MBS(毎日放送)

よんチャンTV(テレビ)

編集部セレクト

急性白血病を乗り越えたJリーガー早川史哉選手が伝えたい言葉『一歩ずつ』...退院後は中高生に走り負けた現実も「ここまで元気になったから感じられる辛さ」

2022年11月01日(火)放送

SHARE
X
Facebook
LINE

 がんになった現役Jリーガーのアルビレックス新潟・早川史哉選手(28)。22歳の時に急性白血病を発症し、抗がん剤治療や骨髄移植を受けて、3年前に現役復帰しました。病気を経験した早川選手が今伝えたい思いを取材しました。

プロデビューしてすぐに“白血病”が判明

 今年10月、J2で優勝を果たしたアルビレックス新潟。6年ぶりのJ1昇格に地元は盛り上がりました。
3.jpg
 副キャプテンの早川史哉選手は、白血病サバイバーで唯一の現役Jリーガーです。優勝の瞬間は…。

 (アルビレックス新潟 早川史哉選手)
 「本当に言葉にならないくらいの喜びでした」

 病気がわかったのは6年前、22歳の時。プロデビューしてすぐのことで、地元のニュースでも大きく取り上げられました。

病気の宣告を受けた時は「ホッとした」

 小学1年生からサッカーを始めた早川選手は、高校生の時(2011年)にU‐17の日本代表に選ばれるなど早くから頭角を現す存在でした。
6.jpg
 がんの宣告を受けた時は意外にもホッとしたそうです。

 (アルビレックス新潟 早川史哉選手)
 「1本のダッシュでもすごく息があがって、足に鉛がついているような感覚で。こんなに(体が)きついのは自分自身のせいじゃなかった、白血病だったからきつかったんだとわかった時は、ものすごく自分の中でホッとしたというか」

 入団して間もなく、ずっと身体の疲れが取れず違和感を持っていましたが、プロになったプレッシャーからの不調ではないかと不安だったといいます。
8.jpg
 白血病は年間約1万数千人が発症する血液のがんです。慢性と急性など様々な種類があり小児や若い世代に多いのは急性白血病です。どの種類の白血病かによって治療法は異なり、使う抗がん剤も違います。早川選手は急性白血病でした。

 (国立がん研究センター・造血幹細胞移植科 福田隆浩医師)
 「(急性白血病は)最も多い疾患ですね。急速に進行したりしますので、急に入院が必要になって、強い(抗がん剤)治療を受けなくてはならない。いろんな意味で受け止める時間も少ないですし、(薬が)効かなくなった時に移植が必要になってドナーを探すことになります」

副作用に耐え…治療を始めて半年後に骨髄移植

 診断を受けてすぐ入院。完治を目指し、抗がん剤治療と骨髄移植を受けることになりました。移植前の抗がん剤治療は副作用が強いことで知られています。著書に当時の思いを次のように記しています。

 【早川選手の著書より】
 『全身がだるくなり、味覚障害に陥る』
 『あらゆる症状が自分の体に生じ、無気力感に支配される』
 『それでも食事はできる限り食べて、体力を維持しようと努めた』
10.jpg
 副作用で全身が脱毛し、病室のシャワーブースで抜けた毛で真っ黒になった床を見た時は、ショックのあまり吐き気に襲われたそうです。

 治療を始めて半年後、骨髄移植を受けました。両親や兄弟ではなく骨髄バンクを通じて見知らぬドナーが提供してくれました。

 【早川選手の著書より】
 『血液を作り出す造血幹細胞を投与してもらった。これだけの量をドナーさんは提供してくれたんだなと感謝の気持ちがわいてきた』
 『この細胞で生きるということをさせてもらえるのだ…』

最初は5分走って動けなくなるほど体力低下も…『2019年にピッチ復帰』

 約1年後に退院。再びサッカー選手に戻れるのか不安でしたがリハビリを始めました。最初は5分走っただけで動けなくなるほど体力が落ちていました。

 (アルビレックス新潟 早川史哉選手)
 「最初のほうは中学生や高校生と一緒に練習することが多かったので、そういう子たちと練習をしても走り負けたり動けなかったりという現実を突きつけられたけど、ここまで元気になったからそういうのも感じられるんだなと改めて自分の中で感じたので、ショックな部分の裏側にはここまで来なきゃ感じられなかった辛さだった」
16.jpg
 チームの理解と家族やサポーターの応援に支えられながら、2019年にピッチに復帰。実に3年ぶりにフル出場を果たしました。

 (早川史哉選手 2019年の試合後の会見)
 「闘病中も夢に…。本当に苦しいなかもずっとこのピッチを思い描いてやってきたので、本当に僕にとっては特別な場所ですし、特別な1日になったと思います」
17.jpg
 今は年に数回通院しながら経過を見ています。病気の前と同じ身体とは言えませんが、仲間と同じ練習をこなし、何事も手を抜きません。

病気宣告の時も泣かなかったが「子どもが作れなくなるかもと…涙が出た」

 実は治療中一度だけ号泣したことがあります。抗がん剤の影響で将来子どもができない可能性が高いと言われた時でした。病気の宣告のときも泣かなかったのですが…。

 (アルビレックス新潟 早川史哉選手)
 「僕自身ものすごく子どもが好きで、子どもと遊んだりすることが大好きなので、自分自身の子どもを持つというのも人生のなかでものすごく大切な幸せな部分として思い描いていたので。治療をしたら自分の子どもがもしかしたら作れなくなるかもと。悲しかったというか涙が出ましたね」
20.jpg
 大学の同級生で妻の真優さんが、闘病中に見せた早川選手の涙に思ったことは…。

 (早川選手の妻 真優さん)
 「本人自身が落ち着いているというか何があっても気持ちがあまり動じない人だったので。本人がそこまでショックを受けるというのは初めて知ったので、『子どもが本当に好きなんだろうな』とその時すごく感じました」
21.jpg
 2人は2020年に結婚。治療前に精子凍結を行い、体外受精で子どもを授かれたらと今は話しています。

病気と闘う患者らに伝えたい言葉とは

 がんを経験したことでサッカーを中心に生きてきた人生が変わりました。抗がん剤で一度脱毛した髪の毛は、治療後に髪質や量も変わり、今の髪型が定着しました。

 (アルビレックス新潟 早川史哉選手)
 「同じような病気とかで髪型や髪の毛で悩んでいる人も、自分なりの気に入った髪型にすればいいんだなというのが伝わってくれればいいなと思います」

 病気はひとりひとり症状も経過も違う。それぞれのペースでその人らしさを大切にしてほしいといいます。
25.jpg
 取材した日、クラブハウスに1通の手紙が届いていました。がんと闘病するサポーターからで、選手たちが励ましのサインを贈ることになりました。早川選手は『一歩ずつ』という言葉を書きました。
q2.jpg
 (アルビレックス新潟 早川史哉選手)
 「1日1日もそうですけど、毎日を過ごしていくっていうことがすごく大事だと思ったので。一歩飛ばしにはできないですし。『頑張れ』という言葉はあんまり言えないです。十分頑張っていると思いますし。少しでもいい方向に進んでいけるように」
26.jpg
 『一歩ずつ』。病気と闘う多くの患者さんに伝えたい言葉です。

関連記事

SHARE
Twitter
Facebook