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柏木 宏之アナウンサーのブログ

柏木宏之学芸員の『話の展示室』

第36回毎日カルチャースペシャル ラジオウォーク
奈良坂の道

更新:2017年3月23日
今年もラジオウォークが開催され、多くのファンの皆様に参加していただきました。ありがとうございます。


今回は「奈良坂の道」というテーマで開催いたしました。飛火野から春日大社東大寺、正倉院を抜けて空海寺や五劫院を通って般若寺まで歩き、若草中学校を通してもらって、転害門の内側から大仏殿の西を抜けて南大門をくぐり、飛火野に戻るという約9.5qの行程でした。
もちろん舗装された現代の道を歩くのですが、天平人が歩いた地面や道も歩きました。今回の私のブログは「信長を考えるシリーズ」を休載して、ラジオウォークのまとめを掲載します。


スタート地点の飛火野は「とぶひの」と読むのが正しいのですが、現在は「とびひの」と呼んでいます。万葉の時代から広い野原で、若菜摘みに天平人が興じた場所だったそうです。このあたりの道は1300年前からほとんど変わっていない道ですね。萬葉植物園は9000坪を誇る庭園に、万葉歌に登場する8割以上の植物が植えられています。そして春日大社にお参りをして、宮司様のお話しを伺いました。昨年、式年造替を終えて真新しく蘇った社殿に手を合わせて山開きをしたばかりの若草山の麓に出ます。若草山の山焼きは東大寺と興福寺の争いから始まったとされていますが、おそらく焼き畑農法の起源を持つのではないでしょうか?現代のような山焼きが始まったのは117年前の1900年だそうです。そして東大寺の寺域に入り、二月堂や三月堂の前に至ります。大仏造営の時に九州宇佐から勧請した手向山八幡宮が目の前です。ここには校倉造の経蔵と宝蔵がありますので、間近でご覧になれます。
二月堂で毎年練行衆によって行われる修二会の解説を伺いながら、正倉院へと向かいました。


正倉院正倉と言うのが正式名称ですが、聖武天皇の遺品や東大寺の寺宝が納められた国宝の倉ですね。正倉の床高は2.7mもあります。それぐらいの高さになると、地面から沸き立つ湿気が倉に影響しないということです。


東大寺の結界域を北に越えたところに空海寺があります。「東大寺別当次第」によると、弘法大師空海が高野山を開く直前の4年間、第十四代東大寺別当として任にあった時の草庵跡だそうです。東大寺は学問寺ですから檀家もありませんし、お葬式もしません。だから結界域の中にはお墓も無いわけです。

しかし結界の外にある空海寺には広大な墓域があります。ここには東大寺の僧侶の墓もありますし、平城宮跡の保存活動に命をかけた棚田嘉十郎さんのお墓もあります。
また、空海寺は東大寺の末寺ですから華厳宗なのですが、同時に真言宗でもあります。これこそが東大寺の八宗兼学の証拠です。東大寺の学僧は八宗すべてを学ばなければならないという大変な学問寺なのです。実は東大寺も華厳宗であり真言宗ですし、興福寺や薬師寺も法相宗であって真言宗でもあります。
それほど弘法大師空海の奈良に与えた影響は大きかったのですね!


さらに北に行くと、いよいよ奈良坂にかかります。このあたりには鎌倉時代に窮民救済をした忍性の痕跡が色濃く残ります。
そして平重衡が焼き討ちをした般若寺です。奈良時代に聖武天皇が平城京の鬼門にあたる般若寺に大般若経を奉納した歴史が残ります。
今回解説をしていただいた帝塚山大学の西山厚教授から、放送終了後に教えていただいた般若寺の話を付け加えておきます。

『般若寺の文殊菩薩は知恵の仏と言う意味よりも「貧窮・苦悩・孤独な人」になって現れる文殊菩薩なのです。叡尊や忍性は、ハンセン病の人を文殊菩薩の化身だと考えていました。だからハンセン病救済の拠点に文殊菩薩を安置したのです。荒れ果てた般若寺の復興は十三重塔を建てることから始まります。
十三重塔は、鎌倉時代の般若寺復興のシンボルです。
昭和時代に般若寺は再び荒廃しました。この時に、先代のご住職が、花の寺にしようとコスモスを植えたのです。コスモスは昭和時代の般若寺復興のシンボルなのです。弱者に寄り添う活動の拠点が般若寺です。十三重塔とコスモスは、まさにそのシンボルなのです。』(以上西山教授のお話しから)


