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【特集】「拒むことができなかった...」関西電力が"怯えた"元助役とは?原発をめぐる異様な関係 

2019年10月31日(木)放送

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関西電力の社長ら20人以上が福井県高浜町の元助役からあわせて約3億2000万円分の金品を受け取っていた問題。関電幹部が「怯えていた」と話す元助役とはいったいどのような人物だったのか。多くの関係者への取材から見えてきたものとは…。

関電社長「“影”に怯えてしまった」

今年10月2日に関西電力が開いた会見。社員約2万人のトップに立つ岩根茂樹社長の表情は苦渋に満ちていた。

「就任のお祝いということでいただきましたので、お菓子か何かと思っていたら、その下に金貨が入っていた。」(関西電力 岩根茂樹社長 10月2日)

岩根社長は会見で、自らを含む幹部20人が福井県高浜町の森山栄治元助役(故人)から現金や金貨、スーツ券などあわせて約3億2000万円分の金品を受け取っていたと発表した。

「長年にわたって各人が我慢を重ねて対応してきた。過去から続く森山氏というその“影”に怯えてしまったというところがあるかと思っています。」(関西電力 岩根茂樹社長)

金品を受け取っていた側なのに、まるで被害者かのように「拒むことができなかった」と社長は繰り返した。

1977年のインタビューで原発誘致の成果を強調した元助役

今年3月に90歳で亡くなった森山元助役と関電。その異常とも言える関係はどうして生まれたのだろうか。その背景のひとつとして原子力発電所の存在は欠かせない。関電の高浜原発1号機(1974年稼働開始)と2号機(1975年稼働開始)が稼働を始めた直後の1977年、就任して間もない森山元助役のインタビューがMBSに残されていた。

【1977年のインタビュー】
Q(高浜原発)1号機と2号機が現在稼働しているが、これを高浜町に設置することでどれほどの地元への利益があったのか?
「これは非常にメリットは大きいですわ。現在、高浜町は『過疎地帯』と過去から言われ、これという特産物もありませんし。結論的に言ったら原電以外に高浜町を救済する経済浮揚策はないのではないかと。」(高浜町 森山栄治助役※当時)
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原発誘致の成果を強調した上で、続く3、4号機の誘致に向け意気込みを語った。

【1977年のインタビュー】
「3、4号炉を今回やろうじゃないかと、これは国策に基づいた事業でもありますので、住民のコンセンサスを整備しようという結論になったわけです。」(高浜町 森山栄治助役※当時)
Q地元の町民は原発に対する不安感はほとんどない?
「わたしはないと思いますね。一部ね、ものは取り方ですから、そりゃ100%こうだというのはどうかと思いますけど、まず町民の皆さんは理解していただいていると思います。」 

金品の受け取りについて関電が調査したのは2011年~2018年までの7年間だが、関電と森山氏との関係はさらに古い。

手渡されたのは『小判』…原発の元所長「もう2度と出会いたくない」

MBSは1990年代に高浜原発の所長を務めていた人物から話を聞くことができた。

(元所長)「背広を1回もらったのと、あとは小判というかね。」
(記者)「小判?」
(元所長)「2枚、小判の形している。」

今から20年以上前に元所長が森山氏から直接手渡されたという小判をみせてもらった。純金製で1枚30g、現在の相場でいうと2枚で約30万円相当だ。当時から森山氏に対しては会社ではなく個々人で対応するというのが暗黙のルールで、元所長は後日、絵画と高級包丁を返したという。

(元所長)「あの人から1時間説教受けたらよくわかります。骨の髄までいかれます。どんな人間か。」
(記者)「どんな人間でした?」
(元所長)「もう2度と出会いたくない。」

元所長はことあるごとに森山氏から呼び出され、部下と共に高浜町から京都の高級料亭などへ駆けつけた。すると森山氏は、同席した工事業者に見せつけるかのように“ある言葉”を使って元所長らを激しく罵ったという。

(元所長)「僕が言われたのは、『家に同和の人間を押し掛けさせる』みたいな話。なんか文句あるんやったら『同和をお前の家に動員かけるで』と脅しの言い方やから。それは寝られないですよね。なんでこんな仕事を続けなあかんのかと情けなくなりますよね。」

“ある行政手腕”を買われて高浜町へ?

