MBS(毎日放送)

第32回 青野敏行

やっぱり芝居が好きなんです。

―この世界に入られたきっかけを教えてください。

私は小さい時からおじいちゃん子でね、家で時代劇ばっかり見てたんですよ。野球は一切見ない。未だに野球音痴です。小学校3年くらいやったかな、「巨人の星」というすごい野球漫画が流行って、同級生は野球、野球でね。でも僕は物心つく前から見さされていたから、時代劇が好きなんですよ。おじいちゃんから、戦争の話とか昭和初期の話ばっかり聞いてたもんですから、子どもの時から年寄りとよく気が合いまして、中2の時についたあだ名が「おじん」でした。中2の時にブルース・リーの「燃えよドラゴン」(1973年)が上映されて虜になりましてね。空手をやろうと思ったんですけど、田舎に道場がなくて。「空手バカ一代」(原作:梶原一騎)という漫画に、ブルース・リーが学んだ武術の中に極真空手があったので、極真を習おうと捜したんですけど、僕の住んでいた愛媛県今治市にはなかったんです。が、漫画を見てたら、主人公のモデルとなった大山倍達という人がやっている「マス大山カラテスクール」という空手の通信教育があって…。
(あったんですね!)
岡八郎師匠のネタやないですけど、ほんとにあるんです。それで、空手の通信教育を高校3年間やりました。でもその間もずっと時代劇が好きで…(笑)。

―筋金入りの時代劇ファンですね。

僕が高校の3年の時に東映の「柳生一族の陰謀」(1978年)という時代劇映画が出来ました。時代劇映画の全盛期というのは昭和35年(1960年)くらいまでで、それからは任侠映画か実録もののヤクザ映画。どこの映画会社も時代劇なんか作ってなかった時に、東映が時代劇映画を復興させようと、12年ぶりに製作したもので、大ヒットしましてね。僕も感化されました。もともと映画も好きで、お芝居が好きやったんですよ。当時は年間300本ほど観てましたね。田舎は、都会みたいなロードショーじゃなくて、大体3本立てとか2本立て。毎週日曜日に映画好きの友達と見に行ってました。当時、映画の専門誌があって、僕は「ロードショー」派やったんですけど、毎年付録につく映画手帳に映画の批評を書いたり点数つけたりするのが楽しくてね。

―映像の世界がお好きだったんですね。

僕はとにかく、映画に出たかった。で、芝居をやりたくて。高校の時は一時、警察官になりたいとか言うてたんですけど、「柳生一族の陰謀」を見てから、やっぱり時代劇や、時代劇復興のために頑張ろうと。それで演劇の学校へ行ったんです。当時、神奈川県の川崎市にあった多摩美術大学の姉妹校の多摩芸術学園です。在学中に東映のオーディションがありまして、当時、週刊平凡パンチに連載されていた「喧嘩道」という劇画の映画化で、高校生の不良グループの話なんですが、一般公募で6700人受けたんです。それに合格したんです。主役3人、準主役3人のうちの6番目に、やっと(笑)。ギリギリ入れたんです。
(すごいじゃないですか! 1000倍ですよね?)
書類審査を経て東映の撮影所に集まったのが200人くらいですかね。セリフテストとかあって。僕は昔からこういうオーディションというのは、コネとがあって通るんだろう、あかんやろと思ってたんです。何の知り合いもなかったのに通りました。東映の俳優センターの所属になりまして、当時、渡瀬恒彦さん、志賀勝さん、川谷拓三さんとかがおられました。映画も「喧嘩道」のほかに永島敏行さんの「わが青春のイレブン」というサッカーの映画に不良グループの1人で出たんですけど。後は時代劇の斬られ役でいわゆる大部屋でしたね。2年くらいやって、仕事がなくなって、酒屋でアルバイトしてたんですが、どうしようもなくなって、一旦四国へ帰ったんです。

