柏木 宏之Photo

柏木 宏之アナウンサーのブログ

柏木宏之学芸員の『話の展示室』

更新:2017年1月5日
柏木宏之の世界『織田信長を考える 2』

信長さんの人物像を幼少の吉法師の時代から順に追うなら、様々な本も出ていますし、映画やドラマにもなっていますから、私は信長最後の城、安土城から分析したいと考えました。

 安土城跡という遺跡は滋賀県近江八幡市安土町にある、それほど高くない丘のような山にあります。すぐそばにはもっと標高の高い立派な山城が築けそうな山もあるのに、どうして信長は低い方の安土山を選んだのでしょうか?
それは、安土山が当時は琵琶湖の西湖に山の三分の一以上が突き出ていたという事が理由かもしれません。しかし、それだけの理由でしょうか?
この疑問を解くためには、現場を取材しなければなりません。
さっそく安土城跡に出向きました。
現場付近に行ってみると、どれが安土山やら、景色を見ただけではわかりません。それぐらい平凡な低い丘のような山でした。


大手口からまっすぐ続くゴロゴロした石段が大手筋だそうで、ここで私は「おや?」と違和感を持ちました。
戦国時代の末期に築城された信長の城にしては、あまりにも無防備なのに驚きます。普通なら攻め込まれても迎撃しやすいように複雑に本丸へのアプローチを造るはずなのですが、約130mばかりまっすぐな広い階段が続くのです。
その両側には「伝 羽柴秀吉邸」「伝 前田利家邸」などがあってがっちり守っていたような配置ですが、とても軍勢を入れて防御戦を行う意思が感じられません。しかもこの時代の羽柴秀吉は長浜城主ですし、前田利家は越前にいたはずです。つまりこの邸宅跡が本当に彼らの物であったにしても、これは安土城に登城するときの支度屋敷のようなものではなかったでしょうか?
しかし、織田軍団は有能な家臣を軍団長に任命してそれぞれに与力しながら戦うという軍制ですから、城内の入り口付近に有力な軍団長に屋敷を構えさせて従えるというのは、いかにも信長らしい設計かなとも思います。

 結構な疲労感と共に巨石の階段を上り続けます。
すると「黒金門跡」にたどり着き、さらに登ると本丸の広いエリアに到着します。そこには御殿があったようで、礎石が多く整然と並んでいます。
驚いたことに、その建物を復元してみると、間取りが京都御所の清涼殿にそっくりだそうで、信長はここに天皇を迎えるつもりだったことがわかります。
そしてその御殿よりもはるかに高い所に安土城天主が聳えていたのです。

 普通、城郭の大櫓を「天守」と書きますが、安土城だけは「天主」と書きます。これも信長の心中を察するには重要なファクターかもしれません。

安土城天主跡礎石群

つづく

更新:2016年12月26日
柏木宏之の世界『織田信長を考える 1』

 少し時代を変えまして、中世戦国時代末期に今回は参りましょう。
誰でも知っている「織田信長」という人は明らかに実在の人物です。
皆さんは、この人にどんな印象を持っているでしょうか?
 ○戦国末期の英雄
 ○鳴かぬなら殺してしまえホトトギスという性格
 ○ワンマンで傍若無人な武将
 ○すぐに家来をお手打ちにするような怖い人
 ○キレやすく癇癪を起すと手の付けられない残酷な人
などなど、さまざまでしょうか。
今回は、少し時間をかけて「織田信長」という人を考えてみたいと思います。

 さて、いろいろな小説やドラマ、映画、漫画に織田信長は登場しますから、真実の信長像はわからなくなっているとも言えるでしょう。
そこで、私は太田牛一(おおたぎゅういち)という信長の側近が、ほぼリアルタイムに書き残したと言われる『信長公記(しんちょうこうき)』を参考に考えてみました。

 信長は天文三年(1534)に織田信秀と土田御前の間に生まれます。
幼名は吉法師。後に元服をして織田三郎信長と名乗ります。
で、そもそも織田家とはどんな家だったのでしょう?正式には「織田弾正忠家」といいます。
室町幕府の統治下は各地に管領(かんれい)や守護を置きました。尾張の守護大名は斯波(しば)氏で、その下の守護代に織田家がありました。そしてその織田家には本家と分家があります。分家には三家の奉行家が仕えます。
信長の家は、その三奉行の一家の弾正忠家にすぎませんでした。
その弾正忠家がメキメキと頭角を現し、上位にいる織田家の本家と分家を倒し、斯波氏を追い抜いて尾張の大名になるのです。
つまり下剋上で成り上がった、正真正銘の「戦国大名」の家なのです。

 猜疑心が強く、家来にとってはこれほど仕えにくい主君はいないかのように伝わる信長ですが、本当にそんな人だったのでしょうか?
今回は、織田信長という人物について考えてみましょう!