西に進路を変えて奈良少年刑務所の周りを一回りします。明治41年に奈良監獄として建設されたレンガ造りの表門や塀が印象的な場所です。2016年に国の重要文化財として登録されましたが、この3月いっぱいで廃庁されるそうです。
南に進むと多聞城跡があります。ここは若草中学校として知られていますが、元々は松永弾正久秀が奈良を支配するために築城した、最初の近世城郭でした。
それは、織田信長の安土築城に15年も先駆けてのことだったそうです。


急な坂道を登ったり下ったりして、ようやく平坦な道に出ると住宅街。そこに五劫院があります。先ほどの空海寺のすぐそばに帰ってきました。
思惟山五劫院の御本尊である木造思惟五劫阿弥陀座像は、四十八の大願を菩薩として成就し、如来となった瞬間の阿弥陀様のお姿です。とても珍しい仏像ですので一度は拝観してください。この五劫院も東大寺の末寺ですから、華厳宗であり浄土宗です。それは鎌倉時代に大仏殿再建の大勧進を務めた俊乗房重源の開山によるお寺だからなのです。ここにも八宗兼学が大きくかかわってきますね。そして東大寺建立の時から唯一現存する国宝転害門のそばを通ります。
東大寺大仏殿の西側から南大門をくぐって、飛火野に戻りましょう。


今回のコースは奈良時代から平安時代、そして鎌倉時代から室町時代、さらに近世現代ととても時間軸の長いウォークでしたね。
また、じっくり散策すると初期仏教が時代と共に進化して広がりをみせたことがよく解ります。天平人の見た景色を愛でながらシカのいる道を歩くのもよし、現代の奈良をしっかり感じながら道を踏みしめるのもよいでしょう。
皆さんも、もう一度、奈良の都に遊んでみませんか!

更新:2017年2月13日
柏木宏之の世界『織田信長を考える 3』

 さて、安土城跡の踏査は続きます。
天主跡に登ると数多い礎石の真ん中に立ち、真上を仰ぎ見ます。
「ああ、ここに天主があったのか!」と青い空を見上げる感慨も一入です。
天主の構造や姿は全く分かっていませんが、太田牛一が残してくれた『信長公記』やその他の資料を眺めてみると、ほぼその姿が頭の中に現れます。
これまでに高名な研究者が残してくれている論文にも、その構造が細かく表現されています。天主台と呼ばれる、今もその一部が残っている石垣に囲まれた地下のような構造の一階部分は、どの研究者もまず一致しています。
つまり安土天主の入り口をくぐると、そこは真っ暗闇の空間だった?
「いや、そんなことは無かろう」と思い考えてみます。すると、内部は四階ぐらいまでが吹き抜け構造だったという説に巡り合います。
「なるほど、吹き抜けにして明かりを取り込んだとも考えられるなあ」
…、とはいえ、様々な説がありますから何とも言えませんが、私は単純に明かりを取り込むには吹き抜け構造が必要だっただろうなあと考えました。また、信長の事だから常夜灯のでかいのを据えていたんじゃなかろうかと考えます。
もちろん天下の織田信長の城ですから、昼でも夜でも蝋燭をあちらこちらに贅沢に灯せば、明るかったでしょうが、火事を出す危険もありますね。
信長は「火事を出す」事に非常に神経質な人だったようですし…。
信長さんはどう考えたのだろう???と思いつつ、天主跡を歩き回ります。

 そして天主跡に満足して、来た道を帰ろうとしてふと気が付きます。
「あ、この天主を信長は出て、京都の本能寺に向かったのだ!」
すると、信長が最後に見た安土城の情景を思わずにはいられません。
歴史の現場でいつも足の裏から伝わるゾクゾク感が私の脊髄を走り抜けます。
一段一段、慎重に足の裏で噛みしめながら石段を下ります。
そして天皇を迎えるつもりだった本丸御殿の跡から二の丸方向に目を向けると!そこには京都本能寺に向かう信長が今生最後に見たであろう、天主台の大石垣と二の丸に降りていく石垣が目に入ります。

右の石垣が天主台

「これぞ来た甲斐があったというものだ!」と、こんな時に思います。

つづく

更新:2017年1月5日
柏木宏之の世界『織田信長を考える 2』

信長さんの人物像を幼少の吉法師の時代から順に追うなら、様々な本も出ていますし、映画やドラマにもなっていますから、私は信長最後の城、安土城から分析したいと考えました。

