MBS(毎日放送)

第61回 森田まりこ

ゴリラのものまねは小学生の頃からやってたんですよ。

―大学は体育学部、お笑いを目指されていたわけではないような…。

(笑)もともと、お笑い好きのお父さんの一家で育ちまして…。子どもの時からお笑い大好きやったんですよ。新喜劇は絶対見るし。
(そうだったんですね!)
3姉妹なんですが、全員お笑い好きで、土曜朝は遅くまでグータラ寝るタイプだったんですけど、お母さんの「新喜劇始まるよ~」でみんな無理やり起きて、見るくらい。中高生の時は追っかけもして…ふふふふ(笑)心斎橋2丁目劇場まで。その時は新喜劇じゃなくて、漫才でしたけど。2丁目劇場で出待ちしてるくらい、お笑い好きやったんですよ。
(その時は誰のファンだったんですか?)
それはちょっと内緒で…あはははは(大笑い)。コロコロいろんな人を好きになって、あの人もこの人も好き! みたいな感じやって…。
(中高生で2丁目劇場に行くのは…)
しょっ中じゃなくて、たまに、ですよ。行ける時に…。
(篠山市からけっこう時間がかかったんじゃないですか?)
かかってました。でも、2時間あれば着きます。2丁目劇場の近くに新喜劇の劇場があるって、当時はよく知らなかったんですよ。新喜劇はテレビで見るもので、まさか劇場に行くなんて夢の話って思ってて。お笑いは見るのが好きっていう感じやったんです。お父さんの影響ですね。その頃は自分でやることは考えてなかったんですよ。

―体育学部って、運動神経バリバリのイメージが…。

ちゃうんですよ~それが~。ほんまに走るのも遅いし、50m走も9秒台やし、ジャンプ力もあんまりないんです。高校時代にダンス部で、ダンスだけ得意になったんです。自分自身は、神戸の短大の文系のダンス部に入れたら…ぐらいにしか思ってなかったんですけど。高校の時のダンスの大会の時、私が練習しているところを見た他校の先生が天理大学のダンス部の先生のお友達で、「真面目で一生懸命な子がいる」と伝えてくださったんですって。で、実際その先生が私を見に来て、推薦で取ってくださったんですよ。それで推薦入学できたんです。でも4年制の体育学部って聞いて、スポーツマンばっかりやし、急に、奈良で1人暮らしせなあかんし、無理や!!と思ったんですけど、部活動でダンス部に入れて、高校時代から出ていた全国大会にも引き続き出られる! それに惹かれて、体育学部やけど、ダンスが続けられるならと、入ったんです。

―大学卒業後は何を目指してました?

高校の時にダンス部の顧問やった先生に3年間しごかれて、ダンスが上達して。その先生のおかげで創作ダンスが好きになりました。当時はその先生みたいに、いつかは高校の体育の先生になって、ダンス部の顧問になりたいと思ったんです。中学高校の保健体育の免許を取って、先生になろうと思ってたんですよね。でも、教育実習で母校に行った時はもうその先生がいなくて。しかも、「うわ~高校生教えるの、むちゃくちゃ大変や!」って思ったんですよ。3週間の研修で一気に3、4キロ体重落ちちゃって。ほんまに食べ物がノドを通らなかったです。緊張と不安で。教育実習は苦痛やったんです(笑)。で、高校で体育教えるのは苦痛かも…って思っちゃって。で、大学卒業して先生になるのはちょっと考えようと思って。一旦、ダンスのインストラクターをやろうと思ったんです。

