第14回 島田一の介

新喜劇は子どもの頃からのあこがれ。どうしても入りたかった。


―小さい頃から新喜劇をご覧だったとか。

憧れでしたね。それで、どうしたら新喜劇に入れるか考えていました。中学を卒業したら行こうかなと思ったけど、母親に「高校だけは出ておきなさい」と言われて。高校卒業後、尼崎の方に就職したんですよ。1年10か月くらい居てたかな、新喜劇に入りたいという思いが、どうしても忘れられなくて。漫才する気はなかったんですが、誰か漫才師さんの弟子についたら、新喜劇に行けるんちゃうか、と。師匠の島田洋之助・今喜多代は当時、弟子を取ってなかったんですけど、京都花月に1週間通って、ようやく許しを得ました。保証人がいると言われて、大阪に居た兄貴を連れて行ったら、「兄貴の方が男前やないか。向いているんちゃうか」と言われました(笑)。

―師匠は新喜劇に入りたいというのをご存知だったんですか?

それは知らなかったと思う。それはもう内緒です。弟子になって(島田)洋七とNHKの漫才コンクールに向けて漫才の練習したんですけど、すぐ解散。その後、師匠には大変申し訳ないけど、漫才の相方が見つからないから、と言って、「新喜劇に入れていただけますか?」と。それで新喜劇の方へ師匠の口利きで入れてもらったんです。22、3歳くらいの時やったと思います。20歳の頃に弟子入りして、師匠のところは2年弱ですね。新喜劇に入りたい、どうしたら入れるかと模索して、漫才をやる気もないのに、弟子に入って、漫才で間の勉強もさせてもらった。こないだもテレビで言うたけど、こすい(ずる賢い)からね~。

―当時の座長はどなたでしたか?

最初の座長が花紀京さんでした。初舞台のセリフ、覚えてますけどね。「サインして!サインして!」でした。女優さん相手に色紙に「サインして!」と。劇場はうめだ花月だったんですけど、実は初舞台は梅田コマ劇場なんです。師匠についている時に、年末の年忘れ企画で、初舞台を踏んでるんですよ。通行人とか3役くらいやりましたね。

―当時は「台本どおり」だったと思いますが、ギャグも作られてますね。

「ダメよ、ダメよ、ダメなのよ~」はポケットミュージカルスで最初やったんですね。ちょっとオカマっぽく。もともと森進一さんの歌詞のパクリ。それで新喜劇の方でもやるようになったんですが、最初、ウケへんもんね。
(ウケませんでしたか)
ギャグなんてウケるかいな。ギャグってもんは、やり続けないとアカンねん。手ごたえは何年かしてからやなあ。みんなノッてくれるから。そのノリから来る笑いやと思うねん。

―当時はどんな役柄が多かったですか?

悪役が多かったし、二枚目もやってたんですよ。あとお巡りさんとか。若い時はいろんな役が回ってきましたね。
(印象に残ってる舞台は?)
「あっちこっち丁稚」(1975年4月~83年9月ABCテレビ)で舞台中継があった時に、舞台に出ていきなりセリフを忘れて、頭が真っ白になったことが、一番印象に残ってますね。ほんとに頭が真っ白になります。白くなるというのはこのことを言うんやな、と。まだ若手やったしね。

―あこがれの新喜劇ですが、やめようと思ったことは?

やめようとかはなかったですね。僕が師匠に言われていたのは「辛抱」ということ。「辛抱やで、ケツを割るなよ」と。それは洋之助師匠からよく言われてましたからね。

―でも「やめよッカナ?キャンペーン」がありました。

あの時はどうしようかと。身の振り方を考えなあかんからね。クビと言われても、地方巡業がありましたから、まあまあそれだけでもいいか、と思ってたら、(浅香)あき恵の方から「漫才せえへん?」と言われて、あき恵・一の介で漫才するようになったんです。これは1年半くらいかな。あき恵は芝居に戻って、僕はそのまま地方巡業。戻った時には5年ブランクがありました。

―好きな新喜劇を離れられた時は?

寂しい気持ちですよね。ずっと師匠の言葉「辛抱」というのを忘れずにいました。地方では漫才と芝居をやっていましたが、テレビに出なくなったので、みんなに「やめたんか?」と言われましたね。会社の新喜劇担当の人から「帰ってきてくれんか?」と電話があって、地方巡業の台本を書いていた先生に「帰って来いと言われてるんですが、帰ってもいいですか?」と相談したら、「ええよ。頑張りや」と。それで新喜劇に戻ってきたんです。私も意地があったから、絶対、自分からは言わんとこう、と思ってました。ホンマに。クビになった会社やから、自分からは言わんとこうと。後になって、ニューリーダーの3人、内場君、辻本君、石田君が私を「帰して欲しい」と会社に言ってくれたのを知りました。その時は全然知らなかった。ありがたいことです。

―5年ぶりに戻られた新喜劇は?

