2022年2月24日、ウクライナにロシア政府軍が侵攻した。
無辜の民が犠牲になる侵略戦争を世界が目撃した日、映画『教育と愛国』の公開決定という記事がヤフーニュースに流れた。5年前のテレビ番組に追加取材を重ねて完成した映画の情報解禁日に戦争が始まる。想像を絶する衝撃だった。そして、この偶然には深い意味があると感じた。
本作には、第二次世界大戦の被害と加害を記述する歴史教科書が何度も登場する。南京事件や日本軍の慰安婦問題、そして沖縄戦の集団自決。こうした戦争加害の記述をめぐり、右派勢力から攻撃されて倒産した教科書会社がある。その元編集者は「教科書に戦争加害の問題を書かないで、被害の歴史だけを載せるのでは戦争学習にならない」と訴える。
「世界の平和に貢献するという理想の実現は、教育の力にまつべきものである」(要約)と旧教育基本法は謳った。しかし2000年代以降、教科書の記述が政治の力で変えられていく。消されてゆく戦争加害の記述。教科書は誰のためにあるのか。本作の大きなテーマである。
10年前、大阪で開催された「教育再生民間タウンミーティングin大阪」(2012年2月26日)に安倍晋三元総理が登壇した。「(教育に)政治家がタッチしてはいけないものかって、そんなことはないですよ。当たり前じゃないですか」と強調した。松井一郎大阪府知事も参加したこのシンポジウムは当時、MBSニュースで「安倍元総理は教育基本条例案に賛同」との見出しで短く放送されたにすぎなかった。別の記者が取材した素材を5年前に「発掘」しテレビ版『教育と愛国』に採用したのだが、いま振り返れば、地元大阪で行われたこのシンポジウムが政治主導で教育行政へ影響力を及ぼす、いわば出発点であったと思う。教育基本条例案は、その後修正されて大阪府議会を通過。維新の会は「教育再生」の先陣を切る役割を果たしていく。
2006年、改正教育基本法に愛国心条項を盛り込んだ翌年に安倍氏は退陣、その後下野していたが、大阪のこのシンポで活力を取り戻し、第二次政権へ復活の推進力を得たという。
私自身は、この少し前、アメリカの公教育が疲弊する現状をルポ、大阪維新の教育改革は同じ轍を踏むと批判的に報じるニュース特集を2日連続で放送していた。この報道に対し、Twitterの連打で猛烈に非難してきたのが当時大阪市長だった橋下徹氏である。
10年経過したいま、まさか自身で映画を製作することになるなんて、予想だにしなかった。映画制作を目指すテレビディレクターも少なくないが、私はそんな大志を持ち合わせていない記者だった。ところが、政治の流れが意識を変えていったと思う。『教育と愛国』の映画化の話が持ち上がった時も「いや、無理無理」と当初は消極的だった。ところが、新型コロナウイルス禍で公教育の現場がさらに疲弊し、2020年10月、日本学術会議の新会員任命拒否の問題が勃発した時は人生最大のギアが入った。映画の企画書を提出しても社内の協力者は少なく、ときに孤独に苛まれる日々だったと正直に吐露したい。
さらに取材の壁も厚かった。教科書をめぐる攻防を丁寧に描こうと考えたが、「圧力」そのものをカメラに収めることはできない。眼前で命令が下されればよいが、そうはいかない。「忖度」という言葉を教科書編集者は繰り返し使う。教科書検定制度が圧力と忖度の舞台であることが伺えた。
自己規制や自己検閲は、健全な民主主義と相いれない。教科書調査官だった人物や教科書編集者らにインタビューを試みるも拒まれ続けた。取材を受けることが「中立性を疑われる」と釈明する人もいた。
