第20回 チャーリー浜

何にも考えてないんです。僕はフィーリングでやってるから。


―この世界に入られたきっかけを教えてください。

当時、日本橋三丁目にタレント養成所があったんですよ。高校時代に、どういうところかな、いっぺん行ってみようと受けたら、「大村崑さんにそっくりや!」と言われてね。当時はザ・ピーナッツ(双子姉妹の歌手)が人気で、じゃあ、ザ・こんちゃんズと言う名前をつけて、大村先生と僕とで売り出そうということに。高校卒業してから、花登筺先生が設立した「劇団・笑いの王国」へ入ったんです。ちょうど芦屋小雁さん、花紀京さんもいらっしゃいましたね。
(花紀さんのお弟子さんだったんですか?)
いや、弟子というより、弟分としてかわいがってもらいましたからね。
(当時、タレントを目指そうというのは珍しかったのでは?)
ちょっと変わってたやろね。学生時代から人を笑かすのが好きな、いわゆる「いちびり」。楽しくみんな和気あいあいというか。当時は野球部にいたから、野球部らの面々とアホなことばっかり言ってました。野球は中学からやってて、高校も野球で入ったほど。タレント養成所に行って、その流れで大村崑さんと一緒になったのがきっかけです。こんちゃんズでは、当時、「やりくりアパート」(大阪テレビ放送→朝日放送)という夕方から流れる生番組のスポンサーがダイハツで、同じ恰好して生コマーシャルにも出てましたね。花紀さんが吉本に移るというので、僕も吉本に移りました。昭和36年(1941年)でした。最初は浜裕二という芸名でね、本名の「浜野」の浜と、当時ごっつい人気のあった裕次郎さんの「裕二」からとってたんですよ。

―最初、ポケットミュージカルスに出られていたとか。

そうです! 歌声喫茶知ってる? 昔、ミナミや、本町の「炎」とか、梅田にもあったんですけどね。僕は小さい頃から歌が好きで、歌謡学院に行ったこともあるくらい。入った頃の吉本の舞台は、新喜劇とポケットミュージカルスとステレオコントという3本立て。「何やる?」と言われて、「僕、歌、歌えます」と言って、それでポケットミュージカルスへ。
(最初は歌を?)
そうなんですよ。当時は梅田花月と京都花月しかなかったんです。昔は京都花月にもポケットミュージカルスがありました。そこで歌っていた訳ですね。
(その後、新喜劇に?)
そう。吉本新喜劇おもろいなあ、と。「僕も(新喜劇に)出していただけませんか?」とお願いして、ポケットミュージカルスに出つつ、新喜劇にも出てたんです。

―当時の新喜劇はどんな雰囲気だったんですか?

大先輩ばっかりじゃないですか。平参平さん、秋山たか志さん、白羽大介さん、そのあとに原哲男さんとか。それはもう吉本新喜劇はドタバタですからね。今でこそ筋のあるものをやってるけど、昔はドタバタ。とにかく、(舞台に)出て(お客さんを)笑かせ、理屈なしで笑かせ! と言われましたね。当時の社長からも言われましたし。
(コケられてました?)
昔は僕もコケてましたよ。若い頃は。先輩のギャグあったらドテーン、とコケてましたもん。
(花紀さんは厳しかったとか)
厳しかったですね。僕も若いですから、1回目の舞台で「やったらいかんよ」と言われたことを、わかれへんから、また次の舞台でやるんですよ。「お前、何考えてるんや!」とさんざん怒られて、「よ~し、今から飲みに行こ!」と、よう言われたもんですよ。兄貴に。仕事は仕事、プライベートはプライベートでしたね。花紀さんからは「(芸は)見て覚えろ」。他人の芸をね、「盗め」と。それで自分の色を出して行け、と教えられました。

―舞台の上での失敗とかは?

多々あるから一緒です。舞台出ていることが失敗やね。
(未だに覚えていらっしゃるような大失敗は?)
それは、もう大昔ね、大昔ですよ。生野に住んでた頃、アパートで酒飲みながら1人鍋をして。鯨のハリハリ鍋しながら2升5合くらい飲んで。
(えっ?2升!?)
酔うてて、当時も土曜日に新喜劇やってたけど、テレビのスイッチ入れたら、吉本新喜劇をやってる。「あれ、ここで誰か出るんと違うか?」と思てたら、「あ!わしの出番や!!」。そういう時、ありましたよ(笑)。梅田花月で、ちょうど花紀さんと一緒の舞台やった。えらい怒られてね、「酒飲むな!お前は~!!」って。酒覚えさせたんは兄貴や。
(生放送だった時代ですね)
そうなんです。その当時は裏方もやってましたね、僕ら。コマーシャル終わるでしょ、その1~2分の間にセットを組むんですから。若手やったから、かなづちを持って、コンコンコンコンと釘打ってバーっとセットを立てるんですよ。そんな時代もありました。楽しかったですよ。

