MBS(毎日放送)

第59回 もじゃ吉田

今が人生の中で、いちばん頑張り時やと思ってます。

―小さい頃からお笑いを目指されてたんですか?

学校でテレビのまねしたり、出たがりな学生でしたね。中学校では普通に勉強もして、実力テストは上の方やったんです。同級生にお笑い好きの子がいて、その子とよく文化祭とかでお笑いの出し物してて、卒業する頃には、お笑い芸人なりたいなと思って。で、親に「お笑い芸人になりたい」って言ったんですよ。そしたら、「とりあえず、高校だけは行ってくれ」と。一緒にお笑いやっていた子と同じ北海道の地元の高校へ行ったんです。一応進学校やったんですけど、僕らはお笑いをやることを決めてたので、勉強も一切やらなくなって。一気に学年400人ほどの中で、ビリくらいに成績が落ちました。そこから、そいつと一緒に大阪に来た感じです。

―北海道から大阪に出てこられたのはいつ?

高校の時にアルバイトして貯めたお金で、まず、大阪に来て、1年間、普通に住んだんです。で、ちょっと大阪に慣れて、NSCのお金も貯めて、次の年にNSCに入ったんで。だから引っ越し費用だけ、高校の時に貯めてました。
(計画性ありますね~)
いや、全然ないっすよ、ほんとに。もう1人の奴が賢い奴で、そいつがそういうから、そやな、と僕も思って。

―大阪に出てこられて、カルチャーショックは?

いっぱいありましたね~。一番デカイのは、言葉。僕、関西の人の喋りについていけない時があるんですよ。よく先輩にも「聞き直しすぎや」といわれるんですけど、関西の人の喋りが、テンポ良すぎる、というのはありますね。純粋に単語とか、言い回しもありますし。たとえば、北海道ではゴミは「投げといて」っていうんですけど、こっちは「ほかす」。物を片付けるのを「なおしといて」って言うじゃないですか。僕、最初、居酒屋で1年間バイトしたんですけど、そこでも、魚の切り身を「なおしといて」って言われたんですよ。「切り身なおす」って、どういうことや!?
(ふふふっ)
魚に戻すってことか!? しばらく、「なおしといて」ってどういうことやろ? と思って。他のバイトの子に聞いたら、「片付けといて」ということやと。方言に苦労しましたね。あと、人にも。大阪人のおばちゃんとか。今は好きですけど。
(どんなところが?)
引っ越してきたところが大阪の長居で、そこに針中野商店街があって。北海道にあんなアーケードの商店街ってないんですよ。僕の地元が田舎だったんで。入ったら、豆腐屋さんとか、肉屋さん、魚屋さんが並んでて、「すごいな~ここ」って思って。その中に、和菓子屋さんがあって、僕、和菓子好きやったんで、引っ越して、まだ1週間たってない頃、買って帰ろうかなって。おばちゃんにお団子くださいって言ったら、「大阪の子じゃないね」「はい、北海道から引っ越して来て、ひとり暮らし始めて…」と言ったら、「うちにもね~あんたくらいの息子おんねん。頑張ってるなあ、なんかあったら、いつでもおいで。ご飯食べさせてあげるから」って。うわ~これ、テレビで見てた人情のやつとまったく、一緒や!って、すっごいうれしくなって。絶対また来ようと、思ったんですよ。別に食べさせてもらうとかじゃなく。1、2週間後やったかな、「お団子ください、おばちゃん!」って行ったら、「ありがとうございます~」って普通の接客されて(苦笑)。僕、もう「この前…」と切り出すのも恥ずかしくて…。
(はははは~)
お団子普通に買って帰ったんですけど。今思えば、関西の人って、その瞬間、その瞬間、あったかい人たちで。しばらくたつと忘れてしまうんやろな~って(笑)。

―1年後にNSCに?