森友学園元理事長の籠池泰典氏に自分が取材したのは、実に19年ぶりだ。傘下の塚本幼稚園の運動会で園児が軍歌を大合唱したと手紙が届いたことからその取材は始まった。幼稚園から少し離れた道路上で保護者に次々と声をかけ、「裏取り」していた時、ビニール傘をさした男性が近づいてきて、「なんで勝手に話を聞くんや!」とその傘を振り下ろして叩かれた。これが籠池氏とのファーストコンタクトである。私は忘れられない。
だが、籠池氏はこの出逢いをすっかり忘れていた。今回の取材時に当時の記憶を尋ねるとMBSニュース特集の内容しか覚えていないという。
そして現在の籠池氏は、歴史教育の被害者に見えた。「自虐史観」を糾弾する運動に関わった彼に歴史教科書の問題点を聞いてみた。「いまや安倍史観になり、人権が後退している」、その答えには驚いた。さらに取材が終ると拙著『教育と愛国』(岩波書店)に私のサインを求めてきた。和解の証と思って丁寧にサインした。
「教育再生」の掛け声のもと変化の波がやってきて、教育や学問の自由が攻撃される現場を見てきた記者として職責を感じていた。「慰安婦」を取り上げる授業の様子が地方紙に掲載されたのを引き金にバッシングされた平井美津子教諭や科研費の研究内容をめぐって「反日学者」と中傷された大阪大学の牟田和恵教授。彼女たちに向かう攻撃は凄まじかった。「反日」という排斥の波が増幅していくリアルをずっと取材してきた私は、平井さんの授業をTwitterで非難する吉村洋文大阪市長(当時)や国会とSNSで槍玉にあげる杉田水脈衆院議員の政治的手法を観察してきた。政治的攻撃や恫喝が日常になる社会は自己規制を強め、ますます重苦しい圧力を増してゆく。教科書の書き換えが政治圧力の象徴のように。
私たちは時代の曲がり角を曲がったのか。民を踏みにじる政治が、まかり通るのはなぜなのか。権力や強者に擦り寄る空気はメディア内部にも漂っている。在阪テレビは維新の政治家との距離が近すぎると問題視されていてMBSも例外ではない。
教育に対する政治の急接近に危険性を感じ、切羽詰まる思いで映画を作った。本作にカタルシスも正解もない。あるのは、語り出してほしいという願いだけだ。
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コメント
五十音順・敬称略
「愛」と「国」。二つのコトバには、優しさと膨らみがある。しかし、くっつけて「愛国」にすると、背筋を伸ばさないと張り倒されるような恐怖が発生する。そこに、「教育」を絡めると、突如暗転、魑魅魍魎が蠢く地獄絵図だ。「教育」と「愛国」は連続していて、その導線にはバケモノがウヨウヨしている。彼らは、一体何なのか?子供たちをどこに連れ去ろうとしているのか?本作は、自由と寛容という剣を携え、バケモノウヨウヨの暗闇を旅するスペクタクルのようだ……。
―阿武野勝彦
(東海テレビプロデューサー・映画プロデューサー)
学者とは、真実を追求する者であるべきであり、教科書とは、その時代その時点での真実を子供たちに教えるべきものである。そこに、政治の入り込む余地は本来ない。そのことをはっきりと教えてくれる映画である。
―池田理代子
(漫画家/声楽家)
愛国教育を推し進めたい人たちのとんでも発言の数々に失笑を禁じ得ないが、
失笑の後にくるのは静かな恐怖である。
この地道で果敢な調査報道を褒めちぎりたいが、それだけではダメだ。
映画を観てしまった大人として、子どもたちの未来への責任を考え続けている。
―大島 新
(ドキュメンタリー監督)
「自分たち」の過去の過ちを知るだけでなくなってしまうような「愛国心」なんてメッキみたいなものではないのか……。
2006年の教育基本法改正以来、いかに教育が国家権力に よって蹂躙されてきたかを記録した貴重なドキュメンタリー。
憲法改正の一丁目一番地として、教育が狙われていることに、残念ながら多くの方は気づいていない。
―おおたとしまさ
(教育ジャーナリスト)
