第27回 しゃーやん

僕みたいな人間は新喜劇でただ一人ですよ。


―2011年、33年ぶりに新喜劇に戻られましたね。

まず、吉本新喜劇に30年以上ぶりに戻る人っていないでしょ。僕、昭和51年(1976年)7月に浅香あき恵と入ったんです。なんば花月の進行役から。すぐやめちゃって、漫才の世界に入っちゃったんですが。漫才に行ってからも、新喜劇というか、芝居もんは…昔は地方巡業に参加するとね、必ず、最後にお芝居があったんです。メインは岡八朗さんであったり、花紀京さんであったり、間寛平さんであったり。そこにウチの師匠であるコメディNo.1が絡んだりしてひとつの座みたいにして回ってたんですが、その時は芝居の配役に入れられるんですよ。例えば岡八朗さんの息子の役とかね。師匠を脅しに行くヤクザの役とかね。僕、もともとお芝居が好きやったんで、地方巡業がすごく楽しみやったんです。一度、巡業の前の夜に脚本家さんに、「なんであんなセリフ少ないんですか。張り合いがないじゃないですか」というて、えらい怒られたことがありますよ。

―新喜劇に入られた経緯を教えてください。

もともとはある大阪の劇団の研究生で、いよいよ卒業公演も終わって、卒業する時に、その劇団の女社長に、「浜田君(本名)、ちょっと」と呼び出されて。「この後どうする気?」と言われたので、「この劇団に入りたいと思っているんです」と言ったら、「それより、早く自分の力でご飯食べたくない? それならお笑いに行きなさい」って。がーん!! 稲妻が走った。「何で僕がお笑いやねん!?」と。自分でわからない。どこにそんな要素があるの? って。その人は、「私は千人近く生徒を送って来たから、わかる。あなたはお笑い。絶対向いてるから。間違いない」と。「来週、藤山寛美先生が来られるので、紹介するから。おいでね」と言われて、面接というか、お目にかかったんですが、僕はいらなかったみたいで。
(それで?)
しばらく自宅待機です。「次は吉本に言ってみますから」と。え、ちょっと待って、なんで僕が吉本!? その頃の吉本と言えば、「ウチの子は何のとりえもない。しょうがないからあんた、吉本へ行き!」と例えに使われていたところ。今のNSCに行くのとは全然違う。僕らの時代はそんなんでした。吉本なんか行くっていうたら親が絶対嘆く。家を飛び出す覚悟したからね。僕の親というのは厳しかった。宮川大輔・花子の花子が通っていた頃の警察学校の校長が僕の親やったんです。そんな厳しい親やったから、「芸人になるなんて許さん!」と。

―いわゆる勘当ですか?

そうそう、そんな感じやね。紙袋2つ持って家を出て、新喜劇の研究生を始めてんけど、住むとこがなくて、先輩、同輩の家を点々と泊まり歩いて。ようやく自分のアパートを持てたんは、当時、座長をやっていた谷しげるさんのおかげ。ほとんど付き人に近いことをしてたからね。弟子ではなかったけど、谷しげるさんの用事を全部やって、夜は谷さんのやってたスナックでチーフやって。吉本新喜劇1年生の時は、谷しげるさんと一緒に過ごしていたね。これは、(島田)一の介兄さんとか覚えてくれてはると思う。桑原(和男)さんの用事もようやって、怒られてたなあ。今、化粧前の席が隣で、緊張するわ。
(厳しかった時代ですね)
当時は怖い先輩も多くて、いろんな人の用事ばっかりやらされてました。楽屋に戻るのが嫌で、使いに出たまま、舞台に戻らずに飛ぼうか(やめようか)と思たこともあったわ。

―舞台ではどんな感じでした?

ええ役というか、脚本家の人の目に止まって役を貰ったり、舞台ではそこそこやらせてもらいました。普通、研究生の1、2年目にはもらえないような役が来たり。ある時、座長さんが台本の配役が気に入らずに、いきなり息子役に大抜擢されたりしたんです。他の人にはない、経験させてもらってますわ。僕が新喜劇辞めるという時に、なんば花月の舞台袖にあいさつにいったんです。忘れもしませんが、岡八朗さんが、「新喜劇で下っ端におってもな、いつ前に出られるかわかれへん。その点、漫才やったら、売れんかっても、その2人が舞台の主役やからな」と。漫才経験者の岡さんらしいと思いました。池乃めだか兄さんと、ほぼ入れ替わりのタイミングで新喜劇を辞めました。

―いつ頃から漫才に行こうと?