―50年の間には、「やめよっカナ?」キャンペーンもありましたが。

社長に呼ばれて、「浜君、どないする?」と。どないするも、今さらサラリーマンも出来へんし、「僕やりますよ。させていただるんなら、新喜劇出させてください」と。
(その時、新喜劇はずい分変わったと思うんですが、チャーリーさん自身は?)
ちょっとも変わってません。今だに。もう吉本入って53、4年になるんちゃう?
(東京へも行かれましたが)
笑いはね、東も西も関係ない。おもろいことすれば、お客さんは笑ってくれる、と。東京も関西も変わりあれへん、ほな行こう、と。
(その頃チャーリーさんのギャグは?)
「ごめんくさい」は言うてましたね。酔うて舌が回らんかって、「ごめんください」が「ごめんくさい」になって。「じゃ、あ~りませんか」が流行語大賞になりましたが、何とも思っていません。何にも考えていないんです。僕はフィーリングでやってる男やから。だから共演者の若手の子は嫌がるんですわ。台本どおり来ないから。若手はしんどいと思いますよ、一緒に出たら。そやけど、それがひとつの勉強になると思っているしね。俺から学ぶことはあれへんけども。言葉、言葉のセリフの間とか。それが成り立って、今の新喜劇ですからね。

―チャーリー浜に改名されたのは、東京進出の時ですか? 本当に「チャーリーズ・エンジェル」から?

そうそう。もうずい分昔ですよ。3人の美人がいる探偵事務所が舞台の外国ドラマ「チャーリーズ・エンジェル」。そればっかり見とったんです。「やめよっカナ?」で若手とやることになるから、会社から芸名を変えろと言われて、六本木アキラとかいろんな芸名の候補があったんです。よし、「チャーリーズ・エンジェル」見てるから、「チャーリー浜」で行こう、と。それで今日に至ってます。
(ちなみに六本木アキラは?)
イメージが強烈やんか、六本木アキラって。若手の名前のパッとしない子に「5万円で売ったるわ」とかアホなこと言うたり。インパクトがあるでしょ、六本木アキラって。若い時は、とにかく、インパクトのあるタレントになりたいな、コメディアンになりたいなと思てましたね。トニー谷さんってご存知ですか?
(そろばんを使っていたコメディアンの方ですね)
あの大先輩がね、大昔、東京で飲みに行ったことがあるんですが、僕に「インパクトの強い芸人になりなさい」と言われて、「はい、わかりました」と。そんなこともありましたね。

―ちなみに若手の推しメンはいますか?

みんな推しメンですよ。好き嫌いある子は誰もいません。みんな頑張って欲しいですよ。ジョークで言うんですけど、チャーリーも歳やから、お前らが頑張ってくれ、次代を背負う君たちにみんな任せるから引退や、って。でも僕はこれしか出来ないから。新喜劇しか出来ないから。チョイ役でもエエんです。セリフもろても覚えられへんし。だから、出た時の役柄で「ごめんくさい」から入っていって、そこから物語の中で、自分なりのしゃべり方をして。考えてないようで、考えてるんですよね、やっぱり。本業やからね。

―新喜劇は変わってきたと思われますか?

やってることは一緒なんですけどね、昔の大先輩と一緒に出させてもらってて、学ぶこともあったし。吉本新喜劇の良さは理屈なしで笑えるところ。だから独特な吉本新喜劇というのは、いつまでもドタバタでいいんです。そんな中で泣き笑いの週のストーリーがあっていいと思いますが。今の子たちも頑張ってると思います。「頑張れ、頑張れ」と言うてるんですけど。それなりに個々のタレントが味を出しながら出てきて笑わせる、これが新喜劇の良さであって…チームワークです! 俺、今日エエこと言うなあ。…間違ったことは言うたことがない。間違ったんは人生ね…(笑)。嫁はんに逃げられたとこから、そこからまたギャグが出たんや。「いずこへ~」って。そういうつながりがあるんですよ。僕のギャグはぜ~んぶ。
(人生ですね!)
僕の人生のつながりですよ。全部言うてきたのは、つながりなんです。昔、芝居の恋人役の山田スミ子に「スミ子さんじゃ、あ~りませんか」とか、つながりがあるんですよ。「ごめんくさい」も、ほんまは酔うてたんですね。舌が回らなかった。今でも舌が回らないですけど。僕のギャグはすべて人生。流れがあるんですよ。

―趣味やハマってるものは?

趣味はいまだにゴルフ。ゴルフは若い頃からやってたからね。花紀京さんとか岡八朗さんとかと、よう行きました。「冬はアカン、寒い、行かん」とか言うようになるでしょ。だんだん疎遠になってきますけど、いまだに回ってますよ。
(ほかには?)
何にもハマってません。だんだん酒も弱なってきたし。まっすぐ、灯りのついてない家に帰る。寂しい思いで、ガチャっと開けて、「ごめんくさい」(笑)。
(笑)。
今、あなたも笑ったようにね、雰囲気が明るくなったらエエねん。皆さんが明るくなったらエエねん。暗いのはあんまり性に合わんですね。

―これから先、何かやりたいことありますか?

僕は昔ね、若い子たちに「50歳になったら芸人辞める」って言うとったんですよ。それが60になり、70になり、もう、20年オーバーや。なんか魅力があるんでしょう、この世界に。なんかあるんでしょうね…一度入ったら、足が抜けないというか。舞台に立てる間は舞台に立っていたい、という心境になってきました。身体が続く限りやってみたいと思いますね。

2015年1月26日談

プロフィール
1942年11月7日 大阪府生まれ。