MBS(毎日放送)

第47回 今別府直之

新喜劇を続けられたのは、いい人に出会えたからだと思います。

―NSCの23期生ですが、お笑いを目指されたきっかけは?

小学校高学年くらいから、テレビを見始めまして。ひとりっ子で内向的な性格でしたね。近所の子とも遊ぶけど、やっぱり1人でマンガを読んでるのも楽しい。僕、1972年生まれの第2次ベビーブーム世代で、テレビは一番面白かったと言われる80年代~90年代がちょうど青春時代やったんです。で、がっつりテレビにハマりまして。MBS-TBS系列で言ったら、さんま師匠のドラマ「男女7人夏物語」(1986年)とか、ドリフも見てましたし。「芸能人になりたい」って思うようになりました。まず、そこですね。芸能人になりたい、テレビ出たい、有名になりたい、みたいな。

―NSCに入られたのは、ずいぶん遅いですね。

それまで、ひとりっ子のくせに親に苦労かけて、プー太郎とかしたり、だらだら生きてたんですけど、20代後半、27くらいになって、やっぱり芸能人になりたいなと思って。東京へ行く根性もないし、小さい事務所に行ってお金騙されるのも嫌やから、吉本興業さんだったら、だまされることないやろと思って。その頃、テレビでお笑いの裏側とか吉本興業の裏側とかいう番組を見ながら、お笑いの世界は難しそうやなと思ってたんですが、NSCを選びました。たまたま入った時がNSC23期なんですけど、同期で言うと、吉田裕君、奥重敦史君、太田芳伸君とか。ピン芸人でいう友近さん、ウーマンラッシュアワーの中川パラダイス君とか、モンスターエンジンの西森君とか、三浦マイルド君とか、すごい奴らばっかり。23期から、漫才・コントコースに加えて新喜劇コースが始まって、3年だけで終わってもうたんですけど。これ、俺の出来が悪いから3年だけで終わってもうたんかな~と。
(新喜劇コースを選ばれたのは?)
いろいろ考えたんですけど、漫才・コントとかいう、2人きりとか3人だけの人間関係には、耐えられへんやろな~と思って。それに子どもの頃からよく見てたのが新喜劇やったんです。僕らの世代は、岡八郎師匠、花紀京師匠のレジェンドがギリギリ見られたんで。新喜劇かな~と思って入りました。

―新喜劇コースを卒業後、すぐに新喜劇に?

1年間NSCの授業があって、台本を与えられてお芝居をしたり、お芝居の間にボケを入れたり、いろいろやらせてもらって。卒業公演の後、面接があって、半年間、新喜劇の研修生をやりました。最後に座員になるオーディションがあって、拾っていただきました。僕より上手い子、いっぱいいました。お芝居も上手で、ボケを考えるのも上手い子とか。拾っていただいたんは、運がよかったな、と。もともとプー太郎ですし、親のスネかじって生きてきたダメな人間ですから。この世界に入ってきて、諸先輩方とか座長さんとか、劇団に甘えてズルズル居させていただいているんですが、何の結果も出さず…。ひとつ結果を出して、ちょっとは恩返ししたいなとは思っているんですが。

―初舞台は覚えていらっしゃいますか?

内場さんの週やったと思います。お客さん役で出させていただきました。素人から1年半後に入れていただいた感じですから、初舞台はどうしていいかわからなかったですね。ほんまに緊張しました。入団決まってから楽屋にあいさつに行ったら、テレビで見てる人たちが目の前にいるわけですからね。ベタですけど、桑原師匠のタレ乳がハンガーにかかってて、その師匠が端の一番ええ席に座っておられて。「あ、桑原和男さんや!」と。大師匠がカツラを取ってる姿も見れる訳ですから。人にも緊張するし、楽屋にも緊張するし、稽古にも緊張するし。新喜劇って365日あるから、毎週、火曜日初日、月曜日楽日で、月曜日の夜、次の週出るキャストの人が、本読み、立ち稽古、舞台稽古、それ終わったら、次の日、初日じゃないですか。そのシステムにもついていけないというか。僕、気ぃ小さいから、ようしゃべられへん、楽屋でもいたたまれへん。それは、自分の心の持ちよう次第だと思うんですけど。
(ずっと黙ったまま?)
しゃべれないです、しゃべれないです。何事も慣れやと思うんですけど。新喜劇で残られてきた方は、皆さんすごい人たちばかりなので、僕のことよくわかってくださって、こいつ緊張してるんやろなあ、とか。何の経験もないし出来へんのやろなと、温かく見ていただいたと思います。

―お世話になった先輩は?