学校の現場がここまで来ていると知って怖くなった。また同じ過ちを繰り返す瀬戸際にきているかなという感じもします。一方で、まだ変えていけるまだ間に合うという気持ちにさせてくれる。映画に励まされ、勇気をもらえたと思います
―神田香織
(講談師)
真に正しい歴史教育を受けないと、子供たちは、将来世界の中で恥をかくことになります。自らの歴史を正しく認識していない国は、決して尊敬されません
このドキュメンタリー映画の制作者は、激しく怒っています
「日本の歴史教育を歪めることは、絶対に許せない」
この怒りに、私は賛意を表明します
―久米 宏
(フリーアナウンサー)
戦前にあと戻りしてしまうという危機感の輪郭を
ハッキリさせてもらえる作品です。
戦争に向かわない日本、世界のきっかけになって欲しい。
―倉本美津留
(放送作家・ポジティブクリエイター)
見終わって、反日左翼との戦いの記録だと思う人も国家の教育管理への抵抗の記録と思う人もいていいと思う。大切なことは、日本人として、今、教育に何が起こっているかを知ること。僕個人は、なによりも冒頭の道徳の授業に衝撃を受けた。
―鴻上尚史
(作家/演出家)
「教育と愛国」は、歴史教科書をめぐる新感覚の「ホラー・コメディ・泣ける」映画!(ほんまかいな)東大で多くの歴史学者を育ててきたとやらの高齢の学者さんが、「歴史から何を学ぶ必要があるんですか?」と質問されて、「学ぶ必要はないんです」と断言する場面は、何度見ても恐怖で震えるから、ホラー。
で、「え?ほんまに何もないん?歴史の時間って何やったん?」ってボケたくなって、「お前がアホなんは、教科書のせいやった」って相方からツッコミ入れられそうやから、コメディ。(そんな場面は映画にはありませんので、あしからず)まともな教科書会社のおっちゃんは失業して家族まで失ってしもたし、中学校の授業で「慰安婦」について教えとった先生は、市長や議員らに妨害されてしもたから、悲劇。
しかもやで、日本の戦争責任を取り上げた教科書を採用した学校には、大量の脅迫状まがいのハガキが送られてきて(文言は丁寧、だからこそ怖い。
アタシも違うテーマで受け取ったことあるから、わかんねん)、送り主の一人の市長さんは、教科書の名前さえ知らんかったうえに、圧力はかけてへんってニヤつきやんねん。お〜怖っ。
沖縄県・渡嘉敷の集団自決を生き延びたおっちゃんは、「無学」の母親のおかげで生き延びたって言うとった。え?教育って何なん?無学の人のほうがまともな判断できるって、どういうことなん?
もう、やめ、やめ、アホな国民に成り下がるのは。ちゃんとした日本人って何?ありのままの日本の姿って何?そろそろ、気づこうや、美しいニッポンは幻想やって。
ほな、詳しいことは、「教育と愛国」見てな!
―坂上 香
(『プリズン・サークル』監督)
子育て中の方をはじめ若い人にぜひ観てほしい。誰もが“くに”を愛しているが、それが政治を通して公教育に求められた時、何が起こるか?教科書はどんなふうにできるのか?歴史はどのようにつくられるのか?学ぶとは何か?これからの21世紀をどのように生きるのか?
―志水博子
(元大阪府立高校教諭)
この映画を多くの人に、特に維新を支持している人、安倍信者といわれる人も含めてどんどん見てほしいと思いました。
押し付けたり、ましてや言うことを聞け、というのは言語道断でしょう。権力者が、隠そうと思って偉そうな態度で大衆を「脅す」ことによって注目を浴びるという現象がこの映画の中で起きている。あの人たちは、たまたま市民に選んでもらっただけなんですよ。
僕があの人たちを選んでもないし、偉いと思ったことはない。
―水道橋博士
(漫才師/お笑い芸人)
戦慄せずにはいられなかった。
教育現場でも“熱狂なきファシズム”がここまで進行していたとは…!