―就職されたんですね。

ちょうど4月から篠山に初めてスポーツジムが出来ることになったので、そこでエアロビクスのコーチをしたいと思って面接に行ったら、もう決まっちゃってたんですよ、枠なくなっちゃったから、スイミングのインストラクターになってくださいませんかって。私そんなに泳げないんですよ。あははは!(大笑い)もちろん、体育学部で水泳の授業もあったし、ゆっくりですけどそれなりには。でもほかに職ないし。研修で教え方を習って、それで、プールのコーチをすることになって、めちゃくちゃ初心者の私が子どもたちを教えてました。2歳~小学生までの子どもたちに水泳を教える仕事に就いて、それはそれで楽しかったです。子どもたちかわいすぎて。いい仕事だな~と思ってたんですけど。フルパートみたいな感じやったから、ちゃんとせなあかんなと思って、中学校で保健体育の枠があれば、お話くださいと講師の登録をしに行ったら、秋から、中学校の教育補助員で入ってください、と。よく聞くと、メインの先生が授業をやっている時に教室の後ろに立っていて、教室を飛び出したりとか、真面目に授業を受けない、やんちゃな子を見守る役やったんです。行ってみたら、ヤンキーの子もいるし、おとなし過ぎてクラスの中に入れない、なじめない子もいて。別教室でその子たちを教えたりしてました。勉強を教えるというよりも、友だちみたいにずっと喋ったりして…。

―学校教育に関わられていたんですね。

なんて言ったらいいんやろ? 大学卒業する時に、ほんまに将来何になりたいんやろ? と考えたら、当時は自分で何をしたいのか、よくわからなかったんですよ。お笑いに憧れはあったんですけど、その時は見るのが好きなだけだったので、ダンス部の先生みたいに子どもたちを全国大会に連れて行きたいっていう憧れがあったんです。青年海外協力隊にも憧れたし、自分でダンスカンパニーに入って、踊り続けたいなとか、ディズニーのダンサーになりたいとか…。踊りがずっと好きやったから。創作ダンスなんで、感情をダンスで表現するんです。その時から、しゃべるとか、説明することとかが下手くそやから、ダンスで表現したら喋らんでいいし。それが好きやったんです。今はしゃべらなあかん世界なんですけど…。
(教育補助員はいつまで?)
学校の方は翌年、また違う中学でやってくださいってなったんですけど、どちらの中学の子どもたちもほとんどクラスに戻ったんです。
(それは優秀な!)
今でもつながっている子もいます。先生と言うより、カウンセラーみたいな感じやったと思います。友達みたいに喋ってただけで。それはそれですごい楽しくて、やりがいのある仕事やったと思います。勉強を教えるのは私の腕では無理やったと思いますから…。次の4月からは、小学校の支援学級に行ってもらえますか? ということで、介助員として、何人か学級にいる中の1人の子に1年間ついてました。その頃、金の卵1個目のオーディション告知を、テレビの新喜劇で見たんです。

―新喜劇が人生の中に戻ってきたんですね。

新喜劇はずっと好きやったんですけど、中、高、大学くらいの10年間はたまにしか見られなかったんですよ。部活に必死やったから。卒業して実家に帰って、社会人になってから、また見始めたんです。やっぱりおもしろいな~好きやわ~ってなって。見てるうちにやりたくなってきたわ~と思って(笑)。子どもの頃からゴリラのモノマネを、親の前で披露したりしてたんですけど、新喜劇を見てるうちに、私、新喜劇でゴリラやれたら、こんな風にしたいなと。屋根の上に登ってゴリラしたいとか。だんだん、自分が新喜劇の舞台にいる姿を想像するようになったんです。その頃、金の卵1個目のオーディション告知を見て、「え!? オーディションで新喜劇入れるんや! めっちゃ受けたい」と思ったんですよ。だけど、その時は、担当の子どもがいて、そんなコロコロ先生が変わったらよくないんで、絶対、ちゃんとしないといけないと思って。1個目ということは、きっと来年もあるはず、と信じて、来年受けようと思ったんです。学校からは、もう1年出来たらと言われたんですが、心に決めてしまったので、3学期まで務めて、実家の手伝いをしないといけないということで、学校を辞めました。実際、父がガソリンスタンドを、母が喫茶店をやっていたので、4月から父のガソリンスタンドを主に手伝って。オーディション告知を待ってたら、6月くらいになって、妹が「まりちゃん、告知やってたで!」父も「まりこ、受けてみ!」って。友だちにも相談したら、「受けてみいや。あんたが先生になれるわけないやん!」と言われて。「まりこみたいにドン臭くて、ぼーっとしてて、頼りないのが、先生になれるわけないやん!」って、ボロカス言いながら、「吉本入るのが一番似合ってるのちがう?」って背中押してもらって。それで受けたんです。

―オーディションではゴリラを?

