学問の自由が奪われた学徒出陣から80年。戦時中に京都大学に通っていたある学生の日記が約100冊見つかりました。小さな字でびっしりと当時の出来事などが書かれています。学徒の思いはどのようなものだったのか、日記から心の軌跡をたどりました。

「戦争とは何であったのか」当時の日記からたどる『心の軌跡』

 「国家の危機を思い、ああまでして飛び込んでいったのに、その真相は何であったのか」
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 戦後、書かれた日記です。書いたのは2021年に98歳で亡くなった秀村選三さん。亡くなった後、家族が見つけた日記からは、青年だった秀村さんの揺れ動く心の軌跡が読み取れます。
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 (息子 秀村研二さん)「書くことによって納得していくといいますか、語りたくもなかったのかもしれませんけれども、悩み、葛藤している姿は十分に日記に出ていると思います」

 戦争とは何だったのか。秀村さんの日記が約80年の時を超えて私たちに語りかけます。
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 秀村さんが通っていたのは京都大学。1942年、入学した時の思いをこうつづっていました。

 【秀村さんの日記】
 (1942年8月27日)「京都帝大より合格通知あり」
 (1942年8月29日)「一生をかけての学問、土台をしっかり築こう」

心情の変化「愚図愚図していれば国滅ぶ」

 しかし、秀村さんが入学したのは太平洋戦争が始まった翌年。学生らも徴兵されるべき、という世論は強まっていて、秀村さんの心情は変遷します。

 【秀村さんの日記】
 (1942年10月24日)「日本は危機に立っている。この現実のこの烈しさにひとり経済史の勉強とはなんだ。愚図愚図していれば国滅ぶ」
 (1943年1月10日)「こんな時代に大学に学ばせられているということを余程考えねばならない」
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 そして、入学から約1年後の日記に書かれていたのは…。

 (1943年9月13日)「学生の徴兵猶予停止」
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 大学生らの徴兵が決まります。1943年秋、日本軍が敗戦を繰り返す中、不足する兵力を補うため、学生らが陸海軍に入隊することになりました。学徒出陣です。

出陣へ強い決意「ペンを捨て剣を執る」

 京都大学には、その当時の絵が残されていました。

 (京都大学 西山伸教授)「こちらの絵画、学徒出陣図と言いまして、1943年11月20日に京都帝国大学の農学部グラウンドで行われた出陣学徒の壮行会の様子を描いた絵ですね」
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 徴兵された学徒は全国で10万人以上とも言われ、京都大学では4500人に上る学徒が出陣したとされています。
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 当時の大学トップの羽田亨総長も壮行式で学生を激励していました。

 (壮行式告辞 羽田亨総長(当時))「筆を投じて戎軒を事とする(筆を捨てて戦場に行くこと)は国民当然の覚悟であり、今や実にその時に際会したのである。生死を超脱して、必ず敵に勝つことを期せねばならぬ」
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 (京都大学 西山伸教授)「学徒出陣のときには正面を切って反対した大学は1つもありません。絶対ないです。総長ご自身のお子さんも学徒出陣で軍隊に行っていますので、総長自身の心の中を慮ると、いろいろ複雑な思いがあったんじゃないかなと想像しますけどね」
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 世間の流れにのまれるように秀村さんは強い決意を固めていました。

 【秀村さんの日記】
 (1943年10月3日)「ペンを捨て剣を執る」
 「俺は飛び込んでいこう、そうだ、若き血液を国家にささげよう」
 (1943年10月23日)「もう決して大学に帰る日はない。今の時代、学問も何の役にも立たぬ」

今も残る…戦死した学徒の手紙

 京都大学から出陣した学徒たち。秀村さんは海軍に入隊し、魚雷艇部隊に配属されました。しかし戦争末期、アメリカの本土攻撃が迫る中、無謀な作戦に加わった学徒も多くいました。

 (京都大学 西山伸教授)「訓練中に家族に手紙をたくさん出していますので、ご家族の方がその手紙を大切に保管されていた」
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 京都大学経済学部に在籍していた時岡鶴夫さんの手紙があります。

 【時岡鶴夫さんの手紙】「どうか第二の国民達を立派に育てて下さい。そして大きくなったら叔父ちゃんはえらい人だと教えて下さいね。日本は必ず勝ちます。さよなら」

 スポーツ万能だった時岡さん。1945年5月14日、海軍の特攻で戦死しました。
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 また、生き残った学徒にも話を聞くことができました。京都大学の学生だった岩井忠熊さん、100歳。海軍の「震洋」と呼ばれる特攻隊に配属されていました。爆弾を積んだベニヤ板の小さいボートで敵艦に突っ込む作戦でした。

(京都大学元学徒 岩井忠熊さん)「人間を消耗品みたいに使う。1人や2人戦争で死んでもね、当たり前じゃないかという空気があるわけですよ。自分を大事にしようとはこっちも考えていなかった。そういうのに流されていたわけですね」

23歳で戦死した秀村さんの親友

 また、秀村選三さんの日記には、同じ京都大学の親友との交流についても書かれた箇所があります。

 【秀村さんの日記】「俺は林と一緒に買い物をした」「林を見舞いに行く」
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 林市造さん。信仰心の厚いクリスチャンで、母子家庭で育ちました。特攻隊員となった林さんは家族への思いをつづっていました。

 【「日なり楯なり」より 林市造さんの手紙】「母チャンが私にこうせよと云われた事に反対して、とうとうここまで来てしまいました。私はこの頃毎日聖書をよんでいます。よんでいると、お母さんの近くに居る気持ちがするからです。私は讃美歌をうたいながら敵艦につっこみます」
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 林さんは海軍の特攻隊員として、1945年4月12日、鹿児島県沖の海上で戦死しました。23歳でした。

 【秀村さんの日記】「林たちがたおれた今日、私はただ社会のため、人の世のために意義あるものを為したいと思う」

戦後は訴え続けた『絶対非戦』

 1945年8月、日本は戦争に破れ、生き延びた秀村さんは再び学問の道に戻ります。

 (息子 秀村研二さん)「よく、自分よりも優秀な人たちがたくさん死んだ、というのは言っていて。だからその分自分たちも頑張って生きなければいけないという思いはよく語っていました」
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 戦後、秀村さんは九州大学の教授となり、亡くなるまで『絶対非戦』を訴え続けたといいます。

「国家の危機を思い、ああまでして飛び込んでいったのに、その真相は何であったのか」

 「家族のために」「国のために」さまざまな思いで京都大学から出陣した学徒。待ち受けていたのは絵の色彩のような陰鬱な未来でした。
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 無謀な作戦に翻弄された学徒の出陣から今年で80年です。

 【「日なり楯なり」より 林市造さんの手紙】「私は、壮烈なる戦死を喜んで征く。だが、世にもてはやさるる軍人も、政治家も、何と、薄っぺらな思慮なきものの多きことか。暗愚なる者共が後にのこりてゆくを思えば断腸の思いがする」

 【秀村選三さんの日記 1947年】「私たちは純な気持ちで国家の危機を思い、ああまでして飛び込んでいったのに、その真相は何であったのか。各自の責任を思え。すべてが偽りの世の中なのだ」

 忘れてはいけない学徒たちの思いです。