MBS(毎日放送)

第10回 若井みどり

売れるまで、20年は地下を這い回ってました。

―1965年に若井はんじ・けんじさんのお弟子さんになられました。

もともと芝居が好きで、役者になろうと思っていたんですよ。高校の時は劇団に入ってました。高校を出て、劇団もなくなって。就職するのもいややし、和裁学校に行ったんです。そこに、小づえちゃんも来てたんですよ。当時は漫才師、若井はんじ・けんじが出だしの時で、友達が「若井はんじ・けんじって知ってる?たまにしかテレビに出てへんけど、ものすごい男前で面白いねん」って。昔の漫才師の人って、年寄りばっかりでしょ? うちの師匠だけ、男前でパアッと輝いて見えたんですよ。「1回観に行こうか」と、5~6人のグループが授業をサボって、早くから一番前の席取って角座に観に行ったんです。それがはじまりです。スターだからたくさんのファンレターが来るし、どうせなら目立たなあかん、と小づえちゃんと一緒に悪口を書いたファンレターを送ったんですよ。楽屋を訪ねた時、「お前らか!1通しか来てないのに、悪口書いて!」とえらい怒って…(笑)。舞台の漫才のオチのところで紙テープを投げたり、とんでもないファンでした。

―ファンからお弟子さんに?

実は松竹やから松竹新喜劇にも入れるかと錯覚したんです。口を利いてもらえるかという魂胆があったんですが、「わしは知らん」と。これは弟子に入った方が早いと思って、「弟子にして」というと、「女の弟子はいらん。なんぼ育てても年頃になったら、嫁に行って楽しみがなくなるから」と言われました。「結婚しませんから」と、長いことかかって預かり弟子みたいな形で入ったんです。20歳の時に年齢をごまかして。小づえちゃんはようけごまかしてましたけど。私のひとつ上やっていうから、そう思っていたら、しばらくして同い年になって、亡くなったら、(私が)年下になってました(笑)。びっくりしたわ。

―当時漫才師を志す女性はほとんどなかったと思うんですが。

女の漫才師はいなかったですからね。弟子となると、いずれ結婚するだろうけど、ある程度の実力を蓄えておけば、仕事が出来ますでしょう? 実力があれば、結婚する時も相手が納得するけど、そうでなかったら、男に引っ張られて漫才を辞めてしまうかもしれない。師匠はそれが嫌やったんやと思いますわ。だから、師匠は若い男の子にはきつかった。私らにしゃべりかけてくると、その男の子らをものすごく睨むんです。はんじ・けんじが売れてる時やから、憎まれたら困る。若い男の子らは一切、私らに物を言いませんでしたね。女の漫才は珍しいから、やってすぐにラジオのレギュラーもらったり、番組いっぱい出してもらいました。でも実力がないもんで、みな見事に失敗しました。ウケるウケへん以前の問題でしょうね。会社は女の子2人で売れると思ったんやろけど、昔の子って今みたいに器用やないしね。漫才もテレビでそんなにやってないし。どうしてええもんやらわかれへんのですね。50年近くも前ですから今ほどバラエティー番組もないでしょ。バラエティーとかの感覚がゼロなんですよ。どこへ出しても、何も出来なかった。

―でも、ずっと続けられて来られた…。

自分に対して腹が立ったんでしょうね。くそーって。
(ネタは自分で?)
作らないと怒られるんです。自分で作って舞台へ毎月あげる。自分で作ったものをこなせないと、人からもらった時にこなせる力がない、まずは自分で作ってこなせる力を養え、との教えでした。師匠らの台本は、秋田實先生とか足立克己さんとかが書いて持ってきはるネタやから、ものすごく面白いんです。そんなネタは全部他のコンビがもろてますわ。私らは、1本ももらったことない。自分でせえ、って。私も弟子が出来ましたから、今になって、その気持ちはようわかるんです。自分の子どもって厳しく育てておかないと、ひとりで生きて行けませんもんね。子どもを育てるのと一緒。よその子にアメやって、虫歯になろうが関係ない。アメくれるええオバちゃんでいい。うちの子は虫歯になったら困るから、お前はアメ食うな!って怒りますやん。えげつない師匠やなと思いました。当時は恨んでましたが、今考えたらエエこと教えてくれてるわ、と。

―お2人で頑張ってこられて、売れ始めたのは?

