第6回 桑原和男

新喜劇にやみつきになったけど、もう1回、漫才をやりたかった…。


―夢路いとし・喜味こいし師匠の弟子になられた経緯を教えてください。

当時まだ「吉本に入ったら新喜劇に入る」みたいなノリがあった時で、同期は全員に近いくらい、新喜劇の社内オーディションを受けたんじゃないでしょうか。当時は、普通の面接みたいな感じでした。受けた中で、同期では、ナイナイの岡村君、矢野兵動の矢野君と僕が受かりました。彼らは漫才がやりたかったので、漫才へ行きました。新喜劇に出ながらコンビ活動をしていた人もいて、僕が入った時にはバッファロー吾郎さん、リットン調査団さん、しましまんずさんとかもいました。

―漫才師としてのデビューは?

当時、秋田實先生が立ち上げた宝塚新芸座(※漫才師を中心とした軽演劇集団)という演劇集団があったんですよ。そこに秋田AスケBスケ師匠やうちの師匠とかも出ていて、お付き(付き人)をしながら、芝居で「御用!御用!」という捕り方の役とか、町人の役とか、ヤクザの斬られ役をしたり。19歳の時に相方と漫才を始めました。当時、京都に「富貴」という漫才では老舗の小屋があって、そこでスタートしたんですよ。「富貴」に立つのは漫才師としてのステータスやったんです。東京の人も来てたし。プロではなかったけど、当時まだ学生だった浜村淳とか、森乃福郎さんとかおったんですよ。でも二転三転して…漫才コンビは3組失敗したかなあ。相方を探す気持ちが半分、半分は1人でやった方が気が楽やなあと考えました。それで、1人の方が自分で責任取れるし、成功するもせんも自分次第やと決心して、吉本に入って新喜劇に出たら、やみつきになって…。こっちの方が向いてるのと違うか、と。昭和36年(1961年)、26歳の時です。で、そのまま、ずーっと、52年(苦笑)。自慢にもならんけどね。

―当時の吉本新喜劇はどんな雰囲気でしたか?

その頃、「吉本ヴァラエティ」といっていた時ですが、一匹狼みたいな人ばっかりでしたね。今みたいにチームワークはなかった。笑福亭松之助さん、平参平さんに地方でショーに出ていた人や、剣劇をしていた人とか、それぞれに形を作った人が集まってました。芝居を志す人は少なくて、自分の持ち味を出した天衣無縫な舞台でしたね。初舞台は思い出せないけど、漫才をしていたので、笑わせるコツはわかってたから、迷惑はかけへんかったと思う。顔も新喜劇の中では小マシな顔だったから、学生とか息子の役とか、彼氏の役とか小ぎれいな役をしてました。でも、二枚目というだけでは何にも武器がないし、何かせなアカンと。僕は九州の人間でしょ、言葉がなまる。田舎の子やから、都会慣れしてないし。新喜劇が大阪弁で情感のある芝居をやり出したら、大阪で育った子には負ける。太刀打ちできるのは何かなと考えて、ギャグをたくさん言うようになったんです。それと身体のキレが良かったから、人の出来ないような動きで躍動感を出してアピールするという2つを目指してね。何とか役者として残っていける自分の形を作ったんです。(平参平さんはヒザを使ったギャグがありましたね)僕はお尻を出して走り回ったりとか、ギャグ入れたりとか。身体の動きには自信がありました。それしか太刀打ちできない。大阪の匂いが無い…それはハンデやったんですよ。何かで存在感出して、「君、いらんわ」と言われん程度にせないかんな、と(笑)。

―漫才から新喜劇に行かれて生活は変わりましたか?

