京都 町家 徒然散歩


かつて応仁の乱に山名宗全が陣をかまえたことから発した西陣。織物の町として栄えたこの町も、着物離れ・職人の高齢化などから少しずつ過疎化が進んでいました。そんな中、1995年に"ネットワーク西陣"という組織が発足しました。空き町家や空き工場の有効活用を促進する事が目的のグループでした。その活動をきっかけに、多くのアーティスト達が職住一体の機能(LIVE & WORK)を持った町家に興味を示し入居を始めました。その数は130件以上にも至り、彼らの作品展が開催されました。その活動はやがてニューヨーク州ピークスキル市との交流に発展し、現在は住民レベルでの国際交流にまで至っています。
その活動の火付け役となったのが、佐野充照さんと、その相棒のフリーカメラマン小針剛さんでした。
佐野充照さんに、それらの活動を通して入居したアーティストの活動やエピソード、町の風景などを織り交ぜて、お話を聞いていきたいと思います。

 第6回『空き町家 第一号の入居』



改修前


改修後

私の空き町家情報によって、そそのかされた小針剛は、2ヶ月かかって、空家を約100軒見つけて来た。その間、見かけない不審者に間違われ、次ぎには、よく見かける不審者に変わり、そして、不便な町家に住みたい変わり者と認識され、最後には、「大家さんはなあ、000さんや」とやっと教えてもらえる間柄になった。そして、家主に辿り着いたのが、約30軒。その内、貸してもいいかなと話し合いのテーブルについてくれたのは、たったの3軒だった。
その3軒のうちから、選ぶのだから、選択肢は非常に狭い。
ここで相談されたわたしは、できるだけ、伝統的な町家で、なおかつ、どのように改造してもOKな物件を薦めたのである。

薦めただけで、実際住むのは、彼である。改築費用を少し援助したが、実際に、労働力を提供したのは、彼と彼の弟であった。

最初に入って驚いたのは、土間に草が生えていることだった。居間や表の間は、畳がぶよぶよしていて、根太が腐っていた。雨漏りは当たり前、蔦がからみ合って向こうが見えない裏庭。

大家さんが、彼を案内しながら、「おたく、ほんまに住むつもりですか?」と、不審なまなざしでつぶやいたというエピソードがある。
彼も「住みます」といったが、嫁さんには、ある程度、形が整うまで、見せなかった。
最初に見せたら、いやがられるだろうと思ったらしいが、まあ、それほど、大変な物件であった。

私は、彼がその時のことを人に語るのを聞いていると、誇張ではないことが理解できる。裏庭の掃除で、1メートル進むのに1時間かかったというエピソードは、現場を見た人でないと、理解できないだろう。

ゴミだけで2トントラック4台分。裏庭の掃除、シロアリや雨で腐った柱や根太の取り替え。屋根の修理、瓦の差し換え、土間にコンクリートをうつため、ミキサー車から一輪車で往復すること100回。その他、数え上げたらキリがないほどの労働力を費やした廃屋。

こういうと大家さんに対して失礼にあたるが、人が住まないと、すぐにこのような状態になってしまうのが、放置町家の辿る道なのである。

その時の記念に、太い蔦でつくったオブジェが玄関に飾ってある。いや、あった。それは、私の作品でもある、このオブジェは、当時を思い出す貴重な代物である。

そして、彼と私は、表の間をレトロ雑貨のお店にした。お店の看板にと、白いギターを屋根に上げ、大きな紙を切るまな板に大津絵のような絵を描いて、それもディスプレーにした。それが、目立ったようで、「あ、あの白いギターの家」と、みんなが気づいてくれるようになった。

彼の本業は、カメラマンである。しかし、日本舞踊などの白化粧も手掛ける。その縁から、本格的な舞妓さんに変身できる舞妓変身処も営業している。

西陣に移って来てからは、カメラマンの腕を見込まれて、帯びの写真も撮るようになった。

それまで、彼には、無縁だった織物、わたしにとっても、西陣に住んでいながら、無縁に等しかった織物業や近所の人々、そういう人たちとの関わりが増えることによって、どんどん私と彼のコミュニティーが広がってゆくことになる。

記:佐野充照

■佐野充照(さの じゅうしょう)
法華宗僧侶。本門法華宗妙蓮寺塔頭円常院住職。
住職の仕事をするかたわら、「町家倶楽部ネットワーク」の代表としても京都の町家
を活用していく取り組みをおこなっている。

人と人、人とモノ、人とまちを結ぶ仲人「町家倶楽部ネットワーク」
http://www.machiya.or.jp


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