漫才ブームの終わり頃です。花王名人劇場(関西テレビ系日曜よる9時のバラエティー番組1979年10月~90年3月放送)に出てからぐらいですね。
(ずい分長いことかかりました)
ただひたすら頑張ってた。売れたのが、40歳そこそこ違いますか。だから20年は地下をはい回ってましたね。上岡龍太郎さんとか、楽屋内の漫才の人は、ごっついほめてくれはるんです。「お前ら気になる。漫才はおもろいなあ。そやけど、何で出てけえへんねん(売れないねん)」と。よう言われましたわ。
(その頃はどこに所属されてました?)
吉本興業です。松竹に弟子から3年いまして、うちの師匠を育てた藤井さん(藤井康民)が、秋田先生とケーエープロを作りはって、そこへ師匠が行ったもんですから、必然的に連れて行かれました。そこに5年いまして、「吉本へ行きたい」と師匠に頼んで入れてもらいました。昭和49年(1974年)ですわ。

―ファッションが印象的でした。

そうですねん。その時はスタイリストっていわずにコーディネーターって言ったんですけど、吉本の河井泉さんが「コーディネーターつけたらどうや。紹介するわ」と、言うてくれはったんです。その頃に自分でお金払って、漫才師で洋服のコーディネーターつけたのは、初めてです。私らが一発目です。
(オシャレな漫才師のイメージがありました)
外から見てて、衣装さえ変えたらいけるのに、と思いはったんでしょうね。今まで自分で捜しに行った古いお揃いの衣装を着てたから、自分ではわかれへんのですね。センスが。コーディネーターの人ってファッションモデルしてた人やから、2人に帽子をかぶせはったんですけど、2人ともかぶったら目立たないから、小づえちゃんだけにしよう、と。なんやかや言うて30年漫才やってました。

―漫才コンビは解消されたのですか?

相方の小づえちゃんがずっとやってきたヨガの「先生のコースへ行くから漫才をやめたい」と言い出して、会社はヨガも漫才も両方したらいい、と言ってくれたんですけど、「私はもう漫才はいい」と。会社が何べん止めても止まらずにやめはったんです。やめて5年くらいしてから亡くなりましたかね。(1999年1月急逝)会社が、小づえちゃん、いつ気が変わって、「また漫才するわ」って言うて来るかわかれへん。だから充電やと思って待っといたってくれ、というので解散はしてないんですよ。新喜劇の営業の方へ行ったりしてました。亡くなってから1年ほどして、会社が「メグマリコが小づえちゃんのモノマネするから一緒にやったってくれ」と。お断りしたんですけど、どうしてもやってくれ、と言うので、5年やりましたけど、やっぱり無理でした。モノマネじゃ、漫才出来ませんもん。お互い若くないから、コツコツやる時間もないんですよ。やめて、ほんのちょっとしてから、会社から、新喜劇へすっちーと、ランディーズのとこと、私と、入ってもらうことにした、と誘いをいただいた。だから新喜劇は、すっちーも高井君も中川君も同期なんですよ。

―新喜劇へ行くことをどう思われましたか?