―厳しい世界ですね。

演劇の学校でも受けようかと思ってたところに、僕の同級生で横山たかし・ひろしさんのひろし師匠の甥っ子がいて、その同級生は大阪に車のセールスマンで就職したんですが、「どないしてる?」と電話がありまして。「今、おじさんのかばん持ちやってる」「え? 辞めたんか」「お笑いやろうかと思って。お前もやれへんか?」と。「でも芝居が好きやし」「芝居なんか一山なんぼや、漫才やったら舞台に2人で主役やぞ!」と言われて、軽い気持ちで、芸能界に残れるんやったらいいか、と再度出てきました。で、たかし・ひろし師匠のかばん持ちもちょっとやってたんです。ところが、師匠方は松竹芸能ですが、「若い子は吉本に行け」ということで、チャンバラ師匠を紹介してもらったんですよ。あそこは荷物が多いから弟子を捜しているからと。よくよく考えると、チャンバラの師匠は東映の時代劇全盛時代に剣会(つるぎかい)というところで斬られ役でいてはった。辞めてコントの世界でしょ、俺も似たような位置やなあ、と思って。ま、やってみようかと思って、弟子入りをしました。それが20歳の時ですかね。
(まだ20歳…)
それで1、2年おったかなあ。その間に当時、「TVジョッキー」(日本テレビ)に「ザ・チャレンジ」というコーナーがあって、毎週勝ち抜いて、チャンピオン大会とかあるんですけど、初代チャンピオンが高校生やったとんねるずの石橋君。2代目か3代目のチャンピオンが木梨君で。一緒でしたが、負けました。仲良く喫茶店で話したのを覚えてます。「笑ってる場合ですよ!」(フジテレビ)にも出ました。当時は弟子についたら3年辛抱せなあかんと言われてたんですが、師匠が、「この時期、3年辛抱してたら遅い。素人として素人番組に出て行け」と言われて出てたんです。
(当時はどんなモノマネを?)
一番受けたのは、「ルックルックこんにちは」(日本テレビ)の中の世相講談というコーナーの竹村健一さん。毛糸で髪の毛作って眼鏡かけてパイプ持って、「だいたいやね、なんで私がこんなとこにおるんかというと…」みたいな口調でやってました。でも2人の漫才は続かなかった。

―何があったんですか?

漫才師としての初舞台は名古屋の大須演芸場なんです。楽屋で寝泊りするんですが、じめじめして空気が悪い。僕はもともとちょっとノドが弱いんで、扁桃腺になりましてね、熱が出る。でも契約で10日間行ってる間は舞台を勤めなあかん。毎日毎日、しんどいしんどい状態で、いいネタも出来ない。そこでいろいろ喧嘩になって。なんでこんな苦しい思いして俺らやってるんや、そんな金にもならんのにと思いながら。そこで1回挫折したんです。
(早くも…)
2回目に(大須へ)行った時ですかね。で、師匠に「すみません!」とウソついて。親父が電気屋だったんで、電柱から落ちて半身不随になった、言うて。
(ええ~!!)
長男やから跡を継がなあかん、帰らなあかん、と大嘘ついて。「そうか…仕方ないな。志半ばで…わかった。そんな事情ならしょうがない」ということで、餞別までいただいて。「うわ~どないしよう」と思ったけど、後へも引かれへんし。1回辞めたんです。でも手に職もないし、学校も出てない。で、ある人に相談したら、バーテンダーになるか、調理師免許でも取って板前にでもなったらどうやろと。それで1年間調理師学校へ行って、調理師免許を取って、高校時代の同級生のおじさんがやっていた大きな中華料理屋を紹介してもらいました。当時その支店が四国の高松、丸亀にもあって、丸亀に配属になり、4年やってました。寮生活ですから、毎晩飲み歩いているうちに居酒屋とかラウンジやらやっているある社長と知り合いまして。その社長が「青ちゃん今度な、中華料理屋やろうと思ってんねん。来てくれへんか? 今なんぼもろてんねん?」。当時給料が11万。大きな会社ですからボーナスもあるし、毎年給料も上がるんです。
(いい感じですよね)
いいんですけど、目先の金ですわ。「そんなら15万出すわ」「わかりました、行きましょう」で、引き抜かれて行った店が半年でつぶれてしまって。はあ~と。それが26歳の時です。でもまあ、しょうがない。実家へ帰ってラーメン屋でもやろうかと思っていたところへ、別のコンビを組んでた以前の相方から、解散したと連絡があったんです。「お前どうしてる?」「俺も店つぶれて田舎へ帰ろうと思ってる」「もう1回やれへんか」と言われて。その時に、デビュー当時から仲良かったちゃらんぽらんの冨好君が、「もういっぺんやってみたらどうや? 大阪で。一回志したことやし」と、えらい説得されまして。で、また出てきました、大阪へ。師匠に頭下げて。実はウソでした、申し訳ないって。
(それは勇気がいりますね)
「もう1回、1からお願いします」「わかった。今度はケツ割らんと頑張れよ」ということで、漫才をまた組み直しました。その時は「ポテトフライ」っていう名前でした。さすがにおふくろからは止められましたが、おじいちゃんが、「男やからやらせたれ。1年でどうにもならんかったら帰って来いよ」ということで。1年、何とか頑張って、NHKの新人漫才コンクールで賞をいただきました。そこから頑張れ、頑張れということになったんです。その番組は愛媛県の方では放送されなかったんですが、田舎から出てきた2人が賞取ったということで、NHKの計らいで愛媛でも放送されました。みんな大喜びでしたね。でも、それから4年。また続かなかったですね。やっぱり芝居が好きでしたね。