その時分は苦しかったね。家内はいましたけど、会社には言わずに、独身で通してたんです。(それはなぜですか?)薄給だったんですよ。漫才をしている時は、角座とか松竹座とかジャンジャン町の新花月とかに出てたから、収入はそこそこあったんですが、漫才に挫折して吉本に入ったら(収入が)4分の1になって、うわ~どうしよう~、と。家内がいることに救いを求めると、甘えになるし。自分自身を励ます意味でも独身で通して、アグレッシブな気持ちでやらないと、と思いました。何もなくてお腹が減った時には、劇場が終わって客席掃除の時に、ガムとかミカンとか、赤い袋に入った栗とか落ちてるのを、拾って食べたこともありましたよ。(拾い食いというやつですね!)そう、そう、そう(笑)。それは下賎な行為じゃなくて、若いから無邪気に、「あ、こんなもんあるわ。もったいない。食べたろ」っていう気持ち。切ない思いになったことはないですね。

―漫才で“挫折”と言われましたが。

もう師匠は亡くなりましたけど、生前はちょいちょい会うこともありました。そんな時、いつも「すみません」「どうした?」「初志貫徹できなくて…」と。裏切ってる感じですから、ごっつう、呵責を持ってます。漫才師が続けられなかったということに。10年か15年前までは、出来たらもういっぺん、漫才をやりたいという気持ちが、常に残っていました。70歳を越えてから達観せないかんというか、割り切るというか、このままで頑張っていこう、若い人の手本になろうと思えるようになりました。今でも漫才が好きですよ。見ますし、聞きますし。昔の漫才は今みたいに笑わせることは少なくても、味があった。今の漫才言うたら、同じようなしゃべくり漫才みたいなのが、3本も4本も続くでしょ。味気ないというか、せからしい(せわしない)。昔は男女コンビがあって、男同士のコンビがあったり、三味線持ったりとか、浪曲があったり、水芸があるとか、落語もあって、12~3組あったんですよ。今は6組。昔は出番の組み合わせに味わいがあった。いまは劇場でしょ。良し悪しはわかりませんが、昔は寄席の雰囲気があったんですよ。

―桑原さんは1969年に座長になられましたが、当時の思い出は?

座長は形だけであって、今もそうでしょうけど、次から次と変わって活性化して、みんなの励みになるようなものだと思います。当時のメンバーは平参平さん、花紀京、岡八郎、原哲男、井上竜夫、それと浜裕二(のちのチャーリー浜)が途中から入ってきました。歌を歌っていて、新喜劇に来たんです。ただ、僕が30代~40代の時に、4~5年後輩くらいの年代は、酒とか賭け事とか借金でみんないなくなってしまった。名前を言ったらキリが無いくらい。芝居がうまいこといかんと、くずれたのか。次々欠けていくから、寂しかったですよ。何で好きな道やのに我慢せえへんのかなあ、と思いましたね。

―「やめよッカナ?キャンペーン」を経て、新喜劇はどう変わっていったのでしょうか?

「やめよッカナ?」の時は、しんどかったというか、切なかったというか。実際、お客さんは減ってました。本書きさんも試行錯誤しながら、「これ、新喜劇?」というようなものをテストケースでいろいろやってみたけど、大阪の庶民の人に受け入れてもらえるような芝居じゃなかった。いろんな手を打ったけど、お客さんに喜んでもらって、会社も喜んで、芸人も…この三位一体がなかなか作れず、暗中模索の感じでした。キャンペーンでは花紀京とか岡八郎とか辞めていって、僕らは残ってどうしたらいいんか、と思いましたね。若い人とやる話になった時には、自分の身の処し方も考えなあかんなあ、と。新聞の求人欄も見ましたよ。万一、「もういりません」となった時のために、アパートの管理人とか何かないか…と思って。でも、電気もようさわらんし。こりゃ無理やな、と。漫才しようかな、と考えたこともあります。だけど、新喜劇に入った以上、あまりあっちこっち心が動くのも男としてみっともないし。ここでこのままで突っ走ったれ、と思いました。結果、今田耕司、東野幸治、ほんこんとか板尾創路とか、若い人の血が入って、古典の新喜劇ではなく、新しい新喜劇が出来つつありました。本線の芝居は残しつつ、新しいものを入れた形の流れが出来てきた。今のほとんどのメンバーはその後で入って来ているでしょう。ベテランでずっと残っていたのは僕と井上竜夫とめだか君くらい。気持ちは扇の要やないけど、僕とめだか君で、お芝居の雰囲気は残して、いらんところは淘汰しながら若い人に教えていったらいいのと違うかなと、そう思いながらやってました。だから、人気を取り戻した時は嬉しかったというか、安堵しましたね。新喜劇は、変えようとか思う必要はないと思う。大阪というか、「なにわ」は笑いの土壌がしっかりしてるでしょ、必ず笑いを求めてる。だから絶対、廃れませんよ。何があっても。お客さんと芸人と会社が三位一体で生きている限り、吉本新喜劇は永久に残ると思います。