川畑座長、小籔座長にはホンマによう教えていただいて。ほんとによくしていただいて、頭上がらないです。一生のご恩です。ホンマにお世話になりましたからね。
(具体的には?)
お芝居のこととか、僕、人間としてなってないので、人としてのゆがみを、直して頂いたのかな、と思いますね。
(人としてのゆがみ?)
僕、高校卒業して1年浪人して、大学に行けなくて、そっからほぼプー太郎状態で。NSCに入るまでの8年間。ひとりっ子の息子が家でずっとテレビ観てるって、親としてもストレス溜まるじゃないですか。ほんとの引きこもりとかでもないので、たまに1か月バイトに行っては辞め、20歳から27歳まで、ほぼ8年間、全部合わせても働いてたのは1年くらいです。後の7年間、20代の輝かしい時代を、家でずっとテレビ見てました。1日15時間くらい見てました。
(ひぇ~そんなに?)
見てましたね。だんだん、時が経つにつれて、これじゃアカンと思ってるんでしょうけど、結局動かなかったのは、わかってなかったということやと思うんですよ。NSCに入る前の8年間はわかってなかったんでしょうね。吉本新喜劇の話やのに、ホンマにがっつり人生の話になってしまってますけど…。
(大丈夫です。NSCに行こうと思われたきっかけは?)
これじゃアカンと思ったし、親にも申し訳ないと思ったし。一度きりの人生やし。僕、人より思い切るのが遅いんですよ。思い切るのに8年かかったみたいな。両親はもう賛成も反対もなかったと思います、たぶん。この子のやりたりようにやらせてあげたら、なにかひとつ変わってくれたらというか。座員になった時は、ほんとに喜んでくれました。

―小籔座長からは何と言われたんですか?

短くまとめると、「それでいいのか、ちゃんとしなさい、努力しなさい」ということなんですが。あと、お世話になったのは島田一の介師匠ですね。一の介師匠は尼崎在住で、「ベル」という店をやってはるんですけど、僕も尼崎やから、稽古が終わったら、一の介師匠とか、井上師匠とかやなぎ師匠とかと一緒にタクシー乗せてもらって、そこでちょこちょこお話聞かせていただいたりとか。一の介師匠にはプライベートで一番よく飲みに連れて行っていただいたと思います。一の介師匠見てたら、強く優しくというか。何事も全部許してくれる、優しさというか。そこに甘えちゃいけないんでしょうけど。

―「ぴゅ、ぴゅ」と乳首を触られると反応するネタはご自身で?

これは須知さんです。須知さんが考えたんです。
(あ、須知さんなんですね!)
厳密に言いますと、ビッキーズ時代に、なかやまきんに君兄さんが、キャプテンボンバーっていうキャラクターを作ってイベントをやっていて、MBSさんの深夜で「新喜劇ボンバー!!」(2006年)という番組もありました。その第1回の時に、きんに君兄さんのボンバーがいいモンで、須知さん、ランディーズの中川さん、今別府の3人が、白ブリーフロボットの悪役で。僕はひとりでは何も出来ないし、須知さんと中川さん、2人の芸の達者な中に入れていただいたみたいな。ほんとは僕なしで、須知さんと中川さんの2人でやった方が面白いんでしょうけど。それやのに、ほとんどノープランやったんですよ。業を煮やした須知さんが、優しいですから、「別府、これやり」って。「ぴゅぴゅぴゅぴゅドン」って。あとはなんとかしてあげるからって。それで須知さんから伝授されたのが「ぴゅぴゅぴゅぴゅドン」です。カメリハの直前ですね。
(そんなギリギリで?)
もちろん、私ごときがやってもウケないですから、須知さん、中川さんのイジリによってウケるわけですから。そっからやりはじめて、今の形も、いろんな回しの方のお陰で出来上がったんで、ほとんど自分じゃなにも考えてないです。イジる方の腕なんです。川畑座長であったり、内場座長であったり、清水けんじさんであったり。イジる方の腕でこうなったんです。
(最近ではご自身でお客さんに拍手を求めてますよね?)
下劣な手ですけど。でもお客さんから拍手が返って来た時は嬉しいですね。

―新喜劇はギャグとお芝居ですが、今別府さんは?