―想田和弘
(映画作家)
丁寧な取材の積み重ねと視聴者にわかりやすく伝える構成技術に感服。流れがスムースなのでストレスなく最後まで観ることができた。内容にもストレスがないかというとそれは別の話だが…。
―高野秀行
(ノンフィクション作家)
映画の中で「戦争というものをちゃんと学ばないとまた起きてしまう」という言葉がありました。まさにこの映画を見て感じたことです。自分もメディア、出版界の中にいる人間なので、こんな風に言葉を切り替えていくことに対して思いを持たない人たちが、ここまで大きな力を持ってきてしまったことを怖く感じました
―武田砂鉄
(ライター)
『教育と愛国』は非常に重要な映画であり、必見だ。
政治と政府の圧力がいかに歴史教科書を検閲してきたか、そして、「慰安婦」の歴史を伝えようとする日本の教育者 たちの人生さえをも台無しにしてきたかを斉加監督は、白日のもとに晒し出した。素晴らしく鮮やかな仕事だ。
―ミキ・デザキ
(『主戦場』監督)
閣議決定し教科書に記述させ、政権の考えを、嘘を真実として子どもたちに教え刷り込むまでに至った学校教育。それに馴らされてはいないか。20余年にわたる「従軍慰安婦」問題等をめぐる政府と教科書会社、歴史改ざん団体の動き等をインタビューし当事者に語らせ、事実を克明に追う。観る者は、忠君愛国を教え込んだ敗戦までの教育とオーバーラップさせ、“今”を考えると思う。必見の作品です。
―根津公子
(元教員)
愛国という考えがこの映画で何度も出てきた。なんやろうか愛国とは。「そんなことも分からんのか」と怒られそうである。でも考えれば考えるほど憂国という言葉が出てくる。子どもたちは素直な芽である。その子どもたちにほんの何十年か先に生まれた一部の大人の考え思想が教科書という書き物で頭の上に降ってくる。素直な芽は吸収する。そのことが怖い。この映画の最初と最後に教師と子どもたちが教室で考え合い意見を出し合う場面があった。ありのままを素直な芽に与えてあげることが本当の愛しい国につながるんちがうかな
―長谷川義史
(イラストレーター/絵本作家)
教育現場に侵攻する「政治の力」と、それに抗う人たちの戦いを記録した作品だ。映画を観終えた後、改めて教育の 大切さに気づく。民主主義は、政治の間違いや勘違いが引き起こす失敗や後悔を最小限にとどめる可能性を持つ。多くの人に観てほしい。
―畠山理仁
(フリーランスライター)
教育というものが、一部の運動と政治家や歴史修正主義者たちによって歪められていく。
教育を歪めたいと権力者が欲すること。そのこと自体が教育が我々(社会)にとって非常に重要であることを証明している。
現代日本の危うさの根幹に触れるような意義ある作品だ。
―古舘寛治
(俳優)
教科書をめぐるさまざまな人びとの現場や生の声をつなぐこの映画は、
俳優井浦新さんのナレーションで淡々と進む。劇的な場面があるわけではないのに、政治の教科書への介入がどう進んでいったかを静かな説得力をもって示してくれる。
多くの現場がつながるとき、私たちはこの国の政治の在り方を問い直すにちがいない
―本庄 豊
(中学校歴史教科書執筆者)
道徳を決めるのは人間の良心であって国家ではない。歴史の真実を追求するのは学問であって政治ではない。愛国を標榜する政治家たちによる教育と学問への不当な支配。これを放置したら日本は1945年以前に戻ってしまうだろう。
―前川喜平
(元文部科学事務次官)
芸人としてね、めちゃめちゃ笑えました。いっぱいありました「ネタ」のヒントが。
『教育と愛国』いいタイトルですね。やっぱり国よりも自分を大切にしたいと、いのちを大切にしたい、平和を大切にしたいと思いました
―松元ヒロ
(芸人)
教育とメディアは国民の意識を形成する二大要素だ。ならば7年半に及ぶ安倍政権時に、この国の教育はどう変わったのか。変えられたのか。観終えてあなたは思うはずだ。このままでよいのか。
―森 達也
(映画監督/作家)
私は“あの時代”の空気感を覚えている人間です。
『教育と愛国』を見て、何がそんなに怖いかと言うと、政治がどんどん教育の現場に踏み込んで来て、国の方針と方向で変わって行ってしまう事です。
簡単に左翼だの反日だのと言った言葉が、教育者の口から出て来る怖さです。
―湯川れい子
(音楽評論家・作詞家)