―それからは?

解散してから1人でいろいろ活動させてもらってました。「ワイドYOU」(MBSテレビ)の再現ドラマとか、「小枝王国」(ABCテレビ)という夜中の番組で、いろんな地方にバスで行ったり、サンテレビの「大人の絵本」とか。その仕事もどんどん減っていって、いよいよ37歳の時に何も仕事がなくなって、どうしよう? と。配送センターへアルバイトに行ってたんですが、こんなことじゃどうにもならんな、と。吉本辞めたって、何をする話もない。吉本で芝居をやるんやったら、新喜劇かな、と。それまでもちょこちょこ、新喜劇やれへんか?というお話はいただいてたんです。それをいろんなレギュラーもあったので、お断りしてたんです。虫のいい話ですわ。ほんとに仕事がなくて、頭を下げて「新喜劇入れてもらえませんか?」と。ちょうどその時に、新喜劇の全国放送が木曜日のゴールデンにあって。
(「超! よしもと新喜劇」(97年10月~98年3月)ですね!)
座員が東京に行く時やったんです。で、大阪の新喜劇が手薄になる。そんな時で、タイミングよく「お~入り入り。やってくれ、やってくれ」で、新喜劇に入れていただきました。今18年目になりましたね。

―青野さんにとっての新喜劇とは?

そりゃあ、もう生活の糧ですね。吉本新喜劇って他の劇団とは異質の劇団ですからね。いろいろ方程式のようなルールがいっぱいあって。まだまだ自分ではセンスないな、と。「あ、そうか!」、ということがいまだにありますね。
(その方程式をひとつ教えていただけますか?)
ギャグでコケるというのがありますけど、繰り返しのギャグというか、一人が言うと次の人も同じことを言って、で、「お前もかい!」とツッコむ。それを振られたのに、忘れてる時がありますね。「言わへんのかい!」と言われてしまうことが。舞台に出てない時も、常に袖から見てないといけない。何かアクシデントがあったら、それをなぞって出て行ったりとか。ライブですね。新喜劇というのはそういうとこが面白さやと思いますね。笑いにとにかくがめつい。ひとつでも、ちょっとしたことでも笑いにつなげていく。こんなの世界中探してもないですよ。わかってて笑うでしょ。ギャグがわかってんのに。あれ、何ですかね。手を叩きながら「わ~言うた、言うた~」。そんなん、ないですよ。そこが吉本新喜劇のすごいことやと思いますね。ああいうギャグをちりばめながら物語が運んで行く。単純な話ですけど。新喜劇って次こう来るというのがわかるでしょ。そういう楽しみですよね。すごい劇団やと思いますね。昔、白木みのるさんも出てはったんですが、その白木先生と懇意にさせてもらっていて、新喜劇に入るというと「青ちゃんなあ、やっぱり吉本新喜劇はギャグやぞ。ギャグが何かないとな。普通の芝居やないからな」と言われてましたね。

―青野さんのギャグというのは?