充電期間に営業で花紀兄さんとか、原(哲男)兄さんとか、岡八朗兄さんとかに入れてもらって新喜劇をやってましたから、別に違和感はなかったんです。この頃にはすっかり漫才師が身についてましたから、芝居のしゃべりは大変でしたが、花紀兄さんとかにも教えてもろて。私、ええとこに入れてもろたなあ、と。
(どんなところが大変でしたか?)
漫才は1対1でものをいうけど、舞台は人がようけ(=大勢)いますでしょ。人がやってる時に知らん顔して立つな、知ってて立ってなアカン。知ってても知らん顔して立ってなアカン。死に体で立っとれ、みたいな。漫才は、2人やから相手の言うことを「ふん、ふん」と何でも聞く。そのクセがついてるもんやから。新喜劇は返事をしたらいかん、かといって芝居から離れたらあかん。そんな感じですよ。今思えば英才教育でしたね。八朗兄さんの嫁とか、花紀兄さんのいる工事現場の食堂のおばさんとか、身近な役やから、ものすごいええ勉強になりました。
(その当時と今の新喜劇は変わりましたか?)
ものすごい変わりました。テンポが違いますわ。うちの漫才はテンポが速かったですから、漫才の時のテンポに戻った感じです。ただ身体がね、テンポに脳はついてくるんですけど、身体がついて来ないという…(笑)

―新喜劇に変わられた時の初舞台は覚えてますか?

どうやったかな?
(覚えてらっしゃらなければいいんですが)
いや、覚えてますわ。トチったんや! うどん屋が舞台で、桑原兄さんと井上お兄さんと私と、オープニングでしゃべってたんですよ。私がうどん屋のおかみさんで、順番にしゃべって、自分の番やというのはわかってるんですよ、台本も浮かんでるんですよ、けど、その字が出てこない。ははは…(笑)。で、みんながさっと黙ったんです。初日やから、みんなもうろ覚えで、「ひょっとして自分やないか」と思ってるんです。でも私はわかってるから、小声で「私です、私なんです。私です」。そう言うたんは覚えてますわ。ちっさい声でみんなに言いまくった。あははは(大笑い)。
(で、どうなったんですか?)
そしたら、誰かが「粉」っていうてくれたんですよ。あ、粉や、「粉まぜたんか~?」と。あれはびっくりしましたわ。自分の番って知らんかったら、割と知らん顔できるんですよ。自分だとわかってるだけに…。
(コケるのはどうでした?)
ようコケませんでした。1回コケて、ものすごい膝打ちましてね、これはコケたらケガするわと。そやから、とととっ、と行くぐらいにしてたんですけど、やっとコケれるようになりましたね。この2~3年やね。コケれるようになったのは(笑)。
(なかなかコケ芸、難しいんですね)
いや、あれは難しいですよ。痛くないようにね、コロンと背中向けてひっくり返るのは、なかなかコツがいりますわ。

―今の新喜劇について思われるところは?

みんな仲良しやね。人のギャグを考えてあげたりとか。あれはものすごい偉いなと思いますね。それが新喜劇がずっと盛り上がってきてる根本かな。昔はそんなことなかったような気がします。
(金の卵も10年になりました。若い子で推しメンはいますか?)
やっぱり、なんでも10年やねえ…。漫才でもよう言われたんですよ。10年したら聞ける漫才になるわって。笑うところまでいきませんよ、聞ける漫才になるって言われましたね。やっぱり何でも10年せなアカンね。役者らしいなってきたもん。裕君もそうやし、前田真希もそう。ええマドンナになってきたもんね。その辺りが次の時代を背負う世代やね。

―今、ハマってらっしゃるものは?

身体の事を考えて、週一の体操は行こうとしてます。劇場に入ったらなかなか行けませんが、休みの時は行ってます。
(体操というのは?)
この説明がなかなか難しい。スポーツジムじゃございません。自分のことは自分で治そうと、筋肉を若い頃の位置に戻そう、という体操なんです。道具はダンベルと腹筋台だけ。あとは全部自分です。一日40分ですが、ものすごい体調が良くなります。3週間ほど行かなかったら、お尻が垂れてくるのが自分でわかるんです。着物を着ても、後姿が全然違うんですよ。きれいな体でおらなあかん、という努力はしてます。

2014年8月談

プロフィール

1946年7月29日大阪府大阪市出身。

SHARE
X(旧Twitter)
Facebook