MBS(毎日放送)

第33回 森田展義

京都出身なんで、祇園花月を盛り上げていきたいですね。

―この世界に入られたきっかけを教えてください。

大学を卒業してから、笑福亭福笑師匠の門を叩いて弟子入りしたんですが、落語を全く知らずに入ったんです。普通は大学の落研とかでいろんな人の落語を聞いてて、師匠に師事するんですけど、僕はたまたま友人の紹介で行った落語会で一番面白かったから、と。本当はNSCに行きたかったんですけど、お金がなかったんで。弟子入りすれば、食べさせてもらいながら、芸も教えてもらえるというものすごく考えの浅い、浅ましい根性で門を叩いたんです。そういう僕を師匠は、「僕も同じ様にもともと落語に興味なくて、今やってる。何がきっかけかわからない」と言うて受け入れてくれはったんです。が、普通は稽古がだいたい1週間に1回くらいなんですが、師匠は大変熱心な方で、時間もあったんで、毎日のように稽古がありまして。1年半なんとか続けることが出来たんですが、落語が覚えられなくなってしまいまして…。
(覚えられない?)
もともと暗記教科がものすごく苦手。新喜劇の台本のセリフでもちょっとギリギリなところがあるくらいの人間なんで、物覚えが凄く悪くて。結果的に年季が明ける前にクビというか…。僕の兄弟子は「たま」というんですけど、京都大学の落研で、何故落語界にいるのかというほどの秀才なんですが、異例の2年で年季が明けたんですね。だから僕も2年くらいかなと思っていたら、1年半経った時に、「お前は3年かかる」と言われて、「この倍か~」と思った時に、心折れてたんですよ。無理やろなと。単純にいいますと、師匠が心から愛されている落語を覚えられなかったというのが事実で…。
(何席くらいお持ちですか?)
僕は実は12席持っているんですけど。出来るのは今、1席あるかないかですね。

―落語家を辞めてから、すぐに新喜劇に?

噺家がダメになってから、NSCに当時あった新喜劇コースに通いました。お金がなかったんですが、ちょうど、USJ(ユニバーサルスタジオジャパン)のエンタテインメントの募集があって、オーディションは落ちたんですが、USJで働くことになったんです。授業に通いつつ、USJでパフォーマーとして働いてました。 (どんなことを?) 最初はMBSのテレビプロダクションツアーでモンスターの着ぐるみを着てたんですけど、ツアーがなくなってからは、キューラインパフォーマーというアトラクションに並んでいるお客さんのためのパフォーマンスをやってました。人が並んでない時は、路上で消防士のコントをやったり…。 (NSCの方は?) 新喜劇コースにはオーディションを通るための講座がありまして、新喜劇コースにいたら大丈夫ということだったんですが、卒業しても一向にオーディションが始まらなくて。1年ぐらい経ってからようやく始まったんですが、その時の年齢制限が26歳だったのに、僕は27歳になってしまってたんです。でもNSCの新喜劇コースに行ってたら、通るって言われていたので、正直に年齢を書いたんです。そしたら、なんの返事もなく…。いろんな方の計らいで、オーディションを受けさせて貰えることになりましたが、結果的に年齢制限の段階で外されてて、落ちてしまいました。
(新喜劇コースだったのに?)
自分には新喜劇と縁がないんだな、と。その頃、USJで出会った外国人のキャストと漫才コンビを組んでまして。当時のbaseよしもとのプレステージを受けたり、M-1に出たりとかしてたんです。僕はこのまま漫才でやろうと思ってたんですが、突如、相方が失恋をしたという理由で、故郷のオーストラリアに帰ってしまって、僕1人になってしまったんです。時を同じくして新喜劇のオーディション落ち、USJからもリストラされ、9年間付き合って結婚しようと思っていた彼女にもフラれて…。いろんなことが重なって、何もなくなったんです。ただ、結婚するつもりで、お金だけは貯めてたんですよ。この貯金を使って、全然違うことをしようと思って、カナダにワーキングホリデーに行ったんです。お笑い以外のことで何か見つけられたらいいなと思って…。
(ずい分、思い切った行動ですね)
結局、向こうで「セカンド・シティ」という即興コメディ劇団に入りました。当時、映画の「キル・ビル」が流行って、日本の文化が話題になってまして、日本のMCが欲しいと捜していたところに、僕がひっかかって。ほんとに小さい、ZAZAポケッツくらいの舞台のMCを1年間やってました。結果的にビザが切れるとかいうタイミングで帰って来たんですが、ちょうど以前の漫才の相方も日本に戻って、またUSJで働くことになって、もう1回漫才やろうと誘われたんです。その一方で、友達から「金の卵1個目のオーディションやってるよ。きっと通るから受けたら?」と言われたんですが、もともとオーディションで落ちてるし、こんな人間が通るはずがない、と思って無視してたんです。漫才のコンクールとも時期が重なってましたし。そのコンクールに「パンチライン」というコンビで行ったんですけど、入り時間になっても相方が現われない。電話してもなかなか連絡がつかなくて。「もうすぐ着く」と言って来た時には、ベロベロに酔ってたんです。
(酔っていた?)
はい。酔ってるから、「日本のお笑いこんなもんやろ?」とか言い出して、「こいつとはもうやってられへん! もうええわ!」と思った時に、ふと金の卵のことを思い出して…こんなことなら金の卵のオーディション、受けときゃよかったと。ちょうどそれが同じ日やったんですよ。コンクールは当時のワッハ上方でやってたんですが、降りていったら、金の卵のポスターが目に入って。ふと見たら、〆切が1週間延びてたんです。「これはもう出会いやな」と思って、それで応募して、現在に至るわけです。一切の経歴を書かずに、大卒、カナダに行っていたということしか書かなかったんですよ。それがよかったのかも知れないですね。