2次のオーディションの特技披露でゴリラをやりました。歌モノマネをしながら、踊りますって言って。美川憲一とかCharaを歌いながら、柔軟したり、ブリッジしたり、足上げたり、ジャンプを入れ込みつつ、2分くらいにまとめたんです。わざわざ篠山の市民ホールの鏡張りの部屋をお金払って借りて、練習したんです。
(審査員にウケました?)
審査員、ほんとに笑わないんですよ~腹立ったもん!(笑)歌って踊ったあとで、「続きましてゴリラのモノマネやります」ってやったんですよ。ティッシュぽいぽいって投げたり。でも、笑わなかったと思う。オーディション一緒に受けてる人は何人か笑ってくれたんですけど。めっちゃスベった感じあって、ヤバイかも~受かるか心配~ってすごく思いました。でも、練習して作り込んでやり切ったので、爽快感はありました。3次はコントで私たちのチームの人が1人足りなくて、そこへ吉田裕さんが助っ人で来られて。私、ホームページで裕兄さんを見たときから、好印象やったから、「吉田裕さんや~1個目のオーディションで受かってはる人や~キャッ」と思って。一緒にコント出来たのがうれしかったのを覚えてます。4次は新喜劇で、最初、マドンナみたいな役で、次に役を変わってボケの役をやったんですけど、私自身は3枚目をやりたい気持ちで受けてたのに、変にマドンナ役になって。ボケの役はセリフ少ないし、目立たないし。どっちつかずで…4次はすごく不安でした。結局、受かったんで、すごく嬉しかったんですが、なんで自分が受かったかわからなかったです。後で社員さんに聞いても何で受かったのかわからずで…。私はゴリラがあったからと思い込んでいるんですけど。

―憧れの新喜劇ですね。実際に入ってみた印象は?

ずっと興奮状態(笑)。ミーハー心が抜けなくて。ずっと1ファンのようでした。感動しちゃって。楽屋でお姉さん方に挟まれた時は、メチャメチャ緊張して、固まって。身動き取れないくらいカチコチでした。
(初舞台は覚えてますか?)
内場さんの週でした。うどん屋さんが舞台で、そこに願いごとが叶う人形があって、それにお願いに来るお客さんの役でした。私、新喜劇って、自分たちでボケを考えるなんて思ってなかったんですよ。台本どおりにするのかな、って。勝手にボケを足していいのかもわからないし。わからんことだらけで。目立たないように大人しく、真面目にすることばっかり考えてて。その時、もう辞めてしまった見取慎太郎さんという同期がいたんですが、「こんなボケ言ってみようか」とか言ってくれたりしたから、それにあわせてやった感じで。人に言われることしかやりませんでした。

―ゴリラデビューはいつですか?

ゴリラは、とんねるずさんの「博士と助手 細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」(第11回2007年フジテレビ)のオーディションがあるって話が来て。それが吉本入って、2年目くらいの時で、初オーディションだったんですよ。なんでも受けてみようと思って。その時に、Charaのモノマネもしたし、ゴリラのモノマネもしたんですよ。それで1次オーディションひっかかったんですよ。そしたら、2次の時に、新ネタあったらVTRで送ってくださいと言われて、妹とテレビ見ている時にノリで出来た宝塚のモノマネを送ったんです。それがいいねってなって、本番に行けることになって。宝塚のモノマネのネタを2本やって。2本しかなかったのに、準決勝に残ってしまって、3つ目のネタをしないといけなくなって。もうゴリラやるしかないと思って、急にゴリラやったんですよ。「え!? 急にゴリラ? 宝塚どこ行ったん?」それで、「もう1回見たいね。宝塚受けるゴリラとか見たいね」となって、急きょネタをミックスして、「ゴリラのモノマネが得意な宝塚を受ける女の子」をやったら、準優勝したんですよ。ほとんどまだ新喜劇の舞台も出てない頃だったので、「新人の女の子がとんねるずさんの番組で準優勝したらしい」って噂が広まって、何したんや? ゴリラと宝塚のモノマネってなって、新喜劇で使ってくださるようになったんです。

―舞台での初披露は?

