご近所のおばちゃんが、「子育てしてた時の顔と今と全然違うね」っていってくださるんですよ。
(どう違うんですか?)
普通のおばちゃんでちょっと暗い感じだったのが、今は顔がすごく明るくなったみたいで。いい人生を送らせてもらってます。

―今後やりたいことはありますか?

もうすぐ古希ですので、古希のイベントしようと思ったんですけど、ちょうどいい劇場が見つからなくて、来年70歳になってからお芝居とショーのイベントしようと思ってます。その時は、喜味家たまごさん(喜味こいしの娘)からも「お姉ちゃん手伝うよ」と言ってもらってます。自分がここまで生きてきたので、テーマは「介護」にして、その中に人生の悲哀みたいなものを入れて行きたいなと思ってます。10年ほど前に以前の新喜劇女優さんに集まってもらい、「おもろい女の同窓会」(2004年6月25日)という舞台をワッハ上方でやらせてもらいました。今度は新喜劇の若い人にも出てもらいたいんですが、昔は月給制だったギャラが今は一舞台いくらだから申し訳ない。また昔の新喜劇の方に手伝っていただければと思っています。

2014年10月7日談

プロフィール

1945年1月1日兵庫県出身。

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