ある町に医者の父親とあかねという名の女の子が二人だけで暮らす家がありました。
あかねの母親は、彼女が生まれてからも身だしなみに気をつけ、華やかではないけれど慎ましやかな美しさを持った女性でした。あかねは、そんな母親が自慢でした。鏡台の前に座らせてもらって髪の毛を梳してもらうときなど、大好きなお母さんから美しさをもらっているようで、心の底から幸せな気持ちになりました。
 ところが、母親は不治の病にかかり、闘病生活の末に亡くなってしまいます。
母親が死ぬ間際、あかねは夢なのか現なのかわからない恐ろしい体験をします。夜中に目を覚ますと、その部屋に布袋をかぶった女が立っていて、彼女を殺そうと襲いかかってくる、という体験です。何より恐ろしかったのは、その女の人差し指に見慣れた指輪がはめられていた、ということです。その指輪は、お母さんの結婚指輪でした。
 母親の死後、あかねは気丈に振る舞っていましたが、本当は母親が恋しくてたまりません。お父さんがいない時を見計らって、彼女はそっと家の蔵に入ります。そこには、お母さんの荷物がしまわれていたからです。
お母さんの鏡台の前に座って、お母さんの櫛で髪の毛と梳かすと、お母さんがすぐ近くにいるような気がして、少しだけ寂しくなくなります。
鏡台の引き出しには、化粧品や櫛などの他に、わずかながら指輪やネックレスなどの装具品が入っていました。お母さんが死んでから、そこに新たに加わったものが二つありました。
一つは、お母さんの結婚指輪でした。それを見るたびに、お母さんそのもののような気がします。それはとても大きなものに包まれているような安心感でした。けれど、どこかにほんの少し怖い気持ちもありました。
もう一つは、指輪の箱の底に敷かれたビロードをめくったところに入っていた、小指の爪くらいの大きさの黒くて光沢のある歯のようなものでした。

 ある日、お父さんが一人の女性を連れてきました。あかねはすぐに、新しいお母さんになる人だとわかりました。その人は、えりこさんと言いました。あかねはお母さんのことが忘れられませんが、でもえりこさんも悪い人ではありません。お父さんが幸せになるのなら、それの方が良いと思っていました。
えりこさんは、たびたび家に来ては、おいしい夕食を用意したり、食べたこともないようなお菓子を作ってくれたり、きれいな花を飾ってくれたりします。あかねも好印象を持っていました。やがて、お父さんはえりこさんと再婚しました。
 ある日のこと、あかねが家に帰ると蔵の入り口が開いていました。そっと中を覗き込むと、何か荷物を取りに来た様子のえりこさんが、鏡台の前でお母さんの指輪を見ていました。
あかねは強い衝撃を受けました。まるで、えりこさんがお母さんを弄んでいるように感じたのです。
お母さんを守らないといけない。そう考えたあかねは、えりこさんから指輪の箱を奪い取ると、それを自分の部屋に隠しました。
それを知ったお父さんは顔色を変えてあかねに迫りました。
「あの指輪の箱をどこにやった?」
それは、今まで見たこともないような怖い顔でした。
えりこさんに、お母さんの結婚指輪を渡すつもりだ。
あかねは急いで部屋に戻りました。その後をお父さんが追ってきました。
「何とかお母さんを守らないと!」
あかねは必死でした。
お父さんがやって来る前に、箱を開けて、結婚指輪ともう一つ、あの歯のようなものを口の中に隠しました。
部屋に入ってきたお父さんは、ものすごい剣幕であかねを問い詰めます。
「この中のものはどこにやった?」
けれど、あかねは何も言いません。何も言わないどころか、固く口を閉じたままです。やがて、お父さんは不自然なことに気づきます。
「まさか、口の中に……!」
必死にお母さんを守ろうとするあかねは、口を開かせようとするお父さんに抵抗して、とうとう口の中のものを呑み込んでしまいました。
「ああ……!」
お父さんが、今までどこでも聞いたことのないような大きな悲嘆の声を上げて崩れ落ちました。

 それから一週間、あかねは高い熱を出して寝込んでしまいます。
その治療をしながら、お父さんは彼女の口の中を調べます。そして小さく呟くのでした。
「生えてない……」
やがてあかねは熱も下がり、起き上がれるようになりました。
 ある満月の晩、お父さんは恐怖におののく悲鳴を聞いて起き上がりました。見ると、隣の布団は血だらけで、その脇に血まみれ包丁を持った布袋をかぶった子供が立っていました。お父さんは、すぐにそれがあかねだとわかりました。
「生えてしまったか……」
お父さんは、血まみれのあかねを前に泣き崩れました。
お父さんは、この現象の正体を知っていました。実は、あかねのお母さんは、不治の病ではなく、この歯に取り憑かれていたのです。口の中に呪いの黒い歯が生えてくると、何か恐ろしい者に取り憑かれてしまうのです。お母さんに取り憑いた者は、彼女の体を使って恐ろしい祟りを引き起こしていました。お母さんは、自分が自分のものでなくなっていく恐怖に気も狂いそうでした。やがて、お母さんは、布袋で顔を隠し、自分の子供を殺そうとします。
その衝動を何とか抑えた彼女は、泣きながらお父さんに哀願しました。
「殺して……。お願いだから、私を殺して……!」
その苦しみを知ったお父さんは、お母さんを死なせてやったのです。
けれど、妻に続いて娘まで……!

 その後、この父娘がどうなったのか、わかりません。
お父さんは、あかねの黒い歯を抜いたのでしょうか? それとも、そのまま殺してしまったのでしょうか?
今でも、この家には苦しみながら彷徨うあかねの霊が出るということです。


生えていない……、生えていない……、黒い歯は……生えていない……
それは、死んだお父さんの魂の叫びです。
どうか、その口の中に指を入れて、そこに歯があるかどうか、確かめてきてください。