小籔兄さんの舞台の時に、宝塚のモノマネをやらせてもらって。ゴリラのモノマネもやらせてもらいました。だんだん、川畑兄さんとかも「ゴリラやってみてくれる?」とか。新喜劇の中で使いやすいゴリラの出し方を作ってくださったり。「モノマネが得意です」とか言って出すんじゃなく、そういうフリなしで、新喜劇の中で自然に出来るやり方とかを周りの皆さんが考えてくださいました。ゴリラを新喜劇でやるというのは夢のひとつやったから。でも、自然にやりたいじゃないですか。そこのやり方は自分ではわからなかったから、ゴリラが自然に出来て、すごくうれしかったですね。

―印象に残るハプニングとかありますか?

ゴリラをやる時にお尻を突き出すんですが、その時にズボンが…裂けた。
(え~っ!?)
あはははは(大笑い)。かろうじて見えなかったんです。バリッって裂けたのが、幸い裏地だったんで。だから助かったんですけど。あと、ゴリラやっている時に、トイレットペーパーがお尻からペロペロペロ~と…。
(え~っ!!!)
はははは(笑)「なんやそれ!? なんか、ぶら下がってるぞ!」って触ったら、本物のトイレットペーパーがズボンに挟まってて。慌てて隠したんですけど。直前にトイレに行った時に、便座にVの字にして敷いたのを挟み込んでて。ゴリラのシーンやったから、メチャメチャ下品になって(笑)。鈍くさいんですよ。居酒屋に行ったら、たいがいコップこぼしちゃうんです。サラダを取り分けようとしたら、コップを倒したり。善意はあるんですよ。でも、注意力散漫で。烏川兄さんに「お前は動くな! お前が動いたら、なんか悪いことが起こるから」って。「気ぃ使わんでいい。座っとけ」っていわれるくらい。あと、謎の打ち身も。すごい青アザが出来てても、自分ではぶつけた記憶がなくて…。

―新喜劇に入って10年目になりますが。

まだ2年目の気持ち。いやや~。自分の年齢考えたら、引くもん。入ったのが遅いので。今でもいろんな人に助けてもらってます。同期やったら、(井上)安世、(金原)早苗、(前田)まみちゃんとか。ずっと仲間で悩んだことも相談し合って乗り越えてきたから。(酒井)藍ちゃんは週2くらいで泊まりに来てて、後輩やけど、私より頼りになる存在で、「こういう時はどうしたらいい?」って相談してきたし。先輩にも同期にも後輩にも相談に乗ってもらって、助けてきてもらいました。
(どんなことで?)
新喜劇で、ボケを考えてやってみたけど、「それは違う、ボケはいいけど、ボケ方がヘタクソ」って言われて。それってお芝居が下手ってことだから、落ち込んじゃうんですよ。みんなけっこう、「辞めたいと思ったことないです」とか、カッコいい話聞くけど、私はしょっ中、「もう、私やっぱり向いてない!」ってなるんですよ。もう辞めなあかんわって思うくらい落ち込んじゃって。そんな時に、励ましてもらうんです。もし辞めたら、どうやって生きて行ったらいいんやろ? どんな仕事しようといろいろ想像して、ないやん!ってことになって、ここで頑張るしかないから、頑張ろうって思うんです。
(目標は?)
やっぱり、「3枚目女優といえば森田まりこ」になれたらいいな。今、すごい女性の先輩は、お芝居も出来て、面白くて、マドンナ役も出来て…。私もいつかは…新喜劇の3枚目女優といえば、森田まりこ!って言われたいです。