つづく

更新:2016年10月12日
柏木宏之の世界『蘇我氏を考える12』

では、蘇我本宗家が滅ぼされて、なにがどう変わったでしょうか?

まず、京(みやこ)を飛鳥から難波に遷都しました。そして「大化の改新の詔」で時代が変わったことを高らかに宣言し、元号「大化」を初めて使いました。
公地公民令と班田収受の法を実施して、律令体制を始めようとします。
時代は大きく変わったと言えます。

しかし、支配体制はどうだったでしょうか?
孝徳天皇−中大兄皇子−中臣鎌足(藤原鎌足)という構造です。
政治の指令は鎌足が作成し、中大兄皇子から孝徳天皇に示されて詔とされるのです。
つまり最大の支配者は鎌足とそのスタッフだったという事です。
これは、蘇我氏の立場に鎌足らが変わったというだけの変化になります。
と、言うよりも、支配者が変わっただけだと言えるでしょう。

孝徳朝になって変わった部分も先ほど述べたように色々ありますが、最も大きく変わったのは、実は外交方針でした。
蘇我氏は馬子の時代までは「百済国支援方針」でしたが、蝦夷と入鹿の時代になると、勢力拡大が著しい新羅とも外交を結ぼうという、全方位外交に方針転換されます。
朝鮮半島では、新羅が百済をどんどん攻めて優勢です。百済は大和国の軍事支援や後方支援を必要なほど追い込まれています。
しかし外交方針を大きく転換した大和国は、百済の支援を打ち切ります。
百済を支援するという事は、新羅と敵対する事になるからです。

馬子の時代までは、敗色の濃い百済から日本列島に押し寄せて来た避難民を受け入れて生活の支援をしています。
大和国には百済王家の王子や高官、その家族、子弟が大勢受け入れられています。
馬子から代替わりした途端の蘇我本宗家の外交方針転換は、亡命百済人社会を大きく揺るがせます。
度重なる懇願に動こうとしない蘇我本宗家を打ち倒さない限り、百済支援は望めません。
百済亡命社会の不穏な動きを察知した蘇我蝦夷と入鹿は、標高148mの甘樫丘を要塞化して、これらの企てを阻止しようとしたのでしょう。
上の御門(うえのみかど)と谷の御門(はざまのみかど)という頑丈な城塞を建設して、飛鳥盆地の中心部にある甘樫丘を要塞化したのです。

その要塞が機能し始める直前に、乙巳の変が実行されたのでしょう。
厩戸皇子の跡継ぎである山背大兄皇子が蘇我入鹿に攻められたのも、こう言う事が背景にあった事件ではなかったかと考えます。

別稿にしますが、斑鳩という場所は飛鳥京の喉元ともいえる重要な拠点です。
そこを支配する上宮王家の山背大兄皇子が百済人勢力を味方に立ち上がろうものなら、飛鳥の命運は尽きてしまう恐れが濃厚です。
そんな噂か、本当に不穏な動きが斑鳩の上宮王家にあったのではないでしょうか?
蘇我入鹿の指令で上宮王家は滅ぼされ、斑鳩の支配権を蘇我氏が直接掌握したのです。
それが山背大兄皇子攻撃事件の動機ではなかったでしょうか?

つまり、百済からやって来た満智(まち)の時代に勃興した蘇我氏は、百済王子の余豊璋(よのほうしょう)らの側近として渡来した百済人一世の中臣鎌子ら亡命政権社会に討たれたのだと考えるほかありません。

柏木宏之の世界での蘇我氏は、突然の大陰謀によって抹殺された大和建国の功労者一族だったという結論に達しました。


更新:2016年8月1日
柏木宏之の世界『蘇我氏を考える11』

『日本書紀』が描く「乙巳(いっし)の変」を中心に読めば、「蘇我は皇統をも汚す不忠の一族だったから、英雄の中大兄皇子と忠臣の藤原鎌足に討ち滅ぼされたのだ!」という「悪の独裁者」に見えます。
しかし、それまでの大和国の発展と安定を誰が築き上げたと言うのでしょうか?蘇我氏がいなければ、あり得なかったのです。
つまり乙巳の変という大クーデターを肯定するために、前政権の蘇我氏が大悪党にされているのです。これは古代の歴史書の政権交代時によくある、単なる常套手法です。