ギャグもやらせていただいたり、お芝居でも会社社長とかお父さんとかやらせていただいて。芝居もギャグも両方やらせていただけるのは新喜劇の醍醐味だと思うので、頑張って、そういう役をずっと続けていければなあと思うんですけど。何かひとつ頑張らないと。10年20年先はないと思うんで…。
(芝居で心がけていることは?)
なんですかねえ…。最初の頃は老け顔でしたけど、実力もないし、下手ですから、一の介師匠、青野さんのお父さん役見ながら、自分もあんな役やりたいなと思っていたんですけど。そういう役をやらせていただけるようになって。昔羨ましがってた役をやらせてもらっているんだから、一生懸命やらなあかんな、と思ってやってますね。

―印象に残っている舞台や役柄は?

女の子の役をやらせていただくようになって、女性の気持ちがまあまあわかるようになったというか。口紅もかなり早いスピードで塗れるようになりましたし、パンストもメッチャはいてるし。人それぞれで、あくまで僕の主観なんですけど、デート代を男性が払うのがわかりました。女性って髪の毛もきれいにせなあかん、お化粧もせないかん、洋服もちゃんとしたの着ないかん、その時点で女性の方が金使ってるじゃないですか。だからデート代を払うのは男性の方やなと。あと、舞台では、白ブリーフ一丁とかふんどしとかさせていただくんですが、最初はちょっと恥ずかしかったですけど、仕事と割り切って、自分のほぼ裸体をさらけだす醍醐味があるといいますか。「キャー」と言って目を背ける女性もいれば、キャッキャッ笑ってくださる方もいるので…。

―何かほかのギャグも考えていらっしゃいますか?

「ぴゅぴゅぴゅぴゅドン」はいじっていただく方の腕ですけど、返しようによっては、いろいろできるので、ある程度時間の制限がない時とかは、今までと違うことやってみようかなと、考えてやって、それがハマったら嬉しいですね。
(辻本座長の時には応用編もありますね)
「チェ」とかですね。一番最初は、たぶん舞台上でいきなり振っていただいたと思います。いろいろやらせていただいて、ウケるのを捜して…。
(突然振られたらパニックになりませんか?)
僕の実力は各座長の方とか回しの方とかよくご存知だと思うんで、そんな難しいフリはされないです。
(わりとマイナス思考なところが…)
ありますね~。マイナス思考の割には生き方おおらかですからね。頑張り屋さんじゃないですからね。なんとか、新喜劇に入れていただいて。僕、この世界がなかったら、ダメな人間のままで終わっていたと思うんで。ひとつ結果を出せたら、ちょっとは恩返しできるかな、と。
(結果とは?)
今でも会社とか劇団とか先輩方のおかげで、町を歩いてたら、「お! ぴゅ、や」とか「新喜劇の今別府や」とか言うていただけるんで、もっとなんかこう、世に出れるようなことですかね。新喜劇に貢献できるようになりたいと思います。大看板として旗を振るタイプじゃないので、新喜劇の脇役のひとりとして、ムーブメントを起こせるようになれば…。夢のようなこと言うてますけど。

―今、何年目ですか?

13、4年目だと思います。ほんま、自分の人生の中で一番続いてることです。ほかは何でもケツ割りましたけど。
(長く続いたのは?)
いい人に出会えたことだと思います。自分を拾ってくれた社員さん、自分の出番を与えてくれる座長がいて。人には恵まれたかな、と。こんな愚息をかわいがってくれた両親がいて。今はテレビ見たら喜んでくれているので、それが恩返しかな、親孝行かなと思います。
(やめようか、って思ったことありました?)
ほんまにやめようと思ったことは、1回もないですね。新喜劇をやっていて、毎回楽しいですよ。やっぱり人前に出るのが好きですし、こういうことをやりたかったですし。やっぱり、お客さんの前でってことはありがたいことだと思ってます。生きがいですね。これが。
(人前の方がお好きなんですね)
緊張しますけど、楽しいですね。最初のとっかかりは「テレビ出たい」ですから。

―ハマっていることや趣味はありますか?

やっぱり、子どもの頃からテレビウォッチャーであるのは確かですね。この世界に入って、だいぶテレビ見るのが減りました。新喜劇入る前は、一生テレビ見るのをやめられへんの違うか? と思いましたけど、ありがたいことに仕事が忙しくなって、テレビをあまり見れなくなりましたね。それでもやっぱり、テレビ欄とか見てますし、携帯で芸能情報は全部チェックしてます。マンガもあんまり読まないようになりました。以前は300冊近く持っていたんですが。
(今の楽しみは?)
舞台に出ることですかね。仕事であり、楽しみでもあります。なんか、エピソードトーク少なくてすみません…。

2016年4月4日談

プロフィール

1972年5月1日兵庫県尼崎市出身。
2000年4月NSC大阪校23期生。

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