僕、いい加減なところがあってね、新喜劇におったけど、先輩の用事しているうちに、舞台の袖から漫才を見てたりしたんです。「あれ、誰や? 紳助・竜介? よう受けてるなあ~」とか見てるうちに、漫才に興味持っていって、用事しながらでも先輩の目を盗んで、舞台の袖に行ってね、「のりお・よしおってムチャクチャ毒舌やな」とか、ずっと見ていたら、西川きよし師匠から、「かめへん、かめへん、これも勉強やから見といたらええ」と言われたりしてました。ある日、島田紳助さんに「後で話あるから楽屋に来い」と言われたので、新喜劇の出番を終えて、衣装のままで行ったら、「俺の同期で広瀬という奴がいて、今、相方捜してる。広瀬とコンビ組めや」「そんな簡単に言われても」「ええコンビになるんちゃうか?」と。広瀬さんは前田一球・写楽というコンビを組んでいたんですが、2年くらいでコンビ別れしたんですわ。その2人目に僕に白羽の矢が立ったんです。だから島田紳助さんが作ったようなもんです。新喜劇やめて、すぐは島田紳助さんの家に入り浸ってましたね。「どんな漫才したらええんでしょうか?」と。

―前田五郎師匠のお弟子さんでしたね。

広瀬さん(前田一球)が、前田五郎師匠の弟子だったので、僕もコンビを組むために五郎師匠に弟子入りしました。しばらく、五郎師匠について、「あっちこっち丁稚」(ABCテレビの公開バラエティー番組)とかについて行ってました。で、いよいよコンビを組むとなって、名前をもらえると思ったら、「前のままでええやないか」となって。前田一球・写楽は、漫画家の水島新司さんと共同で作った名前だから、思い入れあったんでしょうね。初舞台は、昭和53年2月、京都花月でした。当時の京都花月のチラシは今も持っています。

―お2人の漫才はどうだったんですか?

たまたま前田一球・写楽では、賞も取りました。(1980年NHK上方漫才コンテスト優秀敢闘賞) 相方の、「夜汽車の窓に映った顔が森昌子に似てる」というネタがインパクトがあって、あれがラッキーやった。横山アラン・ドロンとか他のコンビもそう腕は変われへんかったのに、テレビに出るようになって。森昌子さんの地方巡業の前座も行くようになってね。最近、西川きよし師匠のきよし劇団のゲストに森昌子さんが出ていたので、舞台に出ていためだか兄さんが「言うたるわ」と、一球・写楽のことを聞いてもらいました。そしたら、「それ誰ですか?」と言われたそうで。もうちょっと頑張って聞いてくれたら。顔見たら分かる自信あったんですが。

―「ヤングおー!おー!」(MBSテレビ)にも出られてましたね。

昭和55年(1980年)に朝日放送のABCお笑い新人グランプリで最優秀新人賞を取った後に、島田紳助さんがプロデューサーに推してくれて、桂文珍率いる「パッパラパーズ」に入れてもらったんです。紳助兄さんには本当に感謝してます。新喜劇でうずもれていた時代に、「漫才の世界に来るよな? いつも舞台の袖からいろんな漫才師の芸、ずっと見てるやないか。俺はずっと知ってんねん」と声をかけてもらって。

―前田一球・写楽の解散はいつですか?

昭和63年(1988年)ですね。その後は、店もいっぱいやって失敗して。うわ~どうしよう? となって。人生縁があって「新喜劇にまた戻るか?」という話をいただいて。戻ったら、浦島太郎みたいで。「え? ここどこ? 今の新喜劇ってそんなん?」と、知らんこと、わからんことばっかりで。ネタの運び方から何もかも全部変わってしまってて。おっとりしゃべってたら、座長に「もうちょっとテンポよくしゃべってもらえます? お兄さんだけじゃなく、まわりのテンポにも関わってくるんで。すみません」と言われる。ドンくさい年寄りが今の俺か、と思いましたね。4年前に戻った時は、どうしても(芸歴が)古いから、気を使こてくれはる割には、僕が訳わかってなくて。申し訳ないような気持ちでいっぱいやったね。とにかく、「邪魔したらアカン、邪魔したらアカン」ばっかり考えて。祇園花月の時にすち子と初めて出会った時も、すち子の昔の恋人役をさせてもらったんやけど、稽古の時にね、すっちーがいろいろと振ってくるから、やりとりをいろいろやって。稽古が終わって帰ったら、当時の新喜劇の担当者から、「写楽さんはそういうことをするために新喜劇に来ていただいたんじゃないんです。果たしていただくべき役柄以上のことはしないでください」とメールがあった。そんなことはわかってんねんけど、すっちーが乗せよるから…。

―4年経って、なじめましたか?

同期のあき恵なんかは一番それを心配してくれるんですけどね。「なじみや、なじまなアカンで~」と言うてくれるんですけどね。こっちからしゃべりかけるのも、相手の人が気ぃ使うかなあ、と。でも、今年の1月からやり始めたスナックがあるんですけど、その名刺はだいぶ配りましたよ(笑)。

―昔と比べて今の新喜劇は?

一時、新喜劇が衰退して低迷していって。お客さんのパワーもなくなってきてたような気がしたけど、今のお客さんの方がパワーあると思いますよ。大昔、なんば花月でね、夜遅い公演にお客さんを無料で入れたんですよ。そんな時の客は笑わない。お金を払わんと人間は笑う気にならないという、不思議な現象があるんですよ。今、昔に比べてチケット代高いやないですか、でも、お客さんはそれなりの気持ちが出来上がって見てくれる気がする。これだけのお金を出して、笑いに来てるんや、と。僕、そこが昔と今の違いやないかなと思うんです。昔、卸売り問屋の社長が、言うてたことがあるんです。「笑いには夢がある。仕入れも元手もあれへんやん、作ったらええんやから」。簡単に言いはるけどね。難しいことを。

2015年6月5日談

プロフィール
1953年11月20日 大阪府生まれ。