ただ、冠位十二階は蘇我本宗家には適用されませんが、同じ蘇我氏でも傍流には適用されますし、他の安倍氏や大伴氏などには適用されるわけですから本宗家以外の豪族には少なからず不満はあったでしょう。
そもそも古代の家督相続は嫡子相続ではなく兄弟相続が常識だったにもかかわらず、蘇我本宗家は満智以来の嫡男相続だったのですから、同じ蘇我氏の一族には相当ストレスがあったと思えます。
だから同じ蘇我氏でも傍流の倉山田石川麻呂が裏切る動機となったのでしょう。

大和国には推古天皇をはじめとして女帝が多いのも特徴です。
しかし、女帝の皇子があとを継いで即位した例は皆無です。
つまり、女帝は中継ぎ天皇で、その皇子はあとを継がないという不文律が厳然とあったと考えられています。
舒明天皇の崩御後、即位したのは皇后だった宝皇女、つまり皇極天皇です。
それならば、実の息子の中大兄皇子は即位する権利を放棄させられているのです。それが蘇我蝦夷と入鹿の政治でした。
何の問題も無く、蝦夷の妹の法提郎女(ほてのいらつめ)が産んだ蘇我の皇子である古人皇子が即位するという環境が作られています。それは蘇我本宗家が外戚であり続けるために重要な「天皇人事」だったのです。だから母親が即位した時点で、中大兄皇子は自分が即位する事がない事を受け入れていたはずなのです。

だからこそ、中臣鎌子(藤原鎌足)は大クーデターに成功後、皇極女帝を退位させて実弟の軽皇子に初めての譲位をして孝徳天皇を立て、その皇太子に中大兄皇子を就けたのです。

つづく

更新:2016年6月8日
柏木宏之の世界『蘇我氏を考える10』

意外かもしれませんが、蘇我氏は大和国の近代化に極めて積極的でした。

その手助けをしたのが厩戸皇子です。
蘇我馬子・蝦夷・入鹿の三代の時代は、大和国の権力が全て蘇我本宗家に集約されていました。
民主主義の現代からすると、とんでもない独裁政治に見えます。
いや、その通り、とんでもない独裁体制の時代です。
しかし、それが「悪」だったかどうかは、当時の社会環境をできるだけ正確に再現してみないと答えが出せません。

当時の大和国の財政は、蘇我氏によって運営されています。
しかも外交はもとより、軍事権も先進文化も蘇我の大臣に集約されています。
つまり、国内には蘇我氏に敵対できる勢力はいませんでしたから、国内は平和です。
また、朝鮮半島情勢は混乱を極めていますが、海外との交流も蘇我氏が責任を持って平和裏に活動していました。
要するに、極めて平和な時代です。

だから海外の先進文化、文物、人物も活発に導入できましたし、どんどん大和国は先進国化していたのです。
それらは全て、蘇我本宗家の大臣が居ればこその成果でした。
ですから、強力な独裁体制ではありますが、朝廷も領民も、蘇我の体制を「悪」だとは微塵も思っていなかったのです。
むしろ、心から頼りにしていたといえるでしょう。
それが証拠に、推古・舒明・皇極の前半、までは実に暢気に新文化の受け入れによる恩恵を得ていたと思わざるを得ません。
そして、蘇我本宗家はこれまでの豪族連合制度を改革し、実力本位で人物を朝廷に登用する「官僚制度」を実施しようとしたのです。
「でも、それでは大臣の座も将来奪われる恐れがあるのではないでしょうか?」
と疑問をお持ちになるのも当然です。

しかし、当時の蘇我本宗家は、その他の豪族とイコールではありませんでした。
後のことばを借りるなら、「蘇我本宗家は令外(りょうげ)の家」だったのです。
天皇の唯一の後ろ盾で、唯一の執政責任者だったわけです。
つまり蘇我馬子は、有能な若者に冠位を与える側に立っていたのです。

つづく



プロフィール

柏木 宏之Photo
名前:柏木 宏之
生年月日:1958年2月24日
入社年:1983年
出身都道府県:大阪府
出身大学:関西外国語大学外国語学部スペイン語学科(1983年卒)、奈良大学文学部文化財歴史学科(2010年卒)博物館学芸員資格取得
趣味:わが国の歴史の真相を探る、ロジカルな頭脳を養成するために「ナンプレ」で格闘中
何でもひとこと:日本史(先史時代〜縄文弥生古墳各時代、飛鳥藤原平城時代なんでも来い)教科書的なお勉強ではなく、それぞれの時代の人間関係と感情に主眼をおいた研究をして、わが国の歴史を理解するべく研究しています。文化財と呼ばれる物資料にも研究の手を伸ばしています。例えば、「本能寺の変」を捜査本部を設置して真相究明するとか、卑弥呼の時代の魏使たちが辿った道筋を解明してしまいます。現在、MBS歴史研究会「まほろば歴史総研」を主宰。

担当番組


柏木 宏之アナが関岡 香アナを30秒で紹介します!