最近やってないですけど、時代劇を基調にした、片岡千恵蔵さんの「遠山の金さん」とかですね。あの方の金さんを最初に見たから、後から誰がやろうが、遠山金四郎は片岡千恵蔵という頭しかないんですよ。あのしゃべり口調が好きでね、何を言うてるのかわからん(笑)。あれを出来へんかな、と思って。普通に説得する時でも「こんなことでこれから生きていけると思うの◎×◆~!」「何いうてるのかわかれへんがな」と。ほかにヤクザ者が去り際に時代劇の口調で、「それじゃ、ご一党さん、あっしはこれで失礼さんにござんす。まっぴら御免なすって」とかね。まあ、自己満足ですけどね(笑)。ほんまにギャグってないですわ。

―新喜劇のやりがいは?

喜劇は、見るのは好きでしたけど、自分でやろうとは思わなかった。芝居がやりたかった。実際関わってやってみると、お客さんに笑って帰っていただくという演者の快感は、いいもんですよね。以前、京都花月で漫才をやっていた頃の話ですが、一番前の席に母子連れがいらして、終わってから、お母さんがわざわざ僕らの楽屋まで来られたんです。僕らの漫才見て、「この子が生まれて初めて笑ったんです」と言われた。障害のあるお子さんだったんです。涙が出てくるくらい嬉しかった。こういう仕事していて良かったなと思いました。お笑いってそういうとこがあるんですよね。いろんな辛い哀しいことが世間にいっぱいあって、人それぞれ持ってはると思うんですけど、ひと時だけでも忘れてね、腹を抱えて笑って。また現実はあるんですけど、少しホッと出来る場所を提供できてる。偉そうなこと言うようですが、いい仕事やなと思いますね。ほかのお芝居とかもドラマとか映画とかもそうですけど、娯楽というのは大衆のもんやと思いますわ。いい商売やと思います。あんまり儲かれへんけど(笑)。

―これからやって行きたいことは?

やっぱり時代劇が好きですから、いろんなツテで大衆演劇にも出していただいたりしてます。個人的には、昔、吉本にいたミモ・ファルスというトリオの岡田(和幸)君が座長の劇団まげもんで、年に2回、「よいではないか」というタイトルの時代劇コメディーをやってます。この11月にもやります。あと「大奥」にも出ました。これからも時代劇になんとか関わって行きたいですね。
(ご自身がやりたい役はありますか?)
僕はね、ほんとは大舞台で大石内蔵助をやりたいんです。忠臣蔵を(笑)。夢なんです。忠臣蔵、大好きでね。小学校の謝恩会の時にも、僕が「刃傷松の廊下」やりましょう、と提案して…。
(小学校の時に!?)
周りは何やわかれへん。知らんのか! と思って、自分で台本まで書いたんです。結局みんな知らんと言って通らなかったんですが…。赤穂には何度も行きました。仕事でも僕がそんなんが好きやということで、ワイドショーで1回、義士祭の中継に大石内蔵助の衣装で行かせてもらったことがあります。東京へ仕事に行くと必ず泉岳寺に線香上げに行くんです。忠臣蔵をもとに架空の人物を主人公にした、三波春夫さんの「俵星玄蕃(たわらぼしげんば)」という歌謡浪曲があって、8分23秒あるんですが、余興とか、お祝いの席でやりますね。忠臣蔵の話は本当に大好きで、いろいろ研究したりもしてます。
(ちなみに青野さんにとっての、大石内蔵助は誰ですか?)
僕は、一番というのは…片岡千恵蔵かなあ。
(片岡千恵蔵好きですね~)
市川歌右衛門もあるんですよ。「赤穂城断絶」で萬屋錦之介もやったんですけど、やっぱりね貫禄というか。「大菩薩峠」とかね…(時代劇の話がず~っと続く…)。

2015年8月24日談

プロフィール

1960年3月5日愛媛県今治市出身。

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