―定番の「神様~!!」のギャグは突然出来たんですか?

そうです。舞台でね、三枚目の役をやっていた時に、怒られていじめられて、「しょーもない男や」と言われて、セットの柱にすがりついて、「そんなヒドいこと言わなくてもいいじゃないですか。神様!」といろいろ言って、よよと泣き崩れてから、最後にポッと変わって「ご清聴ありがとうございました」。それで十分ウケてたんです。ある時、壇上茂(作家)に「音楽を入れたらどうですか?」と言われて、そうしたら幅が広げられるな、と。「神様~」といいながらギャラの話をボヤいたりして笑い取ったり。僕はギャグに気持ち入れているんですよ。「神様~」っていう時は、芝居で自分の子どもとか身内が困って、みんなに助けられて立ち直って、ハッピーエンドになって、初めて「神様!」って言える。それを人のことで言わされる時がある。そしたら情が入れへん。気持ちで真剣に言うてるんです。おばちゃんから男に変わるのも一緒ですわ。「今はおっさんや」と本性出す。あれは、最近出来ませんけどね、セクハラと言われるから。

―趣味とかハマっているものはありますか?

昔は三味線もしてたんですよ。琴も。(津軽三味線の)六段も三段目くらい暗譜してたんですけど、頚椎を傷めてからバチ捌きができなくなりました。琴もできない。趣味がなくなってしまって。革細工とかもやっていたんですが。いろんな人に「趣味持ったら」と言われているので、20年ほど前にやっていた手話をやりなおそうかな、といろいろ考えてます。でも、今はそれより、自分の体の方が…(笑)。もう78歳で、いつまで(新喜劇を)やったらいいんかな、と。みんなが「やってください。目標にしてますから」と言うてくれるのは有難いけど、自分の余生も大事やし。ギリギリまでやって、あそこが悪い、ココが悪い、今デイサービス行ってる、入院してる、そうなって辞めるのは嫌やから。自分で「あれが食べたい」「こんなもの着てみたい」と思えるうちに、そっと辞めて、余生を送りたい。それと、本名で死にたいんですよ。芸名じゃなくて。親から貰った名前でそっとこの世からいなくなるのが幸せやと思ってます。

―今の新喜劇の若い人にメッセージを。

今のままで言うことはないです。仲良くとは言いませんけど、みんな個性を出しながら、それをお互い認めてもらっていけば。確かに、舞台上のマナーとか楽屋のマナーはちょっと欠落してるところがある。僕らの時は縦社会。それは今は通じないけど、縦社会もやや残しつつ、横社会を育てて欲しいな、と思います。昔、漫才やってた時は、トリの人が終わってあいさつしてから帰ったほど厳しかった。今は寝転がってあいさつする人もいる。礼儀は礼儀として残していかなあかん。僕ら、時々言いますけど、言ったら、自分自身がさみしくなる。言わんでもわかってちょうだいよ、と。4~50代の人やベテランに入った人が言うてくれたら一番いい。もうこの歳になって言わさんといて!と思いますね。

プロフィール
1936年2月23日 福岡生まれ。