森山氏は1928年に地元高浜町で生まれ、京都府や綾部市の職員を経て1969年に高浜町役場に入った。ちょうど国から関電に対し、高浜原発1、2号機の設置許可が出た頃と重なる(1969年:1号機設置許可、1970年:2号機設置許可)。高浜町の渡邊孝議員は、森山氏が高浜町に戻ってきたのは“ある行政手腕”を買われてのことだったと話す。

「『長年綾部市において同和行政に取り組まれていた森山栄治氏を同年(1969年)12月11日に企画室主幹に迎え同和対策のスタートを切ったのである』というようなことで…」(高浜町 渡邊孝町議)

高浜町が発行した記念誌には、森山氏が高浜町の同和教育に果たした功績が記されている。

森山氏が高浜町役場に入った1969年は、国が同和対策事業特別措置法を制定した年でもある。改善が必要な地域を「同和地区」に指定し、公営住宅の建設や道路の整備など差別を解消するために必要な同和対策事業を行政が責任をもって行うことを明記した。森山氏は高浜町で同和行政を推し進める傍ら、部落解放同盟高浜支部の結成に尽力し、1970年~1972年の2年間、書記長を務めていた。そして役場に入って8年後の1977年には、町のナンバー2にあたる助役までのぼり詰めた。助役の給与は当初から町長を上回るなど、異例の厚遇だった。

【濱田倫三町長※当時の議会答弁の記録より】
「給料について助役が高い、町長が安い、ということは別に当たってはおりません。その人の能力に応じて給料は支払われる。」

森山氏はこの頃、高浜原発3、4号機の誘致に向け、献身的に動いていたという。

部落解放同盟「関電らの忖度が森山氏を肥大化させた」

町の発展とともに「地元対策」のキーマンとして次第に権力を強めていった森山氏の影響力は助役を辞めた後も衰えることはなかった。原発の設備工事などを受注する地元の複数の建設会社で顧問などを務めていたほか、関電の幹部向けの「人権研修」の講師を2年前の2017年まで約30年にわたって務めていた。この研修には岩根社長も参加していて、会見ではこう語っていた。

「内容についてあまり記憶がなかなか出てきませんが、広く人権の問題の重要性ということについてお話されていたように、非常にあいまいですが記憶はしております。」(関西電力 岩根茂樹社長 10月2日)

長年、京都や大阪で部落解放運動に携わってきた藤田敬一さん(80)は、かつて運動団体による激しい糾弾闘争が行われていたことなどを挙げた上で、「関電側の偏見が正しい対応を誤らせたのではないか」と指摘する。

「あれだけの大きな企業が見るも無残な対応をし続けた。それこそ伝統的に企業の中に根付いていた『同和は怖い』という意識が克服できなかったんじゃないかな。迎合したんでしょう、それこそ忖度という言葉があるけど、僕からすると迎合でしょうね。」(藤田敬一さん)

一方、部落解放同盟中央本部は「森山氏自身による私利私欲という問題に部落解放同盟としては一切の関与も存在しない」としたうえで、次のようにコメントしている。

【部落解放同盟中央本部】
「解放同盟や同和問題という力を利用して隠然たる力を持つに至るという短絡的な問題ではなく、原発の建設運営をスムーズに持っていこうとする福井県、高浜町、関西電力による忖度が森山氏を肥大化させ、森山氏が首を縦に振らなければ原発関連の工事が進まないという癒着ともとれる関係にまで膨れあがったのである。」

岩根社長らは会見で森山氏について次のようにも語っていた。

「(森山氏が)『わしが原子力を反対してどうなるかわからんのか』といったことを相当強くおっしゃったようでありまして、(原子力の)地元の理解活動が阻害されるということを恐れたと。」(関西電力 岩根茂樹社長 10月2日)
「この方を怒らせてしまうということは、イコール高浜地域での原子力事業運営がスムーズにいかないと。」(関西電力 八木誠会長※10月2日当時)
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「原発城下町」で絶大な影響力を誇った元助役。関電もその力を利用した側面がなかっただろうか。「関電マネー」で潤った町が、その金をめぐる問題に揺れている。

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