はい、27期です。新喜劇でいうと、諸見里(大介)とか。
(そんな遠くからはいないのでは?)
北海道は僕らだけでしたね。たいがいみんな、東で止まっちゃうので。僕ら大阪に憧れていたんで、東京の考えは一切なかったんです。あとから調べたら、東京行っといたら良かったな~というのはありました。でも、関西弁に憧れていたので。
(どうして関西弁に?)
ずっと好きやったのが、ナイティナインさんの「めちゃイケ」(CX)。あれで、ず~っと、学校とかでも矢部さんのマネしてましたね。喋り方とか。あんな仕事で食べていけたら最高やな、という甘い考えで。
(NSCに入ってからは?)
自分たちが一番面白いと思ってましたね。だから、その当時は、相方としかしゃべってなかったです。他の奴らと喋る必要ない、と。ほんとにトントン拍子で、NSCのクラス分けで一番上のAクラスに行けたんですよ。
(すごい!)
東西対抗戦みたいなので、東京に大阪NSC代表が行って、東京の代表と闘うみたいな。オリエンタルラジオが東京の代表だったんで、その時一緒に舞台立ったり。Aクラスで卒業して。仕事はしてないですけど、ええ感じなんかな~と思ってました。が、卒業した当時は、劇場がbaseよしもと、そのオーディションにひとつも受からなくて。そこで初めて挫折、ですね。もう無理やな~と思いました。それまでは、「売れるんやろな」と思ってましたけど。
(どのくらいオーディションを?)
それこそ、ずっと受けてましたし、どんどんシステムが変わっていって。僕も一緒に来た子とはもう無理やなと解散して。また組んで、解散して、また組んでの繰り返しでしたね。ほんとに何年も…8年くらいかな?
(そんなに!? すごい長い道のりですね)

―確かコンビ名はストライクでしたね。

最後はストライクで組んでましたね。ストライクの前にも組んでたコンビがあって、両方とも3年くらいですね。なかなか、それはそれで、辛かったですね。なんていうんですか、「芸人やってる」っていう感覚だけでやってました。でも周りがどんどん仕事増えていきましたから…。
(焦りは?)
ありましたよ。コンビでやってても全然結果出ないから。もう、ネタの方じゃなくて、先輩づきあいで仕事増やした方がいいのかな、とか。いろいろ悩んだりして。でもやっぱりネタがウケないから、っていうので、最後のストライクも解散するってなった時に、もう、やめよっかなって思ったんですよね。そんな時に、僕の同期で、たけだバーベキューという芸人がいるんですけど、仲良くて。その日もそいつの家で話してて、やめようかどうしようかって言っていた時に、そいつが「吉田、新喜劇とかどうなん?」って。新喜劇なあ…とちょっとイメージして、もしかしたら、何か出来るかもな~と思ったんですね。でもどうやって入るのかなあ、と調べた時に、僕、金の卵7個目なんですけど、その7個目のオーディションの締め切りが次の日だったんですよ。これ、運命やなと思って、次の日に申し込んで受けたんですよ。それが3年前ですかね。

―オーディションで印象にのこっていることは?

とにかく緊張しましたね。書類審査受かって、次の一芸披露。そこが僕、一番緊張して。集団面接みたいな感じで5人くらいが会議室に通されて、順番にみんなが一芸披露して行くんですけど。1人目が全然受けないし、次の人が「何もありません」って言うんですよ。一芸披露の2次審査で何もありません、って、どういうことやろ!?と思って。次の人が「新喜劇のズッコケします」って言ったんですよ。この人もヤバイなと思って。3回ズッコケたんですけど、みんな冷たい空気になって。実際僕も、めちゃめちゃ緊張して、ひとつも受けなくて。その時、もう落ちたな、と思ったら、3次審査来てくださいと言われて、「良かった~」と。ほんとに怖かったです。

―合格されてから、稽古を?

そうですね。芝居のレッスン、発声とかですね。4月に入団して、その年の終わりに初舞台でした。11月だったかな? ちょうど「大坂の陣」をやっていて、あれに金の卵がいっぱい出ていて、出していただいた感じですね。
(普通のデビューとはちょっと違う感じですね)
そうですね。本公演じゃなくて、夜イベントっていう。本公演の初舞台は全然イメージしてたものと違ってました。こんなちょっとのセリフでも、こんな緊張して難しいっていうのはありましたね。何より、稽古全然しないな、ウソでしょ、と。今でこそ、やっと徐々に慣れて来ましたけど。稽古場で、若手から師匠までいっぱい、座長さんも社員さんもいる、そんな中で本読み。そこから僕、メチャメチャ緊張しました。一言のセリフも言われへん、「難しいな~新喜劇」と。もちろん、今でも感じてます。

―新喜劇は北海道では放送されていなかったのでは?