―初舞台は?

baseよしもとで金の卵のお披露目公演があって、その後、NGKの初舞台は同期6人、ザ・若手みたいな感じでオープニングに出ました。オーディションを受けた頃には、新喜劇への愛情なんてほとんどなくしてたんですけど。いろんな方たちとお仕事させていただいて、子どもの頃から見ていて真似していた桑原師匠、チャーリーさん、めだか師匠とかが、今まだ現役で舞台で活躍されていて、お笑いの教科書やった人と一緒にお仕事させてもらえるなんていうことがあるとは思ってなかったんで、幸せだなあ、と。新喜劇に入ったことで、噺家の弟子をクビとなって、すべてなくなったと思った1年半の人間関係が、また徐々に戻ってきてる感じですし。

―福笑師匠には報告されましたか?

師匠が新喜劇大好きですので、僕が新喜劇に入った時にごあいさつさせてもらって、関係修復といったらおかしな話ですが、応援してもらいました。僕はもともと「笑福亭ひらめ」という名前をもらっていたんですが、「落語するんやったら、福笑亭ひらめでも何でも名乗ってやってもいいよ」というお言葉までいただいて。今のところ機会がないですが、少しずつでも恩返しできればなと思っています。
(落語は年取ってからでも出来ますね)
当時、3回だけ高座にあがってるんですが、2回目の時に僕のあとが文枝師匠で、舞台の後で「よかったよ」と言うてくださったんです。その時、僕は半分くらい師匠にクビになっていたので、師匠から「お前、三枝(文枝)兄さんにほめてもらえたからって、調子に乗るなよ」と思いっきり言われたんですけど。文枝師匠がそれを覚えてくださっていて、生きてて良かったなあと思いましたね。

―新喜劇に入るまでに一番しんどかったのは?

噺家の時が一番しんどかったです。毎日毎日しんどかったですね。芸人として生きてやろうとか、売れたろうという気持ちだけでやってましたけど、これで合っているんやろか、違うんちゃうかということがいろいろあって、生きてて楽しかったとか面白かったということが、一つもなかったですね。その頃、日記を書いてたんですが、弟子に入ってからクビになるまで、後半の日記を読んでたら、「こいつよく死なんかったな」と自分で思うくらい、地獄だったんですよ。
(住み込みだったんですか?)
通いでしたが、阪神電車に乗るのが嫌でしたね。あまりにも元気がなかったんでしょうね、公園でホームレスの方から「兄ちゃん、えらい元気ないやないか。服がアカンわ。俺の服やろか?」と汚れた服を持って来られたこともあったぐらいで。今は新喜劇座員として、ちょっとでも師匠の目に止まれるような存在になれればいいなと思いますね。

―入られた当時はどんな感じでした?

下が入ってくるというのは受け入れられたと思うんですけど、金の卵は会社が力を入れていて、1つのプロジェクトとして、オーディションにもテレビが入ったり、華々しい感じでした。10人くらいドーンと来ると、まあ、歓迎されてないところでは歓迎されてなかったですね。楽屋のこととかも、目で盗めみたいなところもありましたし。けっこう怒られましたしね。今、金の卵がまだ続いていることを考えると、僕らがいるから続いていると思うし、僕らの責任は重いんですけど。恵まれているといえば、恵まれた環境だったとは思いますね。ラッキィ池田さんの授業があったりだとか、けっこう、力を入れていただいたので。そう考えたら、優遇はされてましたね。

―持ちギャグがあった方がいいと思われますか?