―丹波篠山ふるさと大使ですね。

今も家族が一番喜んでくれてますし。最初はお父さんのところに話があったんです。「やった~! なりたい、なりたい」って。密かになりたいってずっと思ってたんです(笑)。記者会見も開いてくださったんですけど、お父さん、お母さんも一緒に来てくださいということで、一緒に新聞に載って。恥ずかしながらも喜んでました。最初の仕事は「篠山市ごみのポイ捨て禁止」のポスター。今後は「ふるさと大使」という名前でSNSとかで、丹波篠山の良さを発信していきたいと思います。

―趣味とかプライベートでハマっていることは?

ダンスは好きなので、家でも踊ってます。あと、動物が好きなので、休みがあったら、1人動物園に行きます。天王寺動物園はもちろん、京都市動物園も行くし、上野動物園も1人で行ったし。
(ツイッターにハシビロコウの写真がアップされてましたね)
ハシビロコウ好きです。でもやっぱりゴリラとかが好きで。天王寺にはいないんで、京都とか神戸の王子動物園でゴリラ見るのも好きだし。天王寺動物園だったら、やっぱりライオン見るのが好き。ライオンが乗ってる岩は、実は床暖房が入っているんですよ。だから、冬は「あの下は床暖房や~」って思いながら。動物園が出してる情報誌を読んで、豆知識を入れてるから、あれはこうなんやと思いながら、楽しんでます。黒鳥を見に行った時は、その前で誰もいないのを確認して、踊ったりしてます(笑)。ナイトZOOも行きましたし…。
(新喜劇メンバーで行くことは?)
温泉も好きなので、よく新喜劇座員といろんな温泉に行ったり、岩盤浴したり。みんなで行くのも好きなんです。バーベキューも好きやし、イベントごとも好きやし、打ち上げも好きなんですよ。でも1人でいる時もけっこう、自分にとっては大事で。1人USJも行きます。あはははは(笑)。この前も1人で行ってました。「ハリーポッター」大好きなんですよ。本も全部持っているし、DVDも全部もっているし、すごい好きなので、ハリーポッターエリアにずっといました。魔法の杖があるんですけど、それも買って。エリア内で呪文を唱えたら、魔法を使えるんです。そういうスポットに子どもたちに混じって私も並んで(笑)。でも上手く唱えないと魔法が効かないんですよ。上手く行かへん!という時は、子どもに「どうやってやるの?」「こうやってやるねん」って教えてもらいながら。子どもと一緒にハリーッポッターエリアを楽しんでます(笑)。

―子ども好きなんですね。

自分でそうやと思いました。スイミングコーチをやった時に、すっごい子どもたちと触れ合うことが楽しくて。中学校へ行った時も、年は8~9歳しか変わらないけど、めっちゃかわいかったんですよ。大好きやったし。小学校行ったときは、もうめちゃくちゃ可愛くて。子どもたちのあのパワー、一緒にいるだけで元気になれるし…。新喜劇に入るまでずっと子どもと接する仕事が多かったので、「私、たぶん、子ども好き!」って気づいたんです。
(じゃあ「こども新喜劇」ってぴったりじゃないですか)
そうなんですよ。高井兄さんに歌のお姉さんに抜擢していただいたお陰で、子どもと触れ合えるから、めっちゃ嬉しいです。かわいい子どもたちの笑顔を見れるのが嬉しいです。新喜劇の客席にもよく修学旅行とか社会見学旅行で、中学生の団体とかいるじゃないですか。あの時、テンション上がるんです私。中学生いっぱいやったら、なんか嬉しい。中学校で働いていた時のこと思い出すし。小中高生大好き!って、怖いくらい(笑)

2017年5月15日談

プロフィール

1981年2月11日兵庫県篠山市出身。
2006年8月金の卵2個目。

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