 安土城跡という遺跡は滋賀県近江八幡市安土町にある、それほど高くない丘のような山にあります。すぐそばにはもっと標高の高い立派な山城が築けそうな山もあるのに、どうして信長は低い方の安土山を選んだのでしょうか?
それは、安土山が当時は琵琶湖の西湖に山の三分の一以上が突き出ていたという事が理由かもしれません。しかし、それだけの理由でしょうか?
この疑問を解くためには、現場を取材しなければなりません。
さっそく安土城跡に出向きました。
現場付近に行ってみると、どれが安土山やら、景色を見ただけではわかりません。それぐらい平凡な低い丘のような山でした。


大手口からまっすぐ続くゴロゴロした石段が大手筋だそうで、ここで私は「おや?」と違和感を持ちました。
戦国時代の末期に築城された信長の城にしては、あまりにも無防備なのに驚きます。普通なら攻め込まれても迎撃しやすいように複雑に本丸へのアプローチを造るはずなのですが、約130mばかりまっすぐな広い階段が続くのです。
その両側には「伝 羽柴秀吉邸」「伝 前田利家邸」などがあってがっちり守っていたような配置ですが、とても軍勢を入れて防御戦を行う意思が感じられません。しかもこの時代の羽柴秀吉は長浜城主ですし、前田利家は越前にいたはずです。つまりこの邸宅跡が本当に彼らの物であったにしても、これは安土城に登城するときの支度屋敷のようなものではなかったでしょうか?
しかし、織田軍団は有能な家臣を軍団長に任命してそれぞれに与力しながら戦うという軍制ですから、城内の入り口付近に有力な軍団長に屋敷を構えさせて従えるというのは、いかにも信長らしい設計かなとも思います。

 結構な疲労感と共に巨石の階段を上り続けます。
すると「黒金門跡」にたどり着き、さらに登ると本丸の広いエリアに到着します。そこには御殿があったようで、礎石が多く整然と並んでいます。
驚いたことに、その建物を復元してみると、間取りが京都御所の清涼殿にそっくりだそうで、信長はここに天皇を迎えるつもりだったことがわかります。
そしてその御殿よりもはるかに高い所に安土城天主が聳えていたのです。

 普通、城郭の大櫓を「天守」と書きますが、安土城だけは「天主」と書きます。これも信長の心中を察するには重要なファクターかもしれません。

安土城天主跡礎石群

つづく

更新:2016年12月26日
柏木宏之の世界『織田信長を考える 1』

 少し時代を変えまして、中世戦国時代末期に今回は参りましょう。
誰でも知っている「織田信長」という人は明らかに実在の人物です。
皆さんは、この人にどんな印象を持っているでしょうか?
 ○戦国末期の英雄
 ○鳴かぬなら殺してしまえホトトギスという性格
 ○ワンマンで傍若無人な武将
 ○すぐに家来をお手打ちにするような怖い人
 ○キレやすく癇癪を起すと手の付けられない残酷な人
などなど、さまざまでしょうか。
今回は、少し時間をかけて「織田信長」という人を考えてみたいと思います。

 さて、いろいろな小説やドラマ、映画、漫画に織田信長は登場しますから、真実の信長像はわからなくなっているとも言えるでしょう。
そこで、私は太田牛一(おおたぎゅういち)という信長の側近が、ほぼリアルタイムに書き残したと言われる『信長公記(しんちょうこうき)』を参考に考えてみました。

 信長は天文三年(1534)に織田信秀と土田御前の間に生まれます。
幼名は吉法師。後に元服をして織田三郎信長と名乗ります。
で、そもそも織田家とはどんな家だったのでしょう?正式には「織田弾正忠家」といいます。
室町幕府の統治下は各地に管領(かんれい)や守護を置きました。尾張の守護大名は斯波(しば)氏で、その下の守護代に織田家がありました。そしてその織田家には本家と分家があります。分家には三家の奉行家が仕えます。
信長の家は、その三奉行の一家の弾正忠家にすぎませんでした。
その弾正忠家がメキメキと頭角を現し、上位にいる織田家の本家と分家を倒し、斯波氏を追い抜いて尾張の大名になるのです。
つまり下剋上で成り上がった、正真正銘の「戦国大名」の家なのです。

 猜疑心が強く、家来にとってはこれほど仕えにくい主君はいないかのように伝わる信長ですが、本当にそんな人だったのでしょうか?
今回は、織田信長という人物について考えてみましょう!

つづく

更新:2016年10月12日
柏木宏之の世界『蘇我氏を考える12』

では、蘇我本宗家が滅ぼされて、なにがどう変わったでしょうか?