ムチャクチャ言われます。誰かに新喜劇入ってます、という時に、必ず「ギャグなんやねん?」と聞かれるんですよ。でも、ギャグどうのこうのより、お芝居の中で必要とされるかどうかが、一番大きいんだろうなと思いますね。ギャグがあって、それが出来ないのを気遣われるより、あいつがいたらお芝居として流れるなあ、と言われたい。例えば1個しかせりふがなかったとしても、そこで存在価値があればいいんじゃないかなという気がするんです。結果的にトータルで見てお芝居が一番大事なところやと思うんです。売れるにはギャグが必要やけど、残るには芝居が必要やと思うんで。どっち選ぶねんと思ったら…当然、どっちも欲しいですけど。この10年、あの時ブレイクしたなと感じることがひとつもないんです。でもここに居れている。全員で作っていくお芝居なので、そこの1個の歯車できっちり回っていれば、どんな役でもいいなあと思うんですけど。僕はそこを大事にしたいと思いますね。

―回し役ですか? ボケ役ですか?

う~ん、はじめ僕、ボケのつもりで入ったんです。金の卵1個目の奴とかもけっこうボケやったんですけど、漫才でボケとかやって来た人に比べたら、やってきた内容が違うので、ボケでフィーチャーされている人は少なくて。吉田(裕)さんとかとオープニングさせてもらってたんですけど、そこに須知さん(すっちー)とかもっとボケの強い人が入ってきはると、どうしてもツッコミ側になってしまうので、いつのまにかツッコミの方になってしまってて。回しの気持ちで入ってきたつもりはないんですよ。じゃあ、内場さんって、回しなのかボケなのかというと、両方ですね。となると、どっちでもええやんって。どっちも出来ることが舞台人として必要だとすれば、どっちとあまり深く考えなくていいのかな、と。両方常にできる状態でいればいいのかなと思うんですけど。芝居のバランスになってきますね。

―10年間の中で印象に残っている舞台は?

初舞台が一番、全部凝縮されてましたね。忘れてしまう舞台が多いんですけど、あの時のことは1週間、全部覚えてますね。なぜ覚えているかというと、あの頃は稽古が早い時間にありまして、稽古終わりにお食事連れて行ってもらったんです。その時に食あたりになりまして。1週間、お腹グルグルグルグル鳴っていたんですよ。忘れられません。あと、入って1年ちょっとくらいで、吉田さんと梅田花月で「芝居もん」というのをやってまして、そこに須知さんが入ってこられて、3人でやらしてもらうってなった時は、ちょっと嬉しかったですね。「売れるん違うか?」と思いましたけど、置いていかれましたね(笑)。

―この先、新喜劇でやって行きたいことは?

僕、京都の人間で、個人として、祇園花月を盛り上げたいという気持ちがありまして…。もともとあった京都花月がなくなって一時劇場がなかった時期があるんです。僕おばあちゃん子で、以前、京橋花月でイベントやる時とか「京都やったらなあ(行けるけど)」と言うてたんです。亡くなったぐらいの時に、祇園花月が出来たんで、僕にとっては感慨深くて。おばあちゃんが引っ張ってきてくれたのかな、と。この劇場は自分が出来ることがあったら大切にしたいし、大事にしたいなと言う気持ちがあります。社員の方からも京都の人にイベントやって欲しいなという声をいただきまして、若手の新喜劇みたいなものやりましょうかと、今、京都新喜劇というのを、春・夏やらせてもらってます。今、NGKでも新喜劇が勢いがあるので、京都の人間として、新喜劇で祇園花月を盛り上げたいなと思います。10年目、なおのこと強く思いますね。ここに劇場がなかったらあかんと思わせる何かをやらないと、と思いますね。

―趣味や最近ハマっているものは?

海外に行っていた経験もあって、インプロ(即興演劇)みたいなものを作ったこともあるので、英語を忘れないために、スタンダップコメディー(1人でしゃべりまくる欧米のお笑い芸)を、誰でも参加できるところでやったりしてます。そこからの広がりで、アメリカのNBCテレビからオファーをいただきまして、先日、「Better late than never」という旅番組の京都のロケに参加させていただきました(2016年2月放送予定)。相撲会場の案内役で日本語と英語でしゃべるコメディアンを捜していたんです。やってたら、なんか形になるねんなと。あとユーストリームで個人的に配信している番組もあります。けっこう海外の方も見ていただいていて、自分にしか出来ないことをひとつづつやっていければいいなと思いますね。趣味が実益を兼ねれば、それはそれで幸せなんと違いますかね。お笑いは面白い人いっぱいいるんで、この中で面白さで勝負しても勝てるかなあと。自分にしかできないことは絶対あるから、そこで負けなければええかなという気持ちですね。日本の喜劇って、外国では受け入れられてないので、極端な話、ないものと思われている。それをもうちょっと何とかしたい。そのためにきっちりした英語で新喜劇を出来ればなあと。アメリカ人の鼻をへし折るような新喜劇で、このコメディ見ろよ、と言いたい。新喜劇をもっと広げるために、僕が出来ることとして、台本を英語に直したりもしてみたいですね。

2015年8月24日談

プロフィール

1975年10月2日京都府京都市出身。
2002年NSC大阪25期生・新喜劇コース。
2005年金の卵1個目。

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