変わってたね。セリフの言い回しも早くなって、スピード感が全然違いましたね。テンポが早くなった感じです。すぐ慣れましたけどね。
(役柄も変わりました?)
それからは、お父さん役も多いし…。頭もハゲてきたことやし。それで内場君がハゲネタを考えてくれたんです。ハゲネタは内場君なんですよ。それが少しずつ広がって、長くなったんです。
(ネタは台本にあったんですか?)
台本にはないですね。アドリブです。もう突然ですよ。それで返していくんです。「もうしわ毛、ありません」とか。突然来るアドリブをギャグにするんですよ。田中眞紀子のモノマネも最初は、「まァその~」と田中角栄だけやったんですね。田中眞紀子のモノマネをするようになったのは、中條君のアドバイスなんですよ。「もう1回同じことを言って、田中眞紀子やったらどうですか?」と。それがまたNGKでウケたんですよ。それからそれを使うようになったんです。「古いな~」「じゃあ、新しいやつ」で、同じことを言って「一緒やないか!」と言われたら、「田中眞紀子や」と。ギャグは広がっていきますからね。ハゲネタと田中眞紀子は人のおかげですね。それはもう感謝してます。

―新喜劇の魅力はどこにあると思いますか?

笑いに貪欲、ですよね。若手もね。どうやって笑わすか、今の若手はよくネタを作ってやってますからね。昔、若い時なんて、自分らでネタを作るなんてことなかった。台本どおりに言わなアカンから。今の若手はほんまに得ですよね。何人かで自分らの幕開きのネタを作る、そこがつかみになる。ネタに関しては貪欲ですね。いかにして笑わせるかと。だから若手の子は偉いですよ。いろいろ考えてますもんね。
(若手の中で押しメンは?)
押しは、吉田裕かな? 芝居もしっかりしてるし。これから、ひょっとして化けるとしたら、今別府かもわからんね。あいつはやり方次第ですね。筋の運びとかは無理やから、キャラクターでいかないと…。若手の中にも有望な子がいてますよ。新名みたいなイケメンもいてるし。若手は若手で競争して切磋琢磨して頑張ったら、まだまだどんどん出てくると思います。ほんとに若手を育てないと。ただアドバイスは僕らが言えるものでもない。自分では今でも笑いとか、芝居とかどんなものかよくわかりませんから(笑)。吉本新喜劇は大阪の笑いですからね。小さい時から見てて、みんなの憧れの新喜劇なって欲しいからね。今だったらすっちーとか、しみけん(清水けんじ)とか、烏川(耕一)、ランディーズもいてるし。あの子らがしっかりしてたら、笑いの方は大丈夫と違う? 僕らがいつまでいるか、わかれへんから。

―まだまだ先があると思いますが。

俺、70まで出来たらええな~と思っているんよ。東京オリンピックまではやりたいな、と。70までやって、東京オリンピックをゆっくりと見にいきたいな、と(笑)。その時は、役者を続けてるとしても、休みをもらって東京オリンピックを見に行きたい。
(絶対見たい競技ってあります?)
水泳なんですよ。水泳が好きと言うわけでなく、個人競技で団体じゃないでしょ。個人の競技で若い子が一生懸命やっているのを見たい。タッチの差で決まる勝負を見に行きたいですね。

―趣味とかハマっているものありますか?

何かな…? iPadで競艇を見る、かな。
(競艇?ですか)
知り合いがいてるので、その子らの走りを見るんです。いわばスポーツ鑑賞ですかね。もともとスポーツ好きやし、中学まで野球をやっていたから。だから野球もソフトボールもオリンピックに復活したらいいんですけどね。昔、新喜劇にも野球チームがもありました。ワラワース。「笑わす」を文字って「ワラワース」。そこで、ピッチャーもやったり。よう打たれましたけどね。「打たすぞ~」言うたら、ほんまにガンガン打たれました。「打たれすぎや」と言われて、すぐ交代ですわ。サードとかショートとかいろんなポジションをやりました。20年くらい前かなあ。めだかさんが47歳くらいの時でした。最初、寛平さんがピッチャー、木村進さんがキャッチャー。チームは弱かったですけどね。試合で笑わせればいいんですよ。

2014年9月1日談

プロフィール
1951年5月8日 愛媛県生まれ。