やってないです。僕、大阪に来てもあんまり見てなかったんで、新喜劇のこと、あんまり知らないんです。もちろん、座員さんとかは、知ってますけど、漫才ばっかりだったので。新喜劇入ってからですね。新喜劇のことをちゃんと見るようになったのは。いざ、お芝居の中に入っていくというのがやっぱり難しかったですね。今も難しいです。どうしても漫才師の時のツッコミとか、ボケとかになってしまうんですよね。よく、川畑さんとか、皆さんにも言われますけど、「それ、漫才の時のツッコミやろ。これ、芝居やから。普段のツッコミせなあかんねん。普段、何でやねん!とかそんな言わんやろ、そこやねん」っていうのを今でも言われますし、やっぱり、ヘタクソやって思います。
(漫才をしていた間に染みついたものも…)
それしか知らないっていうか。新喜劇のツッコミだったり、芝居っていうのが、すごくあって。新喜劇の中にもいろんな役だったり、ポジションがあって、そこでもまた芝居の仕方も違うっていうのが、すごいなあという感じですね。

―印象に残っている舞台や失敗とかは?

いっぱいありますよ。いっぱいありますが、やっぱり、出とちりが一番しんどいですね。
(出とちり?)
出なきゃいけないところで、出ていかないっていう…。
(え!?)
ありえないじゃないですか。ありえないんですけど、僕、けっこうやってるんです。緊張したり、ずっとスベってたりとかしたら。辻本さんの週やったと思うんですけど、ヤクザの子分で、ずっとスベってたんです。舞台袖でずっとネタの練習してたら、僕の出音が聞こえてきて…。バッと出ていったら、もちろん遅くて、「何しとったんや! お前!」って。「すみません!」って正直に謝って。そこから辻本さんがもちろんイジってくれて、ドカン!とウケて…ああ、すごいな、と。
(出とちりする人って、あんまり聞いたことがないような)
そうなんですよ。たぶん、僕、ものすごいおっちょこちょいなんでしょうね。
(そういう性格なんですか?)
だらしない部分があるのかも知れないですね。そういうのは、新喜劇ではすごい直さなきゃいけなかったりするんです。楽屋にいるのが、それこそ、新喜劇の本番くらい大事なんですね。楽屋でいろいろネタが生まれたりとか、人間関係が構築出来るんで。劇中以外のやりとりで生まれるものが、ほんとに新喜劇に生かされるので、そういうところも大事だなあ、と。

―新喜劇のノウハウを教えてもらった先輩というのは?

今現在、一番教わっているのは川畑さんですかね。僕ら、金の卵の若い子らを集めて、新喜劇のネタレッスンをやってくださっていて。それも忙しいのに、朝早く起きていただいて。僕らのためにやっていただいているので、一番感謝しないといけないですよね。あとは身近な先輩ですね。皆さん、教えてくださいます。僕がちょっと寂しいのは、安井まさじさんがいなくなっちゃったのが。もう、新喜劇に入る前からお世話になっていたので。芝居のこと、ネタのこと、楽屋のこともそうですし。まさじさん、信濃さん、清水啓之さん…全員ですね。いい先輩たちが沢山いるのはありがたいですね。最初の頃は、男性楽屋やったら、まず、朝早く来て、「パフを洗う」。パフを洗う? 化粧の? ドーラン塗る時のあれか? 新喜劇に入る前は使ったこともないですから、どうやって洗うんですか? というのをLINEのグループで共有したりとか。もちろん、女性楽屋なんて男性楽屋の何倍も仕事ありますから、同期の間で情報共有してましたね。今の時代で良かったな、と(笑)。

―覚えられやすい芸名ですが、新喜劇に入ってから?

実はこれは違うんです。ストライク時代の後半に変えたんです。これ、たむらけんじさんにつけていただいたんです。僕、たむけんさんにお世話になったんですけど、ずっとあだ名で「もじゃ、もじゃ」って呼ばれてて。たむらさんに「せやねん!」(MBS)のスタジオに連れて行ってもらった時に、やすえ姉さんとかにお会いして。そしたら次に会った時にやすえ姉さんから「あ、もじゃ」と言ってもらったんですよ。1回しか会ったことないのに。「これ、覚えてもらえるな」と思って、たむらさんに何にも言わずに勝手に「もじゃ吉田」って変えて。その頃、毎日のようにたむらさんとご飯行ってて、次の日にもご飯に行った時に、初めて会う人に「もじゃ吉田です」って自己紹介したら、「お前、名前変えたんか?」って。まずその人たちに言ったから、「勝手に変えよった。まず、俺やろ」って怒られました。