まず、京(みやこ)を飛鳥から難波に遷都しました。そして「大化の改新の詔」で時代が変わったことを高らかに宣言し、元号「大化」を初めて使いました。
公地公民令と班田収受の法を実施して、律令体制を始めようとします。
時代は大きく変わったと言えます。

しかし、支配体制はどうだったでしょうか?
孝徳天皇−中大兄皇子−中臣鎌足(藤原鎌足)という構造です。
政治の指令は鎌足が作成し、中大兄皇子から孝徳天皇に示されて詔とされるのです。
つまり最大の支配者は鎌足とそのスタッフだったという事です。
これは、蘇我氏の立場に鎌足らが変わったというだけの変化になります。
と、言うよりも、支配者が変わっただけだと言えるでしょう。

孝徳朝になって変わった部分も先ほど述べたように色々ありますが、最も大きく変わったのは、実は外交方針でした。
蘇我氏は馬子の時代までは「百済国支援方針」でしたが、蝦夷と入鹿の時代になると、勢力拡大が著しい新羅とも外交を結ぼうという、全方位外交に方針転換されます。
朝鮮半島では、新羅が百済をどんどん攻めて優勢です。百済は大和国の軍事支援や後方支援を必要なほど追い込まれています。
しかし外交方針を大きく転換した大和国は、百済の支援を打ち切ります。
百済を支援するという事は、新羅と敵対する事になるからです。

馬子の時代までは、敗色の濃い百済から日本列島に押し寄せて来た避難民を受け入れて生活の支援をしています。
大和国には百済王家の王子や高官、その家族、子弟が大勢受け入れられています。
馬子から代替わりした途端の蘇我本宗家の外交方針転換は、亡命百済人社会を大きく揺るがせます。
度重なる懇願に動こうとしない蘇我本宗家を打ち倒さない限り、百済支援は望めません。
百済亡命社会の不穏な動きを察知した蘇我蝦夷と入鹿は、標高148mの甘樫丘を要塞化して、これらの企てを阻止しようとしたのでしょう。
上の御門(うえのみかど)と谷の御門(はざまのみかど)という頑丈な城塞を建設して、飛鳥盆地の中心部にある甘樫丘を要塞化したのです。

その要塞が機能し始める直前に、乙巳の変が実行されたのでしょう。
厩戸皇子の跡継ぎである山背大兄皇子が蘇我入鹿に攻められたのも、こう言う事が背景にあった事件ではなかったかと考えます。

別稿にしますが、斑鳩という場所は飛鳥京の喉元ともいえる重要な拠点です。
そこを支配する上宮王家の山背大兄皇子が百済人勢力を味方に立ち上がろうものなら、飛鳥の命運は尽きてしまう恐れが濃厚です。
そんな噂か、本当に不穏な動きが斑鳩の上宮王家にあったのではないでしょうか?
蘇我入鹿の指令で上宮王家は滅ぼされ、斑鳩の支配権を蘇我氏が直接掌握したのです。
それが山背大兄皇子攻撃事件の動機ではなかったでしょうか?

つまり、百済からやって来た満智(まち)の時代に勃興した蘇我氏は、百済王子の余豊璋(よのほうしょう)らの側近として渡来した百済人一世の中臣鎌子ら亡命政権社会に討たれたのだと考えるほかありません。

柏木宏之の世界での蘇我氏は、突然の大陰謀によって抹殺された大和建国の功労者一族だったという結論に達しました。




プロフィール

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名前:柏木 宏之
生年月日:1958年2月24日
入社年:1983年
出身都道府県:大阪府
出身大学:関西外国語大学外国語学部スペイン語学科(1983年卒)、奈良大学文学部文化財歴史学科(2010年卒)博物館学芸員資格取得
趣味:わが国の歴史の真相を探る、ロジカルな頭脳を養成するために「ナンプレ」で格闘中
何でもひとこと:日本史(先史時代〜縄文弥生古墳各時代、飛鳥藤原平城時代なんでも来い)教科書的なお勉強ではなく、それぞれの時代の人間関係と感情に主眼をおいた研究をして、わが国の歴史を理解するべく研究しています。文化財と呼ばれる物資料にも研究の手を伸ばしています。例えば、「本能寺の変」を捜査本部を設置して真相究明するとか、卑弥呼の時代の魏使たちが辿った道筋を解明してしまいます。現在、MBS歴史研究会「まほろば歴史総研」を主宰。

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柏木 宏之アナが関岡 香アナを30秒で紹介します!