―片岡愛之助さんのブログにも載ってましたね。

あははは。そうなんです。何の縁か、僕がバイトしてる餃子屋に愛之助さんが食べに来られてて。「探偵!ナイトスクープ」(ABC)にたむらさんが出られた時に、愛之助さんがゲストで、どこにご飯食べに行ってるんですか? という雑談で、「そこ、僕の後輩いてますわ」っていう話になったらしいです。その後に愛之助さんが来てくれて、「たむらさんに聞きました」。えげつないくらい、気さくな方で。ほんとにあのまんまなんですよ。「写真撮りましょうよ」って写真撮ってもらって。「ブログに載せていいですか?」「是非載せて下さい!!」って。「半沢直樹」(TBS)が終わってちょっとしたぐらいの時で、僕ずっと見てましたから、「うわ~」と思って。いろんな方々から「載ってたよ!」って言われました。

―その頭、かなりインパクトあると思うんですが、ギャグとかは?

そうですね~。何かこれを使って、舞台からハケる時とかにやらせてもらったりしてるんですけど、ま、アフロカツラを取るだけじゃなく、ヤクザで出てきた時に何かやるとか。それこそ帯谷さんのポットじゃないですけど、金ダワシとか、綿ぼこりとか、何かあると思うんで考えていけたら。もちろん、普通のネタも考えて行きたいと思います。
(ぜひ、舞台数も踏んで…)
とにかく今はNGKに出たいです。前の年は10回も出れなくて、どうしようかな~と考えていた時に、川畑さんの芝居のレッスンが始まって。そっから、ちょっと増えてきて、(出番が)倍になったんですね。今年入ってからも結構たくさん出させていただいて。ありがたいですね。どんどんNGK出て、テレビにも出させていただいて、いろんな方に教えていただきたいですね。
(この先、やって行きたいことは?)
今は来る仕事を一生懸命やることですが、僕は漫才の時もずっとツッコミをしてたので、やっぱり回しというか、話を進行させて、ツッコんで行ってというところに行きたいと思ってまして…まずはそこへ行きたいですね。

―北海道の方ではふるさと大使に?

僕の生まれ故郷の滝川市のふるさと大使をやらせてもらっているんですけど…。地元で新喜劇したいですね~。
(北海道新喜劇?)
北海道で何かしたいですね。絶対ウケるはずやし。北海道ってけっこう大阪の番組を放送しているんで。僕、中学、高校の頃は「吉本超合金」(テレビ大阪)ずっと見てましたし。北海道は絶対、新喜劇いけると思うんですよね~。
(ふるさと大使にお父さん、お母さんは?)
いや~これがね、喜んでくれてるんですよ。やっぱり。いろんな人に「吉田さんとこの息子さんですよね」と言われるんで。ありがたいです。やっと、ちょこっとだけ、錦を飾れたかな、と。まだ自立も出来てないですけど。

―今、趣味とかプライベートでハマっていることは?

今、新喜劇の仕事とバイトで毎日が過ぎて行ってます。空いた時間は家族ですね。僕、結婚してまして、子どもも2人いるんで、家族に時間使ってますね。
(新喜劇に入る時に結婚なさったとか)
入団した年の1月に結婚して、子どもが生まれて。子宝ってあるんやなと思いましたね。仕事も決まって。
(頑張らないとダメですね)
ほんとに今、頑張らないと。芸人してきて、人生で何不自由なく生きて来たんですよ。家も一人っ子で。親にも大事にしてもらいましたし、好きなことやって。漫才では売れなかったですけど。バイトしながらやって来て、新喜劇に入って家族も出来て。新喜劇も頑張らなあかん、家族もってなって。今、新喜劇の仕事をちょこちょこいただくようになって、バイトも出来ないし、お金もないし。今が人生で一番苦労してる時期ですね。地獄のような毎日を。今日も3回新喜劇出て、終わってから、朝まで餃子屋でバイトとか。そんなん、毎日してますね。今、人生で一番しんどいですよ。でも、今までのお笑い人生の中で、一番お笑いの仕事貰ってるんで。ここでちょっと頑張らないとと思ってます。

2017年4月10日談

プロフィール

1985年2月18日北海道滝川市出身。
2003年NSC大阪校27期生。
